【 近代酔生小品 】
◆I8nCAqfu0M




10 :No.03 近代酔生小品 1/4 ◇I8nCAqfu0M:07/10/13 17:24:42 ID:FHWXMZxT
 藤野という男がいる。この男は大分昔から古物商をやっているのだが、最近はとんと売れ行きが良くないから
といって店の方は週に三日、気分次第で開けているばかり。自分は、商いが気分次第でやっていかれるものかと
心配したが、当の藤野は全く問題無いといった様子で毎日茶ばかりすすっていた。
 こうした男が趣味の美術品に精を出してよくもまあ贅沢に生きているもんだと、大平の世に心底感動しながら
自分は今、藤野の家で一緒になって茶をすすっている。
「で、今日も霊感を授かるためにここに来たのかい?」
「いや、今日は書き物の事は休みだ。朝から近所の犬がどうのこうのと家の者が騒がしいから逃れてきたんだ」
「なるほど」
 藤野は、こうして自分の気分がすぐれない時や行き詰まった時なんかに話をするのに都合良く出来上がった人
物である。中身は哲学が詰まっているようで、空想が詰まっているようで、どうにも掴み所の無い男であるが話
してみれば面白い。
 ある時藤野の店に、自分も掛け軸の一つでも買ってみようかと思って出かけて行った折に、丁度店先で取引を
しているのに出くわした事がある。交渉の内容はどうやら花瓶の値段らしく、初老の紳士らしい人が、この古び
た花瓶にこの値段では少々割りに合わないのではないかと穏やかに値切っている。なるほど紳士の片手に持たれ
た花瓶はいかにも古臭く、またどこか陰気で湿ったところのある中国風の骨董であった。
 自分は骨董に関しては全くの素人であるから、こうした花瓶の古さは、果たして元より価値を高めるのか低め
るのか、よく分からない様子で眺めていた。すると藤野は紳士の言い分を全て聞き終わるとこう言った。
「確かにこの花瓶は古いものです。骨董だって古けりゃいいってもんじゃありません。時には端が欠けていたり
模様が色落ちして元より美しさで劣る物もありましょう。でもこの花瓶はどこを見たって元のまま。元のままの
懐古主義的な空気に時代が磨きをかけて一層芸術に高まった物なんです。こうして寂れた、もの悲しい雰囲気に
活けるのなら、新鮮で瑞々しいものよりも、少々傷みが始まるかどうかくらいの花が映えるもんなんです。かと
いってわざわざしなびた花を買ってくることもないでしょう。つまり、この花瓶は活けた花の寿命を少しばかり
延ばすという点においても優れているわけなんですな。長年使えば花代だって少しは浮きましょう。そうした利
便性も考慮して、なおこの値段では納得いきませんものでしょうか?」
 とうとう紳士は花瓶の効用についての説明に何度か頷くと、藤野の言値のまま買って去って行った。
 藤野は「浮いた花代でまた奥さんに何かかってやればよろしい」などと勝手を言って笑っていた。

11 :No.03 近代酔生小品 2/4 ◇I8nCAqfu0M:07/10/13 17:25:09 ID:FHWXMZxT
 そうした中々の弁舌家でもあるから、小難しい話からちょっとした打ち明け話まで気軽に話し合ってよく退屈
しのぎをしているのである。
 今日も藤野を訪ねてきたのはつまるところ退屈しのぎである。世間の雑多な煩事を逃れて少しばかり骨休めを
するには安上がりな上、茶菓子と美術品の観覧までついているのだから文句は無い。
 しかし藤野は藤野で猫のような男だから、自分が訪ねて行ったところで別段構う様子も見せず、ただ下女に茶
を持ってこさせて特に話すことも無いといった様子で話を聞き流すばかりだったり、それについて二言三言論評
するだけのこともある。今日の藤野もまた、現実に無関心な目をしていた。
 藤野はいかにもこの世は住み古し過ぎたといった様子で、掛け軸の月とすすき野に没頭している。すすきには
虫が鳴いている。芸術家みたような、仙人みたような面持ちで、自分の話にはうんとかふんとか適当に相槌を打
って、中々こちらを向かない。暫く自分ばかり話した後やっとこちらに向き直ると、今度は藤野が切り出した。
「君はこうして美術品が並べられた座敷を評してよく酔狂だと言うだろう」
「うん」
「それは実に的を射ていると思うよ」
自分は藤野が次に何を言い出すのか考えながら一口茶をすすった。
「たまにね」
と藤野も茶をすすって一息置くと、雄弁家の顔をして語り始めた。
「こんな座敷にも客を通すことがある。そうした時、大抵の人は、この壷は唐代の明るさがあるだのあの絵は実
に影が生きているだのと勝手に評価をつけてしたり顔をしている。それでもって俺とその出来の良し悪しについ
て話し合おうとするんだが」
藤野はもう一度苦い茶をすすって続けた。自分はおとなしく聞いている。
「最近、そうした人たちと話をするのがあんまり下らないことのように思えてきてね」
どうして、と聞いてみた。
「例えばあの黄ばんでふにゃふにゃとした絵」
そう言うと藤野は細い体を捻って、見事な葡萄の欄間に、釘で架けられたいびつな子供の顔を指差した。
「こいつは一見したところ、どうみても面白くないただの落書きだけどね、これは俺が子供の時分に爺さんに書
いて貰った絵なんだ。そうすると、俺の眼から見たこの絵は、他人の眼から見たこの落書きとは大分違ってくる
だろう。絵の心的な印象が変わってくる。俺はこの絵の中に爺さんの骨張った手を見ている。俺の内側には銀杏
が紅葉してきりぎりすが鳴いている。そうした事情のある絵を、他人様が来て好き勝手に巧拙を語るのは、見て
いて馬鹿らしくなるというもんだろう」

