【 敗北の果てに 】
◆M0e2269Ahs




81 :No.19 敗北の果てに 1/5 ◇M0e2269Ahs:07/10/08 00:26:43 ID:GHgD87hW
 やらなければならないとわかっていても、中々行動に移せないことがある。
 もしも俺が教え子たちと同じ高校生だったならば、やりたくないことはやらないと突っぱねて、放り出すことくらい
易々としていただろうが、教師という立場である以上、仕事を引き受けた以上、そこには必ずやらなければならない
という責任が発生する。そう頭では理解していても、生徒たちが待つであろうグラウンドへと歩み出さなければ
ならないはずの足は、一向にデスクから離れようとはしなかった。
 時間稼ぎになるはずの仕事の数々は、何を気を遣っているのか同僚の教師たちに吸い取られてしまっている。
 既に俺がここにいる意味はない。同僚の行動に感謝しているのなら、すぐにでもグラウンドに向かうべきなのだ。
 重たい腰は依然として重たかった。デスクの上の資料を手に取った。もう何度も読んでいるため、所々にしわができている。
 北海道苫小牧末広高校サッカー部は、部員総勢十八名のしがないチームであった。苫小牧を抜け出し、もはや全国にも
名を馳せるようになった駒澤大学付属苫小牧高校とは違い、スポーツに力を入れているわけでもないし、周辺住民は元より、
学校側ですら何の期待もしていなかったのに対し、先の高校総体室蘭支部予選大会において、優勝してしまったのだから驚いた。
もちろん高校総体本戦に辿り着くには、支部予選を勝ち抜くことなどは必須条件であり、その上、さらに全道大会トーナメントをも
制しなければならないため、序の口もいいところなのに変わりはない。ただ、彼らが決勝で倒した相手が、驚かせるに、
また、賞賛するに値する高校だったのだ。
 室蘭大谷高校と言えば、高校総体と全国高校サッカー選手権大会の高校サッカー二大大会の両方において、常連とも言えるほどの
実績を誇る、道内屈指の強豪として有名な高校である。その室蘭大谷高校を相手にし、善戦するどころか、下してしまったものだから、
末広高校の生徒はもちろん、学校側、末広町の住民らが大騒ぎすることとなったのだ。
 夏の甲子園を大いに盛り上げた駒大苫小牧高校も、その名を轟かすこととなったのは至って最近のことであり、
それまでは甲子園に出場することはあっても、一回戦敗退を喫してしまうのがパターンとなっていた。
 甲子園に出場するということだけでも、数々の高校を打ち破ってきたのだから凄いことには変わりはない。その点、
末広高校サッカー部には、輝かしい実績など一つもない。しかし、弱者が強者を打ち崩し、頂点を極める、という前例を
知っているだけに、彼らの期待は増す一方だった。白羽の矢が立ったのは、当然のことだったのかもしれない。
 今まで、末広高校サッカー部では、監督というお飾りの名前を持った顧問が一人、彼らの指導を担当していたのだが、
部活内容の指針のほとんどが生徒自らによって決められ、行われていたというものだった。それで、あの室蘭大谷を破った
のだから、うまく歯車が回っていたのだとは思う。私立高校とは違い、設備を作るわけにも、専属のコーチやトレーナーを
雇うわけにもいかない道立校である末広高校には、できることなどほんのわずかなことしかなかった。
 末広高校に所属する教師の中から、できるだけ指導力のある人間を選ぶこと。即ち、過去の学生時代の部活動で得た経験を
彼らに伝えること。たった、それだけのことだ。そして、それに該当し、選ばれたのが俺だった。
 かつてあったはずの拒否権はなかった。もちろん俺にだって、彼らの役に立つのならばと思う気持ちはある。だからこそ、
指導を引き受けた。しかし、その反面、足踏みをさせ、尻込みをさせる気持ちがあるのも、確かなのだ。

