【 Ring-Ring! 】
◆kP2iJ1lvqM




71 :No.20 Ring-Ring! 1/5 ◇kP2iJ1lvqM:07/10/14 23:25:30 ID:be9X9miL
 ヘッドライトが照らし出したのは、三十過ぎの綺麗な女性だった。だが、左の頬が醜く腫れている。
 救急車が徐行をやめて細い路地に停車すると、隣の席からため息が聞こえた。
 もったいない――と、男性隊員の様に私も思った。彼女の腫れていないほうの顔が、同性でも見とれてしまう
ほど整っていたからだ。
「おい近所迷惑だ、サイレンを止めろ」副隊長の賀来が運転手に命じ、刈り上げたばかりの頭をなでた。
 ベテランの賀来は、いつも隊長の私をさしおいて仕切ろうとする。
 自分も見とれていたくせに、と私は思う。
 今にも足元が崩れてしまうのでは、そう不安になるほど覚束ない足取りで、女性は救急車のほうへ近づいて
きた。私は急いで後部扉から降りた。老朽化した木造アパートが目の前にひっそり佇んでいる。深夜の住宅街は
静かだった。吐く息は白く、思わず白衣のポケットへ手を入れそうになる私に、
「帰って下さい」と彼女は言った。何ともないですから、と続ける。
 私は呆然と、化粧っ気のない顔を見た。彼女は悲しそうな目で見つめ返してくる。
「頭を打ったというのは?」一応確かめる。血が止まらない、と119番に通報があったのだ。
「嘘です。私は嘘つきだから、夫にぶたれるんです」彼女は切れた唇を動かした。「さあ。行ってくれないと
また殴られてしまいます。それに、早く泣いてる子供をあやさないと」
 彼女に両腕で後ろへ押しやられ、よろけそうになるが、背中を賀来の手に支えられた。いつの間にか私の背後
に立った彼は、哀れんだ目で女性を見下ろしていた。
「奥さん、腹いせなんてみっともないよ」そう賀来に言われ、彼女は無言でうつむいた。「旦那さんとよく話し
あわないと」
 力で抵抗できないから、相手より大きな権力に仕返しをしてもらう。夫婦間でそんな行為に走る女性は多い。
普通は警察を呼ぶものだが、救急隊員が呼ばれるケースもあった。大怪我をさせたのではと夫に心配させ、溜飲
を下げるのが目的なのだろう。
 悲しい報復だ、と私は思う。話し合って、支えあうのが夫婦だというのに。
「高瀬、行こう」
 賀来が車に乗り込んだ。後ろ髪を引かれつつ、慌てて追いかけた。
 バックで路地を引き返す。女性は身動きもせずじっと私達を見送った。
 帰りの車中は気まずい雰囲気が漂っていた。
「おい、何か盗られてないか?」向かいの席に座った賀来が、忌々しげに私に言う。
「……それは、ちょっと言いすぎじゃないですか」
「さっき揉みあってた時、高瀬のポケットに手を入れるのが見えたんでな」

72 :No.20 Ring-Ring! 2/5 ◇kP2iJ1lvqM:07/10/14 23:26:50 ID:be9X9miL
 言われて白衣のポケットを探ると、何かが指に触れた。記憶では何も入れていなかったはずだ。
 それはダイヤの指輪だった。車内灯の明かりを受け、宝石がいびつに光っている。
「どうしてこんな物を入れたのかしら」
 あの女性が入れた物に違いなかった。他に心当たりはない。
 貸してみろ、と言うので賀来に指輪を渡す。彼はまじまじとそれを眺めた。
「こりゃガラス玉だな。ニセモノだ」
「すごい鑑識眼です」皮肉っぽく言うと賀来は顔を歪め、よく見ろ、とそれを寄越した。
 見れば、確かに宝石の一部が欠けていた。ダイヤでも欠ける事はあると聞くが、滅多に起こる物ではないだろ
う。加えてあの古びたアパートを思い出す。イミテーションと考えるほうが正しそうだ。
「でも、これを私のポケットに入れた説明にはなってませんね」
「お詫びのつもりかもしれん。俺も気になるが、今日は大晦日だ。なぜですか、なんて言うために引き返す様な、
酔狂な真似をする暇はない。返すのは今度にしておけ」
「それは……そうですけど」
 納得がいかず私は指輪を見る。しかし賀来の言うとおり、今日は食事する暇もないほど忙しい。私は諦め、
ポケットに戻した。
 ◇
 待機所へ戻ると、他の班が出払った部屋はがらんとしていた。今年の大晦日も、救命課全三班の隊員は
せわしなく働かされている。私は空腹をかかえて給湯室へ行った。そこには誰かが茹でた年越しそばがザルに
盛られていたので、両手を合わせて喜ぶ。乾いて固くなった部分を取り除いていると、電話のベルが鳴った。
独特の、鈴を振りまわす様な音だ。電話線は災害センターに直通している。
 賀来がくわえ煙草のまま受話器を取るのが見えた。こちらに向かって声を張り上げる。
「二三○四時、駒井町一の四の七より通報。患者は腕を刃物で切られた模様」
 駅前の繁華街だ。賀来は飲み屋の名前を言った。酔っ払いどうしのケンカだろう。
「意識は?」デスクが並ぶ待機所へ戻りながら聞く。
「自分で通報したそうです」受話器を戻すと、一転した口調で賀来は言った。「また小火らしい」
 私は彼を睨みつける。
「士気が下がるので、そういうふざけた事を言わないで下さい」
「ミホちゃんは生真面目なんだから」と賀来は私の背中を叩く。「禿げちゃうぜ。俺みたいに」
 よく日焼けした手で、彼は自分の頭をなでた。周りの隊員達から笑いが起こる。
 いつものやりとりだった。

