【 負けるなら逃げよう 】
◆YaXMiQltls




93 :時間外No.01 負けるなら逃げよう 1/4 ◇YaXMiQltls:07/10/08 01:53:56 ID:GHgD87hW
 最近、本が読めない。興味が持てないのだ。何もかもどうでもいい。古典なんて古臭い。
ラノベなんてくだらない。信頼している批評家が絶賛していた聞いたこともない外国の現
代作家の小説を読んでみても、世界は広いなと思うだけだ。つまり俺には関係ないと思う。
かと言って、日本人の同世代の作家の新刊を読んでみても、そんなこと知っている。と思
う。もう小説なんて読まない、人生の貴重な一瞬を少しでも実生活に意味のあることに使
わなければならない、と株の入門書を読んでみるも、実際に株をやるならこの著者自身が
自分のライバルになるのだ、と気づくと勝ち目がないのでやる気をなくす。
 今日は本屋で思いがけず集めている漫画の単行本の新刊を見つけたので、嬉々としてレ
ジに持っていったのが、「四二○円です」と言われたときに、同じ値段で本を買うならシェ
イクスピアの文庫でも買うべきなんじゃないかと思うと、ひどく無駄な出費に思えてきて
「やっぱりやめます」と言った。その足で文庫売り場にいくと、新刊の棚に昔単行本で買
おうとしたら五〇〇〇円近くして諦めた哲学書がたった数百円で出ていたので手にとって
みたが、同じ著者の別の本がまだ数ページしか読んでないままに本棚で埃をかぶっている
のを思い出したので、本を棚に戻した。だったら軽いエッセイでもと、有名なエッセイス
トの本をペラペラと立ち読みしてみるも、なぜ赤の他人の生活をこんな気取った文体で読
まされなければならないのだ、と憤ってやはり本を棚に戻す。

 本屋を出ると日が暮れかけていて、時間を確認してから季節が知らない間に変化してい
たことに驚く。それから駅に向かって歩いていくと、見慣れた顔が向こうから歩いてくる
のに気づいて俺は手をあげる。同じゼミの山田だ。
「よう」
「おう、何やってんの?」
「本屋行って今帰り。おまえは?」
「映画見に行くところ」
「何みるの?」
 山田が答えた映画を俺は知らない。
「何それ?監督誰?」
 それが俺の好きな監督だったから俺は驚く。新作を撮っていたことさえ知らなかった。
山田に着いて行って映画を見ることにする。事前に上映時間を確認すると百五十分で、予


94 :時間外No.01 負けるなら逃げよう 2/4 ◇YaXMiQltls:07/10/08 01:54:58 ID:GHgD87hW
告を含めれば三時間近くになる。起きていられる自信がない。映画館で映画を見るのはい
つぶりだろう。
「おまえ、映画館とかよくいくの?」
 と山田に聞いてみる。
「そんなに行かないけど、まあ話題作くらいは見てる」

 正しい。文学部の学生として、非常に正しい。別に映画を専攻しているわけではないの
だから手当たり次第に見る必要はない。けれどテレビでは絶対取り上げられないようなこ
の単館上映の映画を話題作と言ってしまうところからして、根本的に正しい。そして話題
作の上映を知らなかった俺は、話題に乗り遅れている。
 話題作が話題作である所以は、文字通り話題になっているからであって、だから話題を
耳にした者だけが、その作品を話題作と呼ぶ権利を持つのだ。ここで大切なのは、話題が
交わさせる場に身を置いていなければ、そもそもの話題が入ってこないということだ。つ
まり山田はその場に居合わせていて、俺は居合わせていなかった。テレビばかり見ていた
からだ。そこはいろいろなところにあるがテレビの中にはない。

 映画が始まった。ファースト・ショットが五分くらい続いた。ああこの感覚。かつて俺
を魅了したこの感覚。全てを肯定せざるを得ない絶対的な正しさ。それだけで俺は感動す
る。