82 :No.19 敗北の果てに 2/5 ◇M0e2269Ahs:07/10/08 00:27:19 ID:GHgD87hW
「あれ? 椿先生、まだここにいたんですか」
 教材をデスクに置きながら俺の向かいに座ったのは、二学年の主任を務める篠原だった。彼がサッカー部の元顧問である。
新顧問の俺からすれば、顔を合わせたくない人間だった。グラウンドへ行くことを渋った代償か何かかもしれない。
「生徒たち、たぶん待ってますよ? 椿先生の指導、早く受けたいんじゃないのかなあ」
「ええ、そうだといいんですけどね。今、行こうと思っていたところです」
 あぁ、そう。と呟いて、篠原は大きく伸びをしながら、彼の隣で作業に没頭する同僚の様子を横目で眺めた。
「それにしても生徒たちも嬉しいでしょうね。何と言っても全国大会出場経験がある椿先生に教えてもらえるんですから」
 何食わぬ顔をして言ったつもりであろう篠原の顔から、薄っぺらな妬みが垣間見えた気がした。同僚の教師が、やれやれといったふうに
首を振ったが、篠原は気がついていなかった。俺も、かろうじて、漏れ出しそうになったため息を堪えた。
「いよいよ全道大会ですなあ」
 人のことは言えないが、さっさと仕事に手を付ければいいのに、と思った。それほど根に持っている、ということか。
「はい。僕なんて大した役には立たないでしょうが、できるかぎりのことはするつもりです」
 そう言って席を立った。これ以上、篠原とねちねちと話を続けたくない。同僚たちに声をかけ、職員室を後にしようとした。
「ああ、そうだ。椿先生」
 顔だけを後ろに向けた。下卑た笑みを浮かべている篠原と目が合う。
「あいつら、PKが苦手みたいだから、なんかこつでもあったら教えてやってください」
 こいつ――。脳裏に焼きついた光景が、ちらりと浮かんで消えた。
「そうですか。では」
 篠原が満足そうに出っ張った腹をさすっているのを見て、職員室を後にした。
 職員室を出てみると、先ほどまで騒がしかった廊下には、まばらな生徒の姿しか見えなかった。大半が帰宅したのだろう。
この分だと確実に、サッカー部の面々はグラウンドに集合していることだろう。足取りが重たくなる。かといって、職員室に
戻るわけにもいかない。無論、サッカー部の連中を無視して帰るわけにもいかない。行くしかない。深呼吸をして、心を決めた。
 すれ違う生徒たちと挨拶を交わしながら階段を降り、職員玄関へと向かった。ロッカーにサンダルを入れ、スニーカーを取り出す。
そのままグラウンドには向かわず、一旦自分の車へと向かう。天気は、この上なくよかった。職員たちの車が日差しを反射していて眩しい。
電子キーで施錠を解き、助手席のドアを開けた。すぐ目に入ったのは、少しあせた色の靴袋だった。その横のジャージを手にとって
車と車の間に入り、そこですばやく着替えた。胸が騒ぎ出したのを感じた。靴袋を手に取った。思わず、深く息を吐いていた。
 グラウンドに近づくにつれ、徐々にボールを追いかける生徒たちの姿が見え、掛け声が聞こえてくるようになった。見たところ、赤と緑、
それに青を加えた三色のビブスを着て、チーム分けをしているようだ。総勢十八名だったから、各六名ずつだろうか。
 俺の存在に気づいた赤の七番のビブスを着た生徒が、動きを止めた。それに気づいた各生徒も動きを止める。中には知った顔もあった。
それぞれが息を弾ませ、熱い視線を俺に向けていた。胸がざわつくのを感じた。赤の七番が一歩前に出て、大声をあげた。