73 :No.20 Ring-Ring! 3/5 ◇kP2iJ1lvqM:07/10/14 23:27:51 ID:be9X9miL
 K市消防署員の間で、私達の仕事は「火消し」と揶揄される。大ごとになる前に火を消す様なものだからと、
花形である消防課の連中がからかい半分に言ったのが始まりだ。
 十五年前に辞令を受けて転属されるまで、賀来は消防課員だった。その頃の名残りだろう、彼はよく冗談の
材料にする。迷惑も甚だしい。患者や自分達の仕事を馬鹿にする様な口ぶりは、神経を逆なでした。
 一階に続く階段を降りていると、賀来が私の肩に手をかけた。
「ジョークだよジョーク、怒るな。あまり張り詰めると朝までもたないぞ」
 班を実質的にまとめているのは賀来だ。彼なりに色々と気づかっているのだろう。それがまた、悔しい。
 しかし、女だからと見下す人間が多い中で、賀来は本心では私を対等に扱ってくれている。その事には感謝
しなければいけなかった。
 今年の春に彼は肝臓を悪くして入院した。その際にまだ二十代の女性を臨時の隊長に推したのは、他ならぬ
賀来だ。退院してからは、副隊長として補佐してくれている。
「別に怒ってなんか」
 そう言って手を払いのける。と、彼の手に指輪がないことに私は気づく。あれは、銀製のシンプルな指輪だっ
た。いつも大事に薬指に嵌めていたのに。視線を感じたのか、賀来は自分の手を見た。
「ああ、奥さんと正式に離婚が決まったんだ」彼はそう言って微笑む。
「ごめんなさい」顔が火照った。「その……急ぎましょう」
 二人して救急車に向かう。班員の二名は既に乗り込んでいた。賀来は向かいの席に座った。
 車庫を出てから、私は物思いにふける。奥さんと上手くいっていないのは何となく気づいていた。時おり彼の
顔にさす影の原因がそこにあることも。さっきの女性の時だって妙に真剣に――。
 いけない、と頬を叩く。集中しなくては。
 そう思っていると賀来は、こないだ離婚しちゃってさあ、などと他の隊員に軽口を叩く。
「まあ、子供がいないのは不幸中の幸いだった」彼は指輪が嵌っていた場所を見る。「子はかすがい、なんて
言うけどさ。俺達夫婦の場合、結婚指輪が子供のかわりだったなあ」
「どういうことですか?」好奇心にかられた私は聞く。
「恥ずかしいんだが、ちょっとの間、仕事を休んで夫婦で職人に弟子入りしてな。指輪を二つ作って交換
しあったんだ」賀来は顔を赤くしていた。
 自家製だったとは、と私は驚く。彼にそんな面があったなんて。
「あ」と、私は素っ頓狂な声をあげた。ポケットに手を入れ、目を宙にさまよわせる。
 映像が頭を駆け巡った。欠けた指輪、子はかすがい、静かな住宅街……。
「行き先を変えて」そう運転手に告げる。全員、おかしな表情で私の顔を覗きこんでいた。

