【 賽と酔狂 】
◆rmqyubQICI




92 :No.26 賽と酔狂 1/5 ◇rmqyubQICI:07/10/14 23:54:24 ID:be9X9miL
 夜明けの頃。
 まだ薄暗い空の下、その青年はひとり、馬上に佇んでいた。ローマ本国と北伊属州の境、
ルビコン川を前にして、何か深く思い悩むように。
 ただまっすぐルビコンの向こうを見ていた青年は、ふと思い立ったように馬を降り、頼
りない足取りで川に近づく。川縁に立った彼はその場に膝をつき、ルビコン川を覗き込ん
だ。
 本国と属州とを分かつ重要な境界にしては随分細く、流量も少ないルビコン川は、暗が
りの中でも底まで見渡せる。幾重にも折り重なっていて分かり辛いが、底に見える無数の
足跡は、ローマ軍で騎馬に履かせるブーツのものだ。すなわち、騎兵の一団がここを通っ
た印ということになる。青年はただ、じっとそれらに見入っていた。
 そうしているうちに陽はだんだんと昇ってゆき、水面に青年の影が淡く浮かび上がる。
惚けたようにそれをしばらく眺めた後で、青年はゆるゆると立ち上がった。ふたたび愛馬
の背に脚をかけ、目的の場所へと向かう。
 まずは進路を西にとってエミーリア街道に乗り、その街道が走るままに北西へ。よく整
備されたローマの街道だけあって、青年の駆る馬は疲れも見せず、淡々と目的地までの道
のりを消化してゆく。
 その颯爽とした走りに似合わず、青年の表情は、未だ何かに捕われているよう見えた。
明かりに満ちてゆく景色の中で、彼だけがまだ、暗い影の中にいる。ただひたすら走って、
ルビコンの川が見えなくなった頃、彼の声帯が、弱々しく震えた。
「賽は投げられた、か……」

93 :No.26 賽と酔狂 2/5 ◇rmqyubQICI:07/10/14 23:55:29 ID:be9X9miL
 数刻後。街道沿いにただひとつ、ぽつりとある小屋の傍らで、青年は馬を降りた。愛馬
の頭をなでてやり、手綱を手頃な柱にくくりつけておいて、小屋の扉を叩く。返事を確認
し、彼は小屋の中に入った。
「あぁ、お疲れ」
 部屋の奥。座り心地の悪そうな、やけにごつごつした石造りの椅子に、その男は腰掛け
ていた。前方に折っていた体をゆるゆると伸ばし、一転、椅子の背に深くもたれかかる。
その顔には、青年期を脱した者らしい柔和な笑みが浮かんでいた。
 青年は訝しげに眉をひそめ、尋ねる。
「ラビエヌス殿、どうかなされたのですか?」
「ふむ、確かに馬に乗ってきた人間に対してお疲れというのは妙かもしれないな」
 ラビエヌスと呼ばれた男は、こともなげに返答した。しかし青年はいまだ怪訝な表情の
ままで、呆れたように訂正する。
「いえ、そういったこと言いたいのではありません。一昨々日カエサル様の天幕でお会い
したときには、そんな顔をしてはおられませんでしたよ、と」
「ふむ」
 過去を振り返るように目を伏せ、口許に手を遣りながら、ラビエヌスが呟く。その、妙
に余裕を伺わせる口許が、青年をさらに困惑させた。
「確かにあのときの私は、少なくとも、余裕があるといえるような状態ではなかったな。
まぁ状況が切迫していたのだから仕方ない」
「今の方が切迫していると思われますが」
「ほう。そうだろうか」
「当然でしょう?」
 困惑を通り越して、青年は盛大に溜め息を吐いた。この状況を切迫していないというの
は、あまりにずれすぎていないか、と。
「ラビエヌス殿。今の状況、本当に理解しておられますか?」
「あぁ、あの男、カエサルがルビコンを渡ったのだろう。おそらく一個軍団程度しか連れ
ては行けなかっただろうが」
「それが分かっているならなぜ……」
「今更焦っても仕方ない」

