86 :No.20 気がつけば 1/5 ◇h97CRfGlsw:07/10/08 00:30:31 ID:GHgD87hW
首を吊ろうと思って、以前近くの工事現場後から持ってきていた麻縄で簡易絞首台を作った。部屋にあったハンガー代わりのぶら下がり健康器を限界まで高く伸ばし、縄をくくつけて先端で小さな輪を作りそれっぽくする。
縄の遊びの部分の少ない、ずいぶん不恰好なものになってしまった。ためしと輪に首を通してみるが、高校生にもなって小学生のような背丈の私でも床に足がついてしまう。健康器に何冊か雑誌を踏ませると、何とか私を殺すに十分な高さになった。
なんだか疲れてしまい、私は絞首台の前にぺたりと座り込んだ。輪の向こうに窓から覗く満月が覗いている。真っ暗な部屋を青白く照らし、惨めに俯く私をも浮かび上がらせる。
膝を抱いて、腕の中に頭を埋める。諸所切れ目の入った制服のまま、私は学校から帰るなりずっと部屋の中に引きこもっていた。時々母が心配そうに声をかけてきたが、全て無視した。
私は、虐められている。なんのことはない、ただそれだけのことだ。切り刻まれていた制服もその一環に過ぎない。水をかけられ、お弁当をお茶漬けにされ、髪を掴まれ殴られた。今日だけでも、何をされたか数える気にもならない。
学校には居場所なく、行けば虐め倒され、惨めな思いをしてとぼとぼと家に帰る。唯一肉親の母とも言葉も交わさず、部屋に篭り、朝を迎えて学校へ行く。そのループを繰り返す生活のせいで、私の目の前には今、絞首台がある。
ぐす、と鼻を啜る。虐められているというだけのことで、私はもう生きていたくなくなってしまった。でも、誰がそんな意気地のない私を責められようか。誰も助けてくれない。どうせ誰も助けられなどしないんだ。みんな大嫌いだ。
癇癪を起こし、私は手近にあった学生鞄を壁に向って投げつけた。ファスナーが壊されているので、中身が散乱する。飛び出てきたぼろぼろになったノートを睨みつける。歯を食いしばって溢れそうになるものを堪えながら、私は絞首台の前ある小さな椅子の上に立った。
輪に首を通す。ひんやりとした感触が私に鳥肌を立てさせた。このまま一歩進めば、私の首は捻挫し、一瞬のうちに死ねるのだ。死ねるはずなのだ。死ねるはずなのに、その一歩が踏み出せない。足がすくんで動けない。
顔を突き出して輪に首を通すという間抜けな格好のまま、私は固まっていた。動悸が早くなり、なにもしていないのに呼吸が乱れてくる。気がつけば歯がカチカチと音を立てていた。泣きはらして火照っていた顔が、妙に冷たい。
ぼろぼろと涙が溢れてくる。今更になって怖くなってしまった。怖くて仕方がない。死にたくない。輪を両手で掴みながら俯いて、涙が床に落ちていくのを眺める。やっぱり私は、とことん意気地なしな奴だった。死ぬことすら出来ない――
――ん? 台座の上でカタカタ震えていると、不意に頭の中に疑問符が浮かび上がった。そもそも何故私が死ななくちゃいけないんだ?
涙が止まり、顔に血が戻ってくる。そうだよ。よくよく考えれば、なんで私が死ぬ必要があるんだろう? こんな絞首台まで作ったりして、私は一体何をしているのだろうか? そう思うと、急に心が冷めてきた。
虐められたくらいでなんで死ななくちゃいけないんだ。こんな大掛かりなセットまで作っておいてなんだが、まったくもってこんなことをしている私は果たして馬鹿か?
