【 アリの脳 】
◆iiApvk.OIw




53 :No.14 アリの脳 1/4 ◇iiApvk.OIw:07/10/14 22:21:22 ID:be9X9miL
 アリ太郎は働かない働きアリであった。
 周りのアリ達が寡黙に食料を集め、巣を拡げている中、彼は特に
何をするという訳でもなく、ただ気が向いたら外をぶらつき、疲れたら
巣に戻って仲間たちが集めてきた食料を食うという日々を過ごしていた。

 ある夏の日、アリ太郎は重たい食料を一人で必死に運ぶ仲間に聞いた。
「働きアリさん。そのバッタは重くないですかい」
「重たい。だが食料だ」
 ふーん、と興味のない返答をしてアリ太郎は彼の行動を遠巻きに眺めることにした。
 自分の体重の何十倍もあろうバッタの死骸が、地面を擦りながら巣の方へと
運ばれていく。そして巣が近づくにつれ、周りのアリ達がそれに気付いて手助けを
行うようになっていった。バッタは大勢のアリ達によって巣付近まで運ばれ、そして
狭い巣に入れるための解体作業が始まった。
 彼らの頑強な顎によって、バッタの柔らかい身体は程よい形へと分解されていく。
 そして、その肉片を巣の奥底へと運んでゆき、そしてまた解体を進める。
 その現場を発見し自分も加わろうとする一匹のアリが、退屈そうに様子を
眺めているアリ太郎を見つけた。
「君は手伝わないのかね」
「俺一人が手伝っても意味がない。君もね。何で君は、君達は頑張るんだい」
 アリ太郎は解体現場の遥か遠くを見ているようであった。
「俺が頑張ることによって女王様が喜んでくれる。そして、俺達も冬を過ごせる」
 彼は当たり前の事を言わせるな、と言わんばかりに少し強い口調で答えた。
「だけど、今の俺は食うに困らないよ。巣にいけば食料もある。冬だって
過ごせるだろうな。女王様についてはよく知らないし、何か貢献したいとも思わない」
「そうか。だがそれはとても悲しいことだな」
 そう言い残すと彼は仲間たちの元へと向かった。

 その後姿を追っていると突然、轟音と共に巨大な「何か」が視界を遮った。
 おそらく人間だろうとアリ太郎は思った。

54 :No.14 アリの脳 2/4 ◇iiApvk.OIw:07/10/14 22:22:28 ID:be9X9miL
 人間が去り、視界が戻ったころにはもう、仲間たちの活発な動きは無かった。
 あまりに強大な力の前では、屈強なアリの身体などセミの抜け殻のごとく
脆い。バッタの解体に関わっていたアリ達は、ほとんど踏み潰されて全滅していた。
 その中でただ一匹、先ほど話しかけたアリだけが微かに震えていた。
「全身が潰されてしまったようだ……。もう無理だろうな」
「残念だったな。俺には助けることができそうにない」
 彼は激しく痙攣していた。
「働き者の君が死んで、怠けている俺が生き延びるとは皮肉なものだ。
いつの時代もクズが生き残るんだろうな」
 アリ太郎が自嘲気味に言った。
「ならば、君も働けばいい。餌を集めて巣を拡げて、そして女王様を守れば
いい」
 もう彼の声は擦れてほとんど聞こえなかった。
「俺がやらなくても、いくらでも代わりはいるじゃないか。逆に君が死んでも、
組織は機能していくよ」
「それは嬉しいことだ。安心して死ねる」
 そう言い残すと彼は息を引き取った。
 
 もう既にバッタの解体作業は再開されていた。
 代わりはいくらでもいるし、自分が代わりになる必要も無い。
 アリ太郎は、太陽に照らされて焦げ上がった地面が少し鬱陶しかった。

55 :No.14 アリの脳 3/4 ◇iiApvk.OIw:07/10/14 22:23:29 ID:be9X9miL
「女王様は普通、俺達の何倍も長生きするらしい」
 近くで食料を食べていた仲間達は無関心そうにアリ太郎の話を聞いていた。
「そして女王様の死は一族の死を意味する」
 一人が不快な顔をした。
「だけど、俺が死んでも世界ってのは周るもんだ。仰々しい言い方かもしれないが」
「お前は仕事もせずにいつもふらついているからな。だからそんな事ばかり考える」
 皮肉な笑い声が聞こえた。
「考えないで、ただ馬鹿みたいに食うものを運んできて、馬鹿みたいに土を掘っていればいいんだよ」
 そうか…、とアリ太郎は軽く呟いた。

 眠りに付くと、アリ太郎は必ず夢を見る。
 延々と続く干乾びた大地の上で、方向も分からずに彷徨う自分。
 ただ闇雲に歩いているとやがて辺りが薄暗くなってくる。
 夕日を背に薄気味悪く光る雲と、それを横切るカラスが不安感を
助長する。周りには何もないが、自分の後ろに何かがいる気がした。
振り返ってもその「何か」は素早く自分の背後を取ってしまう。
 そして自分との距離はますます狭くなっていき、その隙間は砂粒一つ入るかどうかも分からないほど狭かった。
 進むべく道など検討も付かず、この恐怖の存在はやがて自分に
接触し、そのまま侵食されてしまうという予感があった。
 彼は押し潰されそうな重圧感に耐え切れず、震えるように空を
見上げる。そこには鮮やかに煌々と輝く満月があって、その光は
彼に正気を取り戻させた。
 再び視線を下ろすと、そこには彼が歩いてきた足跡があった。
 不安をそのまま綴ったように、酷く蛇行していた。
 彼は、自分が進むべき道の存在をその時悟った。
 自ら歩いてきた軌跡を、時間を遡るように辿る。
 やがて背後にいた恐怖はその存在を薄め、完全に消えた頃に
疲れて寝込んでしまい、そして現実の目が覚めるのであった。

56 :No.14 アリの脳 4/4 ◇iiApvk.OIw:07/10/14 22:24:22 ID:be9X9miL
 ある日の朝、女王様が死んだ。
 巣は混乱に陥り、誰もが悲しみと、そして何より恐怖に包まれていた。
「俺達はもう終わりだ」
 悲観的な意見が巣全体を支配する。
 女王の死は巣の死を意味する。そして巣の死は、自らの死を意味するのだ。
 だが、その時なぜかアリ太郎は思った。
 −俺はまだ死んでなんかいない
 それは、彼が人生で始めて覚えた積極的な反発心だった。
 巣は完全に絶望に飲み込まれ、生きる意欲を失う者だけがそこにはいた。
 気付いたとき、アリ太郎は巣を出ていた。

 やがて彼は見知らぬ土地にたどり着いた。
 そこで彼は枯れ木に棲家を作り、食料を自ら探し始めた。
 生きるのには決して恵まれた土地ではなかったが、それでも彼は
生きることに没頭した。時には危険を冒しながら獲物を捕獲したりもした。
 我ながらなんて天邪鬼なんだろうと彼は思った。
 自然とあの夢は見なくなっていた。
 だが、小さなアリという存在が一人で生きるのには、やはり限界があった。
 ある日の夕暮れ、彼はカマキリに襲われて致命傷を負った。
 脚はもがれ、身体は無残に潰された。

 全身が焼けるように痛く、また痛さ以外の感覚は無かった。
 それでも、彼は主張したかった。

 女王様、女王様が死んでも俺は死ななかった。
 女王様が死んだら巣は死んだけど俺は死ななかったんだ。
 そして今、俺が死ぬ。俺が死んだら俺の世界は終わるんだ。
 当たり前のことだが、俺はそれで満足だ。

 やがて彼にしか無かった人生は終わりを迎えた。



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