94 :No.26 賽と酔狂 3/5 ◇rmqyubQICI:07/10/14 23:56:25 ID:be9X9miL
「今こそ焦るべきところでしょう。あなたも分かっておられるはずです」
 この青年でなくとも、ローマに住まう者なら、みな知っている。ルビコンは本国と属州
の地域的境界線であると同時に、軍事的境界線でもあるということ。そして――
「軍を率いてルビコンを越えることが何を意味するのか、と」
 当然、ラビエヌスもそんなことは理解していた。十年もユリウス・カエサルの右腕とし
て軍団を指揮し、東はライン河を越えてゲルマン人の本拠地に、北はブリテン島との海峡
に至る広大な地域を、副将として駆け回っていたのだ。そのような第一級の軍人が、この
ことを知らないはずがない。
「ええ。カエサル様のしたことは、ローマの国法に真っ向から背くことです。故に今朝、
あの川を渡ったその瞬間に、あの方は国法によって国家の敵と定められた」
 国家の敵となった者は、ローマ法の保証するすべての権利を剥奪される。財産や裁判は
当然、さらに、生きるという権利そのものまで。
「カエサル様は、迷っておられました。その末に、自らの正しさを証明するため、そして
自分と部下である我々の名誉を取り戻すため、元老院を討つことを決められたのです。こ
れがどうして誤りなどと言えましょう。
 ローマの民なら、それも高い階級の者ならば、まず相手の名誉を慮るのが当然というも
のです」
「あぁ、そうだな」
 ラビエヌスはまぶたを伏せながら相づちを打つ。それに続けて、吐き捨てるように言っ
た。
「もっとも、元老院に勝たなければ意味がない」
「ならば……」
 青年の声が、突然低くなる。
「ならば何故、あなたはあの方の下におられないのですか。あれだけ悩んだ末に、どうし
てまだこのような場所のいるのですか」
 語り出した青年の腕が、わなわなと震えていた。しかし、ラビエヌスは何も言わない。
青年の言葉が、ただ淡々と紡がれる。

95 :No.26 賽と酔狂 4/5 ◇rmqyubQICI:07/10/14 23:57:11 ID:be9X9miL
「ポンペイウス殿は、やはり強大です。カエサル様がいかにガリアを、ピレネーからライ
ンに至る広大な領土を制した英雄とはいっても、相手は若くしてキリキアの賊共を一掃し、
同盟によってペルシアの大国を抑え、富に溢れたオリエントを併合した大天才。副将であ
るあなたの助けなくして勝てるとは――」
「いや、それはないな。あの男が争いに敗れるところなど、私には想像もつかない」
 青年の言葉を遮って、ラビエヌスは言った。それを聞いた青年の表情が緩むのを、ラビ
エヌスはどんな気持ちで見ていただろうか。
「私は、ポンペイウス殿の側につく」
 決定的な一言に、一瞬、青年の表情が硬直する。理解できない、そう言いたげな表情の
まま、青年は喉の奥から声を絞り出した。
「なぜ……」
「今更それを聞くのか? 私が悩んでいた理由を、お前はよく知っているだろう」
「悩んでいた、理由……」
 もちろん、青年はそれをよく知っている。しかしそれを知った上で、ラビエヌスがカエ
サルの側につくことを期待していたのだ。
「私の家は代々ポンペイウス家の保護下にある。ローマの市民ならば、彼の下に馳せ参じ
るのが当然、そして義務というものだ。私は私の責務を果たそう。
 それに名誉がどうだというなら、それこそカエサルの側についた私の名誉は一体どうな
る?」
「しかし、ポンペイウス殿は敗れるだろうと……」
「勝敗よりも、まず名誉だ」
「しかし、あなたほどの地位にあって、敗れるということは――」
 言いかけて、青年は気付いた。ラビエヌスほどの武将であれば、仮に戦場で死ななかっ
たとしても間違いなく追手を差し向けられ、いずれは殺される。それでも敗北するであろ
う道を選ぶということ、その意味に。
 絶句した青年に、ラビエヌスは笑みを浮かべて、頬杖をつく。
「まぁ、せいぜい見事に散るとしよう」
 さきほどと変わらないはずのその笑顔が、今度はひどく不敵に見えた。

96 :No.26 賽と酔狂 5/5 ◇rmqyubQICI:07/10/14 23:58:03 ID:be9X9miL
「……では、もうその決意を変えられることはないのですね」
 去り際。去就を確認する青年の声が、名残惜しげに響いた。対するラビエヌスは、これ
までの通り、にべもなく返す。
「そのつもりだ」
「はぁ……。まったく、カエサル様の言われた通りだ。もう我々の側に立って戦うことは
ないだろう、と」
 青年は溜め息まじりにそう言って扉を開いた。しかし、外に向かって一歩踏み出したと
ころでふと何か思い出したらしく、ふたたび小屋の中に向き直る。
「ひとつだけ、カエサル様から質問を預かっております。答えていただけますか?」
「質問?」
 思い当たることもなかったようで、ラビエヌスは問い返す。青年は一瞬ためらったが、
決心したように言った。
「我らが最高司令官カエサルいわく……荷物を送るから行き先を教えろ、と」
 今度はラビエヌスの方が絶句する番だった。数十秒ほどの沈黙があって、ようやく口を開く。
「裏切り者に、荷物を送るから、か」
 呆れ果てたような、しかしどこか楽しげな、ラビエヌスの声。
「まったく、酔狂な男だ」
 青空の下、もうひとつの賽が投げられた。


  了



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