83 :No.19 敗北の果てに 3/5 ◇M0e2269Ahs:07/10/08 00:27:57 ID:GHgD87hW
 車のトランクに腰を掛けて、釣り糸を垂らしていた。港外に望む漁船やフェリーの姿を見ながら、あくびをかいた。
ウミネコの声に誘われて、視線を向けた先に、いっぱしの格好をした小さな釣り人が竿を振りかぶっているのが見えた。
 晴天続きの苫小牧。この埠頭に釣りに来るのは、久しぶりのことだった。とは言え、港の風景にも釣り人たちの姿にも、
どこにも変わった様子はない。ついでに、俺の竿がぴくりとも反応しないのもいつものことなのだが、それは別に気にしない。
心地よい潮風に吹かれて、呼吸しているかのようにゆらゆらと揺らめく海面を見、ぼんやりと釣り糸を垂らしているだけで、充分楽しいからだ。
「どうですか〜。釣れますかね〜」
 唐突に掛けられた声に肩が震えた。慌てて、声の主の方を見ると、舌を出して笑ってみせる馬鹿面がいた。
「ほら、詰めた詰めた」
 除け者を扱うかのように手で追いやりながら強引に俺の隣に座った美里は、傍らに置いてあったバケツの中を覗いて笑った。
「それで? 話って何さ。この『み〜姉ぇ』に話してごらんなさいよ」
 まったく。港も釣り人も釣果も変わらなければ、美里も変わらないようだ。少しは市中を見習って変わらないと、取り残されるぞ。
「俺さ、末高の監督になった」
「な〜んだ。やっぱりその話か」
「え?」
「え? じゃないわよ。あたしだって末広町民なんだから、それくらいのこと耳にしてるって」
 そういえば、そうか。末広町の人間ならば、聞いていてもおかしくはない。
「どういう風の吹き回し? あんた、サッカー嫌いになったんじゃなかったっけ?」
「色々と事情があんだよ」
「ふ〜ん。まぁ、いいや」
 美里は、何故か嬉しそうに微笑んだ。目のやり場に困って波間に漂う浮きを見た。相変わらず反応はない。
「それで? どうなの?」
「あぁ。昨日初めて顔を合わしたんだけど、俺に教えることなんてないくらいに上手かったよ」
 俺が話している間、美里は嬉しそうな微笑みを崩さなかった。
「嬉しいんだ。またサッカーに関わることができて」
「そんなんじゃねーよ。こっちは頼まれたから仕方なく――」
「その割には。その割には、嬉しそうな顔して話してるじゃん」
 それは――。と言いかけて気がついた。美里が嬉しそうに笑っていたのは、そのためだったのか。
「相変わらず素直じゃないんだから。大体、あたしを呼び出してまでサッカーの話してるんだから、否定のしようがないよね」
 言葉に詰まった。否定のしようがなかった。
 ちょうど、正午を告げるサイレンが鳴り響いてくれたおかげで、感慨に耽る時間ができた。

84 :No.19 敗北の果てに 4/5 ◇M0e2269Ahs:07/10/08 00:28:39 ID:GHgD87hW
 頭の奥底に追いやっても忘れることができないあの日、俺は西が丘サッカー場のピッチに立っていた。
 勝利を信じている味方サポーター。失敗を望む敵サポーター。彼らの様々な感情の入り混じった歓声が、大太鼓の音に合わせて
耳に届く。しかし、それよりも大きく聞こえる自分の心臓の鼓動が、俺を急き立てようと、あるいは、落ち着かせようと、一定の
リズムを刻んでいた。緊張感に包まれるのは、よくあることだった。体中が痺れるような感覚に、満足に体が動かなくなることもあった。
だが、その緊張感に飲まれることのない強い意志を持ってプレーをすると、それはこの上ない快感に変わる。
 あの日も、そんなことを考えていた。緊張感を、快感に変える。飲み込まれないように、必死にもがいていた。
 ペナルティマークに、そっとボールを置いた。
 前後半の八〇分を終えて、PK戦へと突入した一回戦。国立の舞台に上るためには、絶対に負けられない一戦だった。
 仲間たちの声を背中に受けた。既に四人ずつが蹴り終えて、スコアは4−4。誰ひとり外していない状況で、俺が外すわけにはいかなかった。
 相手ゴールキーパーの刺すような視線を感じたが、絶対に目は合わせない。何も考えていないような雰囲気を見せつつ、ゴールの左隅に
視線を送る。審判のホイッスルが聞こえた。大きく息を吸って、熱くなる心臓を冷ます。一歩、二歩とゆっくり歩み出し、大きく足を上げた。
その間も、キーパーの動きを観察する。重心が左に傾いているように見えた。狙い通りだった。俺は、ゴールの左隅を狙って、ボールを蹴った。
「ちょっと、純? 何ボーっとしちゃってんのよ」
「え? あぁ、すまん」
「も〜、なんだかなぁ。あんたって人の話ほんと聞かないよね。今、あたし何喋ってたかわかる?」
「すまん、なんだっけ」
 美里は唇をタコみたいに突き出して、そっぽを向いた。俺は、手に滲み出していた汗をズボンで拭いた。
「罰として、お昼奢りなさいよね」 
 