 初めて彼の小説を読んだ日のことを俺は覚えている。昼過ぎのカフェだった。俺はなん
となくに買ったその本を、さして期待せずに開いた。暇つぶしだったのだ。待ち合わせに
遅れると言った、そのとき付き合っていた彼女を待つための。
 俺は今はもうない地元の駅前の大きな本屋でその本を買った。それから向かいのチェー
ン店のカフェに入って、ブレンドコーヒーを頼んで、喫煙席に座る。高校生だったけれど
も、俺はセブンスターを一本取り出して百円ライターで火をつける。たぶんまだその手つ
きは慣れないものだった。俺が煙草を吸いだしたのは、彼女と付き合ってからだったから。
きっと、まだ。
 俺の座った席は大通りに面した二階の窓際のカウンター席で、眼下の交差点には多くの

95 :時間外No.01 負けるなら逃げよう 3/4 ◇YaXMiQltls:07/10/08 01:55:35 ID:GHgD87hW
人が信号待ちをしていた。彼らは皆傘をさしていた。強い雨が降っていたのだ。その日は
台風が来ていたのだ。夏休みの後半の平日だった。俺たちは受験生で、その日も図書館で
一緒に勉強するために待ち合わせをしたのだった。止まった電車は動かずに結局彼女はこ
なかった。電車は動かないけれどメールは届いたのだ。けれど俺がそのメールに気づいた
ころには、雨はやんでいて、店内に夕日が差していた。俺は読み終わった本をかばんに戻
したときに、携帯の着信表示に気づいて、返信した。
……俺、文学部っていいかなって思った。まあ明日には気が変わってるだろうけどね。
 
 映画が終わった。エンディング・ロールの最中に山田が
「出ようぜ」
 といって、俺たちは席を立つ。ロビーに出るなり山田が聞いてきた。
「おまえ飯食った?」
「まだ。家帰って食おうと思ってたから。そもそもこれ見る予定じゃなかったし」 
「んじゃ、何か食ってこうぜ」
 俺たちが入ったのはチェーン店の居酒屋だった。なぜ居酒屋なのか、と説明する意味は
ここまで書ききった俺にはもうないので説明はしない。
 
 こう書いてしまうと、そこで話した会話を書くことさえ、俺には馬鹿馬鹿しく思える。
問題はそれを書かなければ、この小説が終わらないということだ。もっと重要な問題は、
その説明のために、俺はせめて簡略してでもこのあとに起きたことについて書かなければ
ならないということだ。
 ここで俺と山田は、見てきたばかりの映画について論じる。それは実際には大したこと
はなかったが
 パソコンで文章を書くとき、一番便利なのは、書いたことを簡単に消せる点にある。お
察しのとおり、俺は、前の段落の後半を書いたが、消した。バックスペースキーを押すと、
簡単に文字が消えていく。原稿用紙に鉛筆書きした文字を消しゴムで消すときのような跡
さえ残らない。本当になかったことになる。だから、消したという痕跡の残すために、俺
はこの二つの段落を必要としている。

96 :時間外No.01 負けるなら逃げよう 4/4 ◇YaXMiQltls:07/10/08 01:56:16 ID:GHgD87hW
 ともあれ、俺は山田と映画について話した。俺は絶賛した。山田は批判した。山田は、
俺の信頼している批評家たちもこの映画について批判していたことを俺に伝える。俺は俺
が間違っていると思う。俺たちはそれぞれの家に帰る。俺は彼女のことを思い出す。それ
から彼女のことを思い出した映画のことを思い出す。俺の中にその映画を肯定しなければ
いけないという義務感が生まれる。俺はパソコンに向かい、ワードを開く。俺は何も書け
ない。俺にあるのはただ何かを書かなければならないという義務感だけだ。
 なぜ「書く」という選択肢だったのかは今でもわからない。誰か教えてほしい。ともか
く俺はこの文章を書き始める。

 そして誤算が生じる。俺は満足してしまったのだ。彼女のことを書き終えた時点で。そ
の瞬間に俺は続きが書けない。予め用意してあった結末への道筋を辿ることが困難になる。
最後の一文は決まっていたのに。最近、本が読めない。書き出しの一文だ。
 ここに一つの矛盾が生じる。書けないことに辿り付いたのなら、書き出しの一文は、「読
めない」でなく「書けない」でなければならなかったはずだ。
 やめよう。
「すべて」は文章の所在を曖昧にするためのレトリックなのだ。

 だから僕は最後の一文を改める。

 この作品はフィクションです。実在の人物、事件、団体などにはいっさい関係ありません。






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