私は絞首台からぴょいと飛び降りるとぶら下がり健康器にミドルキックを決めて蹴飛ばした。こちらを見上げるように横倒しになる絞首台。縄はなにかに引っかかったのか、するりとほどけてしまっていた。
頭に血が上っていたのか、もとい顔から血の気が引いていたせいなのかは知らないが、どうも私は平静を失っていたようだ。確かに虐められているのは辛い。死にたくなる時だってある。実際、こんな自殺未遂に及んでしまった。
でも死ぬことはないじゃないか。ああ、危なかった。ローテンションに任せて昇天してしまうところだった。思い返せば、遺書だって書いてない。これでは虐めっ子連中に仕返しすら出来ない。
深呼吸をして気を落ち着ける。私は一体なにをしているんだとは思ったが、同時にそれは私はそれほどまでに追い詰められ、気が動転していたということなのだろう。
妙に頭が冴えていた。変にクールな私。私クール。愚かにも自ら命を絶とうとしたことで、動転した理性が慌てて帰ってきてくれたのかもしれない。危なかった。思い余って死ぬところだった。
87 :No.20 気がつけば 2/5 ◇h97CRfGlsw:07/10/08 00:31:03 ID:GHgD87hW
私は今、死んだ。死んだと考える。虐められて、私は一度自殺して、いまこうして生き返った。そう考える。そう考えることにした。生まれ変わった私は、もう虐めには屈さない。死ぬ程の意思があれば何でも出来るんじゃん?というのは自殺未遂者に対する意見の多数派だ。
頑張れ私。虐めなんかに屈して死んでいる場合ではないだろう。私は生まれ変わったのだ。リアライズ私。死者蘇生私。リビングデッド私。
よし、と私は意気込んで控えめにガッツポーズをしてみた。妙に昂ぶったテンションのまま、私はその場にぱたりと倒れ伏し、目を瞑る。もしかしなくてもこれって躁鬱病なんじゃと思いつつ、ふ、と意識を手放した。私は疲れていた。肉体的にも、精神的にも。
朝。縄張り争いに勤しむ小鳥たちの罵声で私は目を覚ました。布団を敷かずに寝ていたので、頬が鬱血して赤くなってしまっていた。涎を拭うと、私は着ていた制服をいそいそと脱いで予備の制服に着替えた。着ていたものは切り刻まれてしまっていた。
「……お母さん、おはよう」
リビングにいた階下に降りると、母がトーストを用意してくれていた。学校での鬱憤を母に当り散らすことで発散していた私。私が食べないのでいつも余らせてしまうトーストを、母は毎日用意してくれていた。
「おはよう」
微笑みを向けてくれる母。私と母は不仲だ、と私は思い込んでいたので、母この反応は意外というかなんというか。なんだか嬉しくなってしまって、はにかんだまま椅子を引いた。昨日の事もあって、なんだか今日は気が安らいでいる。
トーストをかじる。毎朝食卓に用意されているはずなのに、バターの薫りが懐かしく思えた。母が正面に腰をおろした。無言で食事が進む。会話はないが、落ち着いた雰囲気が心地よかった。
「行ってらっしゃい、美香ちゃん」
玄関先で、母にそう言われる。いつものことだ。優しい母。私は何故、この人のことをもっと頼ろうと思わなかったのだろう。誰も助けてくれないだなんて考えていたのだろう。胸に込み上げてくるものがって、私は久方ぶりに母に笑いかけた。
「行ってきます」
帰ってきたら、もっとたくさん話してみよう。家に背を向けて、私は心にそう思った。
学校。朝の爽やかな空気も、学校に近づくに連れて淀んだものになってきている気がする。心臓が圧迫されているような気さえする。動悸が早くなる。今日もまた、私は虐められる。
でも、と思う。私は生まれ変わったはずなのだ。いつまでも虐められっ子のポジションに甘んじているつもりは毛頭ない。体が暴力を怖がっていても、心までは屈しない。昨日の夜、そう決めたのだ。
昇降口、スリッパを取り出すと丁寧にも画鋲がセロテープで括りつけてあった。気付かず足を置いていたら大惨事だ。あからさまだから、踏み抜くようなことはないが、これはとどのつまり警告。教室に入る前に覚悟決めとけよ、という宣告なのだ。
ふざけんな、と私は思った。思ったので、取り外した画鋲を虐めっ子連中の外履の中に見つからないよう留意しつつ固定した。私は反旗を翻すつもりで、ぶら下がり健康器を蹴飛ばしたのだ。みみっちい仕返しだが、まずはこんなところだ。
