97 :時間外No.02 その後 1/6 ◇ANALinbXy.:07/10/10 23:02:03 ID:hrt7wxaE
枯葉を舞い上げながら電車が到着した。甲高い金属音をたてて列車が止まり、半自動の扉が開いた。葉山は身
を硬くしてホームに降りる。無意識についたため息は白くはないが、車内と比べれば寒い。
人の流れに従い階段を登りると声をかけられた。懐かしい感じの声だった。
「もしかして葉山くんだよね。覚えてる?」
葉山が足を止めると、流れが澱んだ。
あわてて葉山が足を進めると、北河もそれにあわせた。
「北河さん? 久しぶり」
「同じクラスだったのに忘れてたでしょ」
「そんなことはないよ。ぼーっとしてたんだ」
「ほんとう? でも雰囲気変わったよね。丸くなった感じ」
「まあ実際、太ったけどね。卒業してから走ってないし」
それでも葉山は標準的な体つきをしている。
「……やっぱり。なんか、カドが取れてる感じだよ。今から帰るの?」
葉山にその自覚は無いが、北河にはそのように見えるのだろう。二人は並んで改札を出た。さっきまで茜色だ
った街は色味を失いつつある。少し風が出てきた。葉山は身を縮めた。
「そこでバイトしてるんだけど、微妙に時間が余ってるんだ。北河さんは?」
葉山は駅前のファッションビルを指した。
「へえ、意外。やっぱり人って変わるものね」
昔はしゃれっ気がなかった、と言いたいの だろうか。
高校の時の北河は派手な方のグループにいて、何かと目立つ存在だった。それからすると、今の北河こそ印象
が違っている。
北河が携帯を取り出し、時間を確認する。
「私も予定は無いかも」
風が街路樹を揺すり、枯葉が力なく落ちた。
ビルの中のコーヒー店に入ると、二人は連絡先を交換した。高校は携帯電話の持ち込みが禁止だったので、不
思議な感覚がする。
話題はとめどなく移ろいだ。
「じゃあ店員じゃなくて、上の事務所でチラシを作ってるの?」
「まあ雑用係みたいなもんだね。チラシもやるし、店内イベントの会場設営みたいなのもやるし」
98 :時間外No.02 その後 2/6 ◇ANALinbXy.:07/10/10 23:03:15 ID:hrt7wxaE
「ふうん。なんか安心した。葉山くん服装もだけど、全体的に雰囲気が変わってたから、オシャレな人になっち
ゃったのかと」
「俺ってそんな風に見られていたのか」
「葉山くんの堅い感じが良かったの」
全く変わっていないという訳ではない。大学に入ってサークルには所属せず、一人で小説を書いている。
グラウンドを走っていた高校生活とは程遠い毎日だ。推薦で進学できるような記録は出していなかったが、そ
れなりに充実はしていた。
「そういえば沙代子、結婚したらしいよ」
――南野沙代子。葉山にとって忘れえぬ名前。二年も前のことだ。
「本当? 大学に行ったんじゃないの?」
「詳しくは聞いてないけど、デキ婚で、そのまま中退だって。もったいないよねー」
酷く乾いた物言いに葉山は感じた。記憶が正しければ、北河も同じグループにいたはずだ。
「なんかあんまり驚いてないよね。沙代子にコクったことあったんでしょ?」
「すぐあきらめたよ」
最初からチャンスなどなかった。今振り返れば、青臭い話だ。
「優勝したら、付き合うって約束したんだよね」
「めちゃくちゃな女だったよ。最初から付き合う気なんて無いのにね。しかも怪我してたのを知っててそんなこ
と言ったんだ」
「でも好きだったんだよね」
「恥ずかしながら」
葉山の携帯が鳴った。北河からの確認メールだった。
「たまに連絡してね」
「分かった。ああ、そろそろバイトの時間だ」
*
葉山はその試合を最後に引退した。半年後には受験が控えている。
次の日、昼休みに図書室で自習をしていると、国語の教師が葉山の隣に座り、いきなり、
「恋愛は先に本気になったほうが負けだ」
と言った。葉山の話は職員室にも届いていたのだ。
99 :時間外No.02 その後 3/6 ◇ANALinbXy.:07/10/10 23:04:22 ID:hrt7wxaE
葉山が怪訝な顔をするとさらにこう続けた。
「だが葉山よ、恋愛はそのほうが楽しいんだよな。そして俺も負けっぱなしだ。言うなれば敗北人生だ。ちなみ
に辞書を引くと、『北』は逃げるという意味だ。これ豆知識な」
「沼沢先生、結婚してるじゃないですか」