 美里が指定した双葉町の弁当屋に向けて車を走らせていた。
 苫小牧の街並みは、目まぐるしく発展を遂げている。最近では大型ショッピングセンターもでき、若者向けの遊び場も充実してきている。
数年前までの苫小牧の様子とは、まったく違う。所々に新しい建物と古めかしい建物が混在している様子は、まさに発展途上といった様相だ。
苫小牧には発展するだけの理由がある。市内を高速道路が通り新千歳空港からも近く、太平洋に面する港は道内最大の貨物量を扱っている。
当然、海産物も豊富である。海の街かと思えば広大な自然にも恵まれ、製紙業などの工業も発展している。発展しない方がおかしいのだ。
 俺は、どうなのだろうと思った。
 あのときの失敗からも大好きだったはずのサッカーからも、尻尾を巻いて逃げ出した俺は、はたして成長していると言えるのだろうか。
教師となった俺は、何の運命か、母校である末広高校に赴任し、その上、サッカー部の監督にまでなってしまった。
 苫小牧と同じように考えるならば、この運命に向き合わない方がおかしいのではないか。成長しようとしない方がおかしいのではないか。
 美里が言った、嬉しそうな顔をしていた俺の、本当は向き合いたいと思っていた俺のためにも。
 双葉町の弁当屋で買ったホッキ弁当は、憎たらしいほどに旨かった。

85 :No.19 敗北の果てに 5/5 ◇M0e2269Ahs:07/10/08 00:29:14 ID:GHgD87hW
 北海道高等学校選手権大会兼全国高等学校総合体育大会サッカー競技北海道予選。つまるところの全道大会は、全十一支部の予選を
勝ち抜いた二十四のチームが、本選に出場できる二枠を争って鎬を削るトーナメント方式の大会である。室蘭支部からは、我らが末広高校
と、準優勝を果たした室蘭大谷が出場する。比較的レベルが高いとされる札幌からは、札幌第一、北海といった強豪が当然のように出場し、
加えて旭川実業、帯広北といった道内屈指の実力校も順当にその名を連ねている。
 ここから先は、運だけでは勝つことはできない。
 末広高校の監督に就任して二週間が経っていた。俺が教えられる全ての技術と経験を叩き込んだ。充分な時間が取れなかったのが心残りだが、
時間は待ってはくれないし、前にしか進まない。
 我らが末広高校の緒戦の相手は、札幌白石高校だ。全道優勝経験のある、侮れない相手である。
 ウォーミングアップを終えて、ベンチ前に集合した面々の前に立つ。圧倒されそうなほどの視線は、自身の感情の裏返しか。舞台は違えど、
あのときの俺も、このような目をしていたのだと思う。
「まず、初めに。中途半端な時期に監督に赴任し、少なからずチームへの動揺を与えたかと思う。その点はすまないと思っている。
俺も、お前らも、まだお互いをはっきりと理解しているとは言えないだろう。だが、俺もかつては選手だった。
監督のため、チームのため、母校のため。そんなことは微塵にも気にする余裕がない、ただひたすら自分のために勝利を渇望する
選手のひとりだった。お前らの勝ちたいと思う気持ちは、誰よりも理解しているつもりだ」
 全員の顔を見回した。全員が目を逸らすことなく、俺を睨むような目をして話を聞いてくれていた。
「心をひとつにして、頑張ろう」
 猛獣が吼えたかのような返事が返ってきた。
 ピッチに向かう選手たちの背中を見送り、ひとつ深呼吸をした。
 本当は、まだ伝えたいことがあった。しかし、それは今話すことではない。もしも、こいつらが負けてしまうようなことがあったならば、
話してやろうと思う。
 敗北は、それまでの自分の努力を全否定するかのように残酷で、悲しいものだ。その痛みに耐え、跳ね除けようとするには力が必要である。
しかし、いくら力を持とうとも、敗北したという事実は覆ることがない。それを承知で乗り越えなければならないのだ。
乗り越えることを諦めたそのとき、自らが自らを否定することになってしまうからだ。そうならないために、努力を重ねなければならない。
それが、敗北した人間がしなければならないことなのだ。いつ乗り越えることができるのかもわからない、試練なのだ。
だが、敗北を乗り越えたときに得ることができる成長は、決して勝利では得ることのできないものでもある、と。
 試合開始を合図する甲高いホイッスルの音に導かれて、選手たちが一斉に動き出した。
                                                        おわり



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