教室の扉の前に立つ。幾人か他の生徒も登校し始める八時十分過ぎ。靴もあったし、彼女等はいることだろう。深く息をついて呼吸を整え、引き戸に手を伸ばした。その時、不意に肩に手を置かれて口から心臓が飛び出るかと思った。
「おはよー佐藤。あれ、この制服きれいになってんじゃん? アンタ裁縫得意なんだ? 一人でチクチクやってんの似合いそうだモンねー」
「あー、わかるわかる! ていうか中学のときそういうのいたわー。家庭科の裁縫の授業の時、友達いないから隅で黙々とやってる奴」
「マジで? うわー、超イテーんだけど、そういうの」
「ねえ、アンタもそう思わない? 根暗の佐藤さん」
ケタケタと私の肩を抱いて、リーダー格の女が笑う。取り巻きの二人がどうなんだよ、と足首のあたりを蹴飛ばしてくる。クセなのか、おかげで私の足首はあざだらけだ。
88 :No.20 気がつけば 3/5 ◇h97CRfGlsw:07/10/08 00:31:38 ID:GHgD87hW
「し、知りゃん!」
若干裏返った声を出し、肩にあった腕をえいっと押しのける。突然の行動にあっけに取られている隙に教室の中へ入る。頑張った私。大きな一歩。よかった、やっぱりここで一歩を踏み出すべきだったのだ。
小走りで自分の机に向う。本に熱中していた後ろの席の山田君を邪魔しないよう、そっと鞄を机の脇に置いた。顔を上げると、あるものが目に飛び込んできた。
菊の花。味気ない白い花瓶に入ったそれが、私の机の上に鎮座していた。
「あー、それうちの家の近くに生えてたんだわ。せっかくだからアンタにあげようと思ってさ。きれいだろ、ん?」
「流石絵里ちゃん、優しいなー。ほら佐藤、感謝しろよ。嬉しいだろ?」
ありがちなんだよ! 取り巻きの一人に髪を乱暴につかまれ、あっあっと痛みに喘ぎながら内心で思う。なにがそんなにおかしいのか、連中は揃って楽しそうにしている。しばらく頭を揺さぶられ、ようやく解放された私は肩で息をしていた。
どうなんだよ、と尋ねてくる。きれいです、と思わず言葉が口をついて出て行こうとしているのに気がついて、私は慌てて口を抑えて押し戻した。反逆すると決めたのだ。トリーズナー私。ここで負けてどうするのだ!
私はを花瓶引っつかむと、菊の花を引き抜いて取り巻きの一人にそれを投げつけた。ラッキーなことに目のあたりにクリーンヒットし、うっとうめいてひるんだ。ふふふ、自宅付近に群生していた菊は痛かろう。
「なにすんだよコラ!」
まあ、私がそんなことをしても焼け石に水というか火に油というか、やはりというか逆上され、再び強く髪を握り締められて悲鳴をあげるに相成った。がたがたと机を倒してしまい、花瓶が床と衝突して水をまき散らしながら――
「うるせえなあ、お前ら」
山田君が呟くようにそう言った。そちらに顔を向けると、山田君は不機嫌そうな顔で本に目を向けていた。その隙に一瞬力の緩んだ手を払いのけ、きっと童顔をしかめて取り巻きを睨みつける。怖くないだろうなあ、私。プリティフェイス私。
「お前には関係ねえだろ」
絵里が山田君に吐き捨てるように言った。しかし山田君は何処吹く風というか、右から左といった感じでまったく意に介さない。取り巻きがつっかかろうかというところで、担任の先生が教室に入ってきた。舌打ちを残して、連中はすごすごと去っていった。
「あ、ありが、と……山田君」
「ん」
最近口数が少なかったせいか今朝からあまりろれつが回らない。そんな情けない私のお礼の言葉に、山田君はぱらりとページをめくりながら、無愛想に返事をくれた。うるさくしてごめんなさいと続けたが、それには無言だった。
昼食の時間を迎えた。進学校ということもあり、授業の間の放課にあまり連中は絡んでこない。とは言ってもトイレに行ったりすると閉じ込められる事もあるので、その点は油断ならないが。
鞄からお弁当を取り出し、机の中に下敷きを忍ばせる。ごそごそとやっていると、いつものように連中はやってきた。普段ならうわあどうしよう私どうしよう美香困ったななんて思ったりするのだが、今日は暇な奴らだ、と幾分か余裕のある感想をもった。
「お前さあ、なんか今日調子こいてね?」
取り巻きが机にだんと手を置いて唸るように言った。私はそれを正面から見返し、小刻みに震える足を太腿を叩いて止めた。私がいつものようにおびえないせいか、連中は一様に不機嫌そうだった。パックジュースのストローを、絵里はがじがじと噛み締めていた。