「ああ、嫁さんには頭が上がりません」
国語教師は胸をはってそういった。
「人生における敗北とはまさにこのこと」
すると、国語教師の口調が急変した。
教科書の評論文を読む時の、形式張った調子になる。
「葉山真。それは現実に対する認識の問題である。敗北と捉えるか否かの判断は常に物語の主人公に委ねられて
いるのだ」
「そうなるとそれは敗北ではないのでは」
「まあ、何が言いたいかっつうと、そんなに落ち込むなってことだ。大学に行けば女なんていくらでもいるぞ。
これをバネに頑張ろうと思えば、まあ頑張れるもんだ」
いい加減な教師だった。ただ、葉山は今でもこの日のやり取りを憶えている。そして、それを聞いて気持ちが
いくらか楽になったことも。
*
北河に会って以来、葉山は高校生活をよく思い出すようになった。とくに小説を書いている間、当時の沙代子
への気持が酷くリアルに蘇った。これまでにそういう感情はあったが、本気になったのは沙代子が初めてのこと
で、葉山は完全にコントロールを失っていたのだ。大学に合格したときは、本人よりも担任が一番驚いたほどだ。
今さら後悔している訳ではない。ただリアルに、まるで高校生に戻った感覚に陥るのだ。それを客観視する自
分もいるのだが、何度もその時の記憶を反芻することで、葉山は二年という時間の遠近感が狂ってしまった。
小説を書くのを一時中断した。
しばらくして、北河と駅で会うことが多くなった。北河いわく、後期になり大学の時間割が変わったためらし
い。自然と、バイト前の時間を二人で過ごすようになった。
「――思ったとおり。こないだ会ったときに変わったって言ったけど、やっぱり変わったよね。小説書いてるな
んて、クラスの皆が聞いたらびっくりするんじゃない? 陸上部のときの、『触るもの皆キズつける』ようなあ
の感じから、想像もつかないよ」
100 :時間外No.02 その後 4/6 ◇ANALinbXy.:07/10/10 23:05:18 ID:hrt7wxaE
「そうだったかなあ」
「全然違うよ。今の葉山くんも結構素敵だけど」
「君も素敵だけどね」
「ほら。そんなこと軽々しく言う人じゃなかったもん」
北河が控えめに塗られた唇をコーヒーカップにつける。葉山もつられて熱いコーヒーを飲んだ。
「そんなに書けないなら、私がカウンセリングしてあげるよ。一応そういうの勉強してるから」
「カウンセリングって?」
「あのことがトラウマになってるんだとしたら、それを辿るの」
北河は看護系の学部がある大学に通っている。おとなしめ女の子が多い、いわゆるお嬢様学校だった。高校の
ときの北河だったら、季節に関係なく肌の露出の多い服を着ていたのではないだろうか。朱に交われば、という
話なのだろう。
「そうか、北河は看護だったっけ。でも言うほど大げさなものじゃないけどなあ。本当に高校に行くの?」
「久しぶりだし、行ってみようよ」
ついていた頬杖を解いて、身体を寄せる。大きな瞳が葉山を見つめた。
北河の二年間を思う。
不良とは言わないまでも、それに近いだろう男友達とよく連れ立っており、葉山とは縁遠い生徒だった。放課
後には迎えの車に乗り込むところも何度も見た。
それだけに小動物じみた、ともすれば媚びるような仕草にこの二年間に起きた、何かを感じるのだ。やはり、
交流関係も変わったのだろうか。
ともかく、悪い気はしなかった。
「よく分からないけど、行ってみようか」
北河が座る位置を変え、足を組んだ。さらに葉山との距離が縮まる。熟れた果実に似た、丸みを帯びた仕草だ。
十月に入ってからはずっとこの調子で、二人はこの店でバイトまでのひと時を過ごす。時間が来ると、自動ド
アの前まで葉山が北河を見送る。
「それじゃあ、明日」
「うん、駅前で」
客が出入りするたびに、二重になっている自動ドアから冷たい風が吹き込む。髪の毛を押さえながら北河は手
を振った。枯葉の匂いと北河の匂いが混じる。葉山も手を振った。
101 :時間外No.02 その後 5/6 ◇ANALinbXy.:07/10/10 23:05:46 ID:hrt7wxaE
葉山は待ち合わせの十分前に到着し、北河はその五分前に待っていた。
高校は駅からバスで十五分程度のところにある。
「時間もあるから、少しだけ歩いてみようよ」
そう言ったのは北河だった。
雲が無く晴れた日だった。遮るものがない分、日差しは強かったが、真夏のそれと比べたら歩くのに問題はな