12 :No.03 近代酔生小品 3/4 ◇I8nCAqfu0M:07/10/13 17:25:35 ID:FHWXMZxT
 自分はなるほどと思った。同時に藤野の言葉にしてはあまりに陳腐で含みのない、下劣なもののようにも思え
てきた。斯様な過去の形見なら自分も幾らか持っている。それを人に見しておいて、その人の言動を槍玉に挙げ
て会話をしていると思うと、なんだかこの座敷の空気にまで野暮ったいものが煙るように思われた。
 すると藤野はそんな自分の心を察したように、まだ話は途中なんだと言った。それから
「これは俺のちんけなコレクションだけの話じゃあないんだ」
そう言って続けた。
「西洋にはダダイスムという物が流行っている。シュルレアリスムという物がもてはやされている。俺はこれら
の作品に上手く芸術を見出せない。例えば便器を以って『泉』と名付けた人がいる。無論、この人はその便器自
体を芸術として認めていたわけではないし、むしろこうした潮流に終止符を打つべく、芸術のトートロジイ的な
側面を切り落とそうとした試みだとは思うんだが……」
自分は芸術の素養はほんの一握りしか持ち合わせていないものだから、専門的な話になるのかと身構えて聞いて
いた。
「こうした作品が、もし流れに拍車をかけて今後どんどんと増えてしまう想像をすると、俺は胃が裏返るような
心持になるんだ。芸術とは何かという問いに『芸術と名付けられたものこそ芸術だ』と堂々と胸を張って威張っ
ているように思えて、それがなんだか我慢ならなくて、最近の美術の流れに一抹の疑問を差し挟まずには居れな
いんだ」
藤野の言わんとする所はなんとなく自分にも分かった。藤野の芸術観は度々聞かされていたから、次はルネサン
スの話でもするのかと思った。それから自分は、自分の思うところを素人ながら述べてみた。
「ダダイスムはよく知らないが、シュルレアリスムの絵ならこの前妻と見に行ったよ」
今度は藤野が黙って聞いている。
「妻はてんで芸術に疎いから、何を見ても綺麗ねとか素敵ねとか言っていたよ。そう言って自分も大して分かる
口じゃないんだから、適当に見ながらこの月の絵は良いねとか言いながら、しまいには妻と額縁が凝っているな
んて話までしたんだが」
藤野はにこりともせずに頬杖をついて聞いていた。茶菓子の最中は口をつけられずに置いてある。
「あれは詩だね」
速やかに結論を述べた後、自分は冷めた茶を一気に飲んでまた話し始めた。
「見た目に美しい物ばかりが芸術と呼ばれるんでなく、美しい予感を抱かせる物にならなんだって、充分過ぎる
ほど芸術と呼ばれる資格があるんだろう」
藤野は今日、初めて自分の前で笑った。白い歯を見せて少年のように、にこにことしていた。


13 :No.03 近代酔生小品 4/4 ◇I8nCAqfu0M:07/10/13 17:26:05 ID:FHWXMZxT
「全くその通りだよ」
藤野は少し茶化すように言った。自分は褒められているのか馬鹿にされているのか分からない気持ちになった。
「君の言う通り、美しい予感をさせるものなら多分なんだって芸術なんだろう。でもそう仮定すると、行為から
自然からなんでもかんでも芸術に分類されて、一体芸術というものがぼやぼやした靄みたいなものになってしま
うだろうね」
自分は確かにそうだろうかと考えながら最中を頬張った。
「こうやって何も作らずに芸術を語るばかりだと、きっと最後には各々の価値観次第だなんて、灰色で面白味の
無い問題に辿り着くんだろうね。そうして直面した価値観の壁から先は個人の領域だからどうしようも無い。そ
れ以上踏み込もうとするなら、無理矢理にでも他人の心を覗き込んで霧々とした過去の情景の中を行ったり来た
りすることになるだろう。でも、それはもう芸術の問題じゃなくなってる」
 その時下女がやって来て藤野に、そろそろ誰々さんがいらっしゃる時間ですと教えた。藤野はうんと答えると
もう一度あの絵を眺めて、それからまたこっちを向いた。
「そういう事だから、君もそろそろ帰って、芸術を生み出す作業に戻るべきだろう」
自分はそこでやっと藤野の時間潰しの上手さに驚かされて、それなら先に言ってくれれば自分も下手に芸術なん
て語らなかったのにと思った。最中はうちで食う物より甘かった。
「それじゃあまた」
 そう言って自分は藤野の家を後にして自分の家へ帰って行った。途中で犬が子供とじゃれついているのを見て
微笑ましく思った。
 夜、自分はゆっくりと夕食をとってしばらく団欒した後、しみじみと藤野の絵のことを思い出してみた。

いにしへの稚児見つめたるきりぎりす

 我ながら酔狂ぶった句を詠んだものだと思って、気恥ずかしくなってすぐに布団に入った。



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