それを無視し、私はお弁当の包みを開いて中を取り出した。毎朝母が作ってくれているお弁当だ。こんなふうにお弁当を作っている母に当り散らしていたなんて、改めて思うがわたしはどうかしていたんだと思う。こいつらのせいで。
「相変わらずまずそうな弁当だなおい」
そうですねと、いいともギャラリーが如く同意していた私は昨日死んだ。その死体と連中に向けて、そんなこない! と言い放つ。私の言葉で、絵里の眉間に皺がよった。色々痛い目にもあっている取り巻きなど、青筋まで立てていた。
がん、と私の机が跳ね上がった。絵里が机の裏を蹴飛ばしたのだ。少し散乱してしまった弁当など目に入らない。私はびびっていた。怖い。いくら心では負けないと思っていても、体にしみこんだ負け犬が大きな音にすくんでしまっている。
かちかちと歯は微細振動を再会した。思い切りこちらを見下す絵里が、絶対に逆らえない存在のように思えてくる。半端なく怖い。
でも……。私はぐっと歯を食いしばり、手を握り締めた。ここで屈しては、全てが無駄になる。昨日の自殺未遂も、今朝の暖かい気持ちも、今この瞬間までの私を、裏切ることになる。そんなことは、出来ない。したくない。ノーレットイットビー私。
89 :No.20 気がつけば 4/5 ◇h97CRfGlsw:07/10/08 00:32:12 ID:GHgD87hW
「仕方ないからさあ、私が今日も美味しくしてやるよ」
絵里がドスのきいた声で言う。今まではその声を聞けば条件反射的に尿意を催す私だったが、今日は違う。今日はもう今朝済ませてきてある。絵里がパックジュースからストローを抜くと、飲み口をひし形に開いた。私は手を机の中に差し込んだ。
弁当に向けて、絵里がジュースをついと傾けた。お茶漬けならそのまずい弁当もましになるんじゃね、という一言から始まった虐めの一環だ。連中が気まぐれに食事を許してくれる時以外、私はずっと何らかの液体を被った弁当を食べてきた。
それも今日で終わりである。イチゴ牛乳のかかった弁当なんか食えるかと、私は机の中から下敷きを取り出し、弁当の上にさっと差し出した。ノートサイズのそれは上手く傘の役割を果たし、イチゴ牛乳を絵里に返す。うわっ、と後ずさるが、とき既に遅し。
「ち、ちゃんとナプキンくらいしとけば」
イチゴ牛乳をもろに被り、スカートはぐしょぐしょ、上着は諸所赤い飛まつが飛んでしまっている。その姿を揶揄して、私はないセンスを使って精一杯の皮肉を言った。ブチ、という音が響いた。果たしてそれは潰されたパックの音か、それとも。
「ふっざけんな! このクソカスがッ!」
もちろん絵里の頭からその音は発せられていた。絵里はひしゃげたパックを掴んで腕を振りかぶると、見事な投パックフォームをみせ、それを思い切りこちらに投げつけてきた。
私はそれを避ける。あれだけ大掛かりなポーズを見せられれば、運動神経が焼ききれているような私でもなんとか避けられる。紙一重で避けたそれの行方を確かめる間もなく、私は絵里に胸倉をつかまれて、ひいっと情けない声をあげた。
「どういうつもりか知らないけどさぁ、アンタ覚悟出来てんだろうな? アンタがそう言うつもりなら、こっちだって――」
「うるせえっつってんだろうが!」
突然真後ろから怒鳴り声が聞こえ、私は鼓膜が破れるかと思った。実際ちょっとちびった。気圧されたのか、胸倉を掴む腕の力が緩んだので、咄嗟に逃れて席から離れた。山田君が、憤怒の形相でイチゴ牛乳にまみれていた。
「お前らよぉ、前々から言おうと思ってたんだがうるせえんだよボケ! とうとうこっちにまで実害出しやがって……。この素敵な色に成り果てたご飯を見てあなたたちどう思いますか!」
「あ、アンタには関係な」
「なにが関係ねえだこの馬鹿が! お前らが佐藤虐めてんの見ててこっちはいい加減苛々してんだよ! 何もやり返してこないからって調子に乗りやがってよぉ。いい機会だし、もう勘弁ならねえ。なあみんな!」
ミートゥーミートゥーという声があちこちからあがる。気がつけば、クラスの全員が立ち上がって絵里たちを睨みつけていた。クラス全員から敵対宣言をされて、絵里たちはたじろいでいるようだった。