74 :No.20 Ring-Ring! 4/5 ◇kP2iJ1lvqM:07/10/14 23:29:00 ID:be9X9miL
 ◇
 目的地は二階の角部屋だった。
 鉄製の階段を上ると、アパート全体が頼りなげに揺れる。
 チャイムが付いていないのでノックして呼ぶが返事はない。ドアの向こうで慌しく動き回る気配があった。
ノブを回す。鍵は開いていた。目配せすると賀来はうなずき、彼を先頭に私達は部屋へ突入した。
扉を開くと、父親が息子の体をビニールシートに包もうとしている所だった。
八畳一間の1K。男の子はその中心で青いシートの上に横たわり、父のされるがままになっている。五歳
くらいだろうか、少年の髪の毛にはべったりと血が張り付いていた。押入れと思われるふすまの近くに化粧台が
置かれ、そこから血のりが畳の上を這っている。おそらく化粧台に頭部を打ちつけ、引きずられた。
 父親がこちらを見て目を丸くした。
 捨てるつもりだ、と、私は気づく。
「その子から離れなさい!」
 男は妻を見て、裏切りやがったな、となじった。それから私達のほうへは向かってこず、飛び降りるつもり
なのか窓へ駆け寄った。女や子供しか殴れない卑怯者にふさわしい行動だった。賀来がその背中に抱きつくと、
横倒しで畳に叩きつけ、男を後ろ手に組み伏せる。
 私はその間、急いで子供の体を調べていた。呼吸、脈拍ともになし。頭部打撲によるショックが原因とみられ
た。
 母親は部屋の隅にへたりこみ、呆然となりゆきを眺めている。医師の指示を待つ暇はなく、私はすぐに人工
呼吸を始めた。併せて心臓マッサージも行うと、やがて少年は激しく咳き込んでから息を始めた。
 母親が夢から覚めた様な表情をうかべ、わあわあと泣き出す。
 私は安堵の息をつく。ぎりぎりだった、と思う。間に合ったのは奇跡だ。
 母親が電話をしたのは子供のためだった。だが夫に咎められ、ちゃんと最後まで言えなかったのだろう。私達は
彼女の怪我で呼ばれたと思わされた。
 もしも指輪に託されたメッセージに気づいていなかったら。背筋に冷たいものが走る。
 賀来の声が聞こえ、はっとして顔を上げる。彼は隊員達に指示を出していた。
「急げ、タンカだ。本部にも連絡しとけ。それから高瀬」こちらをきっ、と睨む。
「あ、はい!」無意識に背筋が伸びた。座りながら、私は気をつけの姿勢をとる。
 気が抜けて一年前の自分に戻っていたのだ。賀来は苦笑して、
「警察も頼む」と言う。
 うつぶせに押さえつけられた男のうめき声が、部屋の中に漂った。

75 :No.20 Ring-Ring! 5/5 ◇kP2iJ1lvqM:07/10/14 23:29:59 ID:be9X9miL
 ◇
 救急車の中で男の子は意識を取り戻し、母親の手を握った。
 勤務を終えた翌日の朝、私は事情聴取に応じるため警察署へ向かった。だいたいの事は賀来が話していたので
私から言う事はたいしてなかった。むしろこちらが事情を聞きに来たのでは、というくらい、担当の刑事さんが
いろいろと教えてくれた。
 少年の父親は、普段から虐待を続けていたらしい。そして今日、最悪の事態が起こった。蹴られた拍子に少年は
化粧台に頭を打ち、ショックで呼吸を止めた。母親が慌てて119番に通報したのだが、夫に脅されて私達を帰し
た。あの時、近くで夫が見張っていたそうだ。
 聞かれたので、どうして虐待に気づいたか私も説明した。
 まず、彼女が指輪をこっそり私のポケットに入れたこと。お詫びなら、気づかなかったら意味がない。
 次に、『子供が泣いている』と言っていたのに泣き声が聞こえなかったこと。壁の薄いあの木造アパートなら、
外に漏れていたはずだ。なのに外は静かだった。
 そして決定的だったのが、賀来の話してくれたことだった。指輪が子供。壊れるはずのない、大切な何かが
壊れた。欠けたダイヤが同じことを伝えている気がしたのだ。
 一日中ほめてくれそうな刑事さんに、早く帰らせてほしいと私は頭を下げた。その日の夕方から、再び翌朝まで
の勤務があった。患者は待ってくれないのだから、休める時に休まなければいけない。
 解放された後、重いまぶたを持ち上げながら、私は自転車をこいでアパートに帰った。

 新年が明けても仕事は忙しかった。電話のベルに振り回される日々を相変わらず繰り返している。
 事件以降、賀来とはたびたびデートを重ねる仲になった。
 ばれたら別々の班にされてしまうだろうから署の仲間には教えていない。まだ私の面倒を見てやらないと不安
だ、と彼は言う。安心して見られる様になるまでは隠し続けるらしいが、それはともかく、班がいっしょだと
非番の日も同じなので都合が良い。
 デートと言えば、困ったことが一つある。
 シチュエーションもわきまえずに賀来がお説教を始めるのだ。
 判断が遅い、新人の教育がなっていないと彼は口うるさい。説教の間、頭の中では鈴の音が鳴り響く。
 リン、リン、リン。
 それは過酷な現実に戻る合図で、じつに迷惑だった。(了)



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