さそうだった。土曜日の昼となると、担任や沼沢がいるかどうかは分からない。部活の顧問をしているならいる
かもしれないが、いない可能性のほうが高い。
だから、カウンセリングなどというのは口実なのだ。そもそも小説など、本気で書こうとも思っていない。
書けなくなったことと高校の時を思い出すことに因果関係はほとんどないのだ。葉山自身もカウンセリングは
二の次だった。
「卒業して以来だから二年ぶりかな。懐かしいなー」
「俺も同じだよ。あ、でも後輩の試合を見に一度だけ行ったかな」
疲れたらすぐに乗れるよう、二人は駅から高校までのバス路線を辿った。葉山は自転車で通学していたので、
あまりなじみの無い道だった。
「沼沢先生、元気かなあ」
北河が国語教師の名前を口にした。
「ああ懐かしいなあ。まだ転任はしてないだろうからもしかしたら会えるかもね」
不意に図書室でのやりとりを思い出す。ネルシャツの袖をまくり、茶色の縁のメガネをくいくいと動かしてい
るのが印象的だった。
「あの人、見た目以上に若かったよね。けっこういい年してたような」
「きっと奥さんが努力してたのよ」
「あー、なるほど。女の子はそう考えるか。
そろそろバスに乗らない? ヒールだと歩きづらいだろ?」
バス停が数十メートル先に見えていた。結構長い距離を歩いていたので、むしろもっと早く気づくべきだった。
地方都市の土曜日の昼とあって、バスの中は閑散としていた。成人が二人がけの椅子に座ると窮屈になる。北
河は身体が密着しても頓着していないようだった。
高校は休日でも部活をしている生徒がおり、校舎からは金管楽器のスケールをなぞる音が漏れ、グラウンドで
は野球部が声を張り上げている。葉山の後輩にあたる陸上部は練習をしていないようだった。
運が良かった。
職員室には国語教師がいた。若干肉付きが良くなったが基本的には相変わらずで、茶色の縁のメガネに大きめ
102 :時間外No.02 その後 6/6 ◇ANALinbXy.:07/10/10 23:06:51 ID:hrt7wxaE
のシャツというラフな格好をしている。
「お、懐かしいなあ。差し入れでも持ってきたのか?」
「不出来な生徒ですので、差し入れはありません。冷やかしに来ただけです」
仕方のないやつだなあ、と言って沼沢は赤ペンを置いた。椅子をゆっくりと回転させ、二人のほうを向く。
「それにしても葉山と北河とは妙な組み合わせだな。お前ら付き合ってたのか?」
二人が視線を交わせながら、返答に詰まっていると、
「そこまでの仲でもないのか? うーん、南野の次は北河か。南に行ったり北に行ったり、葉山も忙しいなぁ」
ずれてもいないメガネをくいくいと動かす。にこやかな表情で、からかうような口調で、国語教師は喋った。
「なに言ってるんですか? 俺は別に『北側』に逃げた訳じゃないですよ。最初から俺は北河に負けてますよ」
「お前、上手いこと言った気になってるけど、全然上手くないからな。見ろ。彼女が取り残されてるじゃないか。
ひとりよがりはいかんぞ」
「どれも先生の教えです」
もう一度、仕方のないやつだなあ、と沼沢が言った。
帰りのバスに乗るころには気温が下がり、秋めいた風も吹いてきた。狭い椅子に二人は密着して座る。
「さっきの先生とのあれなんだったの?」
うっすらとは勘付いている。探りを入れているのだ。
「南野沙代子がらみで少々」
「ふうん。意味深ね」
「そういえば、このタイミングで言うのもあれだけど、沙代子、離婚したんだって」
「本当?」
信じられないというより、リアリティがなかった。沙代子の情報はすべて北河からの伝聞なので、結婚して大
学を辞めたという話も実感がない。
「なんかもう、完全に人生失敗しちゃったよね、沙代子。ほんとどーすんだろ」
自分を適当にあしらった女の顛末なんか、もうどうでもよかった。恨みが晴れて気持ちがいい、というような
感情も無い。あの夏に自分を振った女が結婚して離婚した。ただそれだけのことだ。
「勝ち組とか負け組みって、すごく嫌な言葉だけど、沙代子はそうなっちゃうのかなぁ。そうなるんだろうなぁ。
なんかすごく嫌」
北河が胸を膨らませて、細長い息を吐く。
何の気休めにもならないし、自分でもそう思っていないが、国語教師の口調を借りてこう言った。
「北河由紀。それは現実に対する認識の問題である」