私はぽかんとしていた。状況が上手く飲み込めず、教室の隅で山田君たちに見とれていた。私の為に、私じゃないのに立ち上がっている。嬉しい、と思うより先に、なんでという疑問符が頭に上った。
「みんな、やっちまえ!」
山田の言葉でみんなが絵里たちに向っていった。彼女らは大軍勢に押し倒され、持ち上げられて胴上げをされていた。悲鳴と怒号を上げながら、その一団は廊下に出て行ってしまった。唖然とするしかない私。なんか、変だ。
「佐藤」
気がつけば、山田君が目の前にいた。ありがとうとなんでが一緒に出てしまい、変に舌をもつれさせてしまって言葉が出てこなかった。あうあうととちる私の肩に、山田君が手を置いた。
「もっと早く気付け」
一言。なにか意味深なことを言うでもない、いつもどおり無愛想に山田君はそう言った。どういう意味だろうと思う私の顔の前に、山田君は親指を立てた手を突き出した。
そしてそのまま、私は意識を失った。
90 :No.20 気がつけば 5/5 ◇h97CRfGlsw:07/10/08 00:33:12 ID:GHgD87hW
「……ん?」
気がつけば、そこは私の部屋だった。小鳥たちがさえずり、カーテンの隙間か日がさしている。ぽかんとすること十数秒。ああ、夢だったのか、と私の頭に理解が及んだ。
ず、と涎を啜る。そうか、夢か。どうりであんなに、私は行動的だったのか。そうなんだと納得しつつ、私は溜め息を漏らした。
制服を脱ぎ散らかし、新しいものに着替える。夢の中とはいえ、いいものが見れた。少し残念に思いながら、階段を下りる。
私にあんな大立ち回りが出来るわけがないのだ。夢の中ならでわの、ありえない願望交じりの快進撃。誰かに助けてほしいという、深層心理の表れなのだろうか。そんなことを考えながら、リビングに出た。母に声をかける。
「おはよう、お母さん」
「……え? み、美香ちゃん?」
「ん?」
席につく。気がつけば、母がありえないものを見たといったような顔で私を眺めていた。何さその顔は、と言おうとして、言葉を飲み込んだ。ぼろぼろと母の目から涙がこぼれれば、誰だって口を紡ぐ。
「な、なに? どうしたの?」
「だ、だって、もう何ヶ月も話してない……。も、もう喋ってくれないのかなって思ってたのに……」
「そ、そんなことないよ。私だって普通にしゃべ」
言いかけたところで、私はぎゅっと抱きしめられた。突然のことに顔が火照ってしまう。あわあわとする私に、母が頭を擦り付けてくる。こんなに嬉しそうな母を、私は初めて……いや、久しぶりに見た。
ああ。私は思い出した。私は昨日まで、死にたいほどに気が滅入っていて、母に強くあたり続けていたんだ。それで、こんなに。
しゃくりあげる母。同時に、私はこんなにも愛されていたのかと気がついた。夢の中でも、母はやさしかった。あれは私の願望かと思っていた。が、現実の母は、もっと暖かかった。
「……ごめんね」
母の頭を撫でる。私はどぎまぎとしつつ、感謝の意を告げた。こんなふうに触れ合うのは、本当に久しぶりのことだ。胸に込み上げてくるものを感じて、私も泣きそうになってしまった。
久方ぶりに母に行ってきますを告げて、学校へ向う。夢の中でも感じた、あのすがすがしい空気。つき物が落ちたような気分で、私の足は軽やかだった。学校が近づいてくる。淀みはない。
昇降口でスリッパを取り出す。夢の中で見た、あの画鋲たちはそこにはなかった。しかし、それが張ってあったという痕跡。セロテープの後がそこには残っていた。なんだろうと思いつつ、教室に向う。
引き戸の前。深く深呼吸をする。夢の中で感じた、あの強い心の衝動。私は、もう変わらなくちゃならないんだ。あの夢は、私に変われと、そういう含みをもったものだったに違いない。
引き戸を開ける。私は、目の前に広がった光景に、いつかのようにただただ呆然とするしかなかった。
白い花瓶が、床で横倒しになっていた。菊の花は踏みつけられ、少し顔を上げれば人だかり。皆、一様に怒りの形相で何かを見つめていた。
その集団の中心には、青い顔をした絵里たちの姿があった。一番手前にいた山田君がこちらを振り向く。それに追従するように、みんなも一斉にこちらを振り向いた。
「おはよう、佐藤さん」
みなが腕を突き出し、親指を突き上げている。私はぽかんとし、何でと思うより先に、嬉しくなって微笑んだ。私も、親指を突き上げる。
私は、一人じゃなかった。