53 :No.13 指 1/5 ◇04JNP5h0ko:07/10/07 23:59:15 ID:EJGwOLAK
テレビでよく見るオバサンとは随分違ってた。
ネットの掲示板では、ヒキコモリの男子に対して、あえて若い女のカウンセラーを送り込むという話を時々
見かけたが、話半分に流してた。それに俺、男子というか、とっくに成人してるわけで。
何にせよその女は俺と同い年くらいで、ブスでもなくて……というかむしろ美形で面食らった。
女を部屋に入れるまでがとにかく大変だった。
女は毎朝オヤジが仕事に出かけるのとすれ違いに家のチャイムを鳴らし、オフクロに一声掛けるとそのまま
階段を上がってきて、ドアの向こうで「おはようございます」と元気良く朝の挨拶をした。
その後半日も施錠されたドア越しに何やら声をかけ続けるのだが、俺はここ何年も朝のワイドショーが始まる
頃に床に就く生活を送っているから、子守唄程度にしかならなかった。
寝てる間に何度か階段を降りたり上がったりする音が夢うつつに聞こえて、夕方目を覚ます頃に「じゃあ、
また来ますねー」と、さほど残念そうでもない声がかかると、俺はやっとベッドから起きあがり、何も考えずに
テレビとパソコンの電源を入れるのだった。
それが何日か続き、オフクロがとうとう夕飯をドアの前に置いてくれなくなり、俺は部屋に常備してあるス
ナック菓子をつまむか、明け方にカップ麺を啜るだけのひもじい食生活になって、ようやく部屋の中を片付け
る決心をした。
他人に見せられない雑誌やらDVDやら、なんやかんや、全部押入れの中に隠した。
ラノベは……本を読んでいるフリができるだろうと考えて、コミックだらけの本棚の、目立つ位置に整理して
並べた。背表紙がもう少し地味な色ならよかったのに、と思った。
相手がオバサンであっても、オフクロ以外の女に悟られるのはやはり気恥ずかしく、ゴミ箱の中の生々しい
残骸などもチェックしてコンビニ袋に密封した。
というわけで、日中は何年間も開かずの扉だったドアを開き、その向こうの声の主がオバサンでなかったこ
とに気づいたとき、俺は呆然とし、相手のあごの辺りを見ながら、どうも……と声を出すのがやっとだった。
54 :No.13 指 2/5 ◇04JNP5h0ko:07/10/08 00:00:12 ID:GHgD87hW
女のあごには小さなほくろが一つポツンとあった。
「はじめまして、カウンセラーのイトウです」女は快活に自己紹介すると、手を差し出してきた。
無視するわけにもいかず、仕方なく俺はその手を握り返した。女の手って小さいんだな、と思った。
最後に女の手を握ったのはいつのことだろう――中学のオクラホマミキサーのときか。
俺は声優の握手会にも行ったことがない。このところ唯一の外出が深夜のコンビニなのだから。
「アニメ好きなんだぁ」女は壁のポスターを眺めて感心したように言った。
不覚だった。ポスターくらいカウンセラーに見られても別にいいや、と思っていたのだが、実際にこうして
同年代の女に見られると酷く恥ずかしい。ゴミ箱のティッシュの処理をしておいたのは大正解だった。
「アニメっていいよね」――えっ? 黒髪を後ろで束ねた女の横顔が妙に幼く見える。
「現実の人間はわりとすぐ飽きちゃったり、嫌いになったりするけど、アニメの中のキャラクターはずっと好
きなままでいられるでしょ」
なんと答えてよいか分からなかった。図星すぎて……というかそういう話題はやめてほしかった。
テレビからはヤンキースの衛星中継の音が流れていた。
「さぁ松井、外野フライでも同点という絶好のチャンスを活かせるでしょうか……ツーエンドツーからの――」
カウンセラーと二人きりになれば、早々に沈黙が訪れるだろうとた易く想像できたので、俺はテレビを付け
っぱなしにしておいたのだ。
女は俺の返事がないのを気にも留めない様子で、勝手に床にしゃがみこむと体育座りをした。
俺はその正面のベッドに浅く腰掛けていて、位置的に……と少し期待したが、女はパンツスーツだった。
やや上から自然に見下ろす形になって、俺は女の全体像を眺めることができた。女は話のきっかけを探るよ
うにそれとなく部屋の中を眺め回している。絵にしたらさぞ描きやすそうな大きな瞳はみずみずしく、その
目じりは優しいカーブを描いている。今もし目が合ったら……と思い俺はとっさに目を逸らした。
髪を後ろでまとめているので、色白で清潔そうな首筋から胸元にかけてが覗けた。アクセサリーは何も付けて
いない。着心地の良さそうなグレーのスーツの下のシャツは真っ白だった。
童顔だが、自分より少し年上かもしれない。でも何でこんな女が俺の部屋にいるのだろう。
55 :No.13 指 3/5 ◇04JNP5h0ko:07/10/08 00:01:27 ID:GHgD87hW
「さぁフルカウントからの第8球目、ピッチャー投げたぁ、あーっと空振り! 松井、まさかの三振っ!」
「ねぇ……何かゲームでもしません? 対戦ゲームとか持ってます?」
――ちょっ、ゲームとか、おまえ何しに……
「……いや、ないんすよね、あんまりそういうの」
本当はあった。古いのが何本か。でも何もかもまとめて押入れに仕舞っていたので、それを引っぱり出すと
余計なものまで引きずり出してお披露目してしまう恐れがあった。
俺はふとパソコンが気になったが、部屋のドアを開ける前にシャットダウンしたのを思い出した。こういう
用意周到さが、どうして今までの俺の人生に活かされなかったんだろう……
「あのね、私たち最初にお会いした日には、ゲームをしたりすることが多いんです。これからたぶん何日か
お付き合いすることになるでしょ。あなた、あまり自分のこと話したがらないみたいだし……」
黙ってるのも何なので、俺は思いついたことを口にしてみた。
「それでわざと俺に勝たせて、優越感……いや違う、やる気を起こさせて、とか?」
「あははっ、ばれました? じゃあしょうがない。本気でやりますよ。で、何にしますか?」
俺は女が嫌な顔をするかと思ったが、逆に吹っ切れたように破顔したので戸惑った。
さあどうしよう。ネット上では普通に見ず知らずの誰かとゲームをしたり、チャットをしたりするのだが
リアルとなると……ましてやオフクロ以外の女とはもう何年も会話さえしていない。
女の顔を窺うと、溌剌と何かを期待するような目で、こちらを見つめている。
「じゃあ、しりとりでもやりますか」俺ははぐらかすようにわざと間抜けなことを言った。
「しりとりねー……うーん、なかなか勝ち負けつかないし」
「なら指相撲でも」これも相手の意図を外したつもりだった。しかし女はあっけらかんと言い放った。
「いいですよ、やりましょうか」
女が手を差し出してきた。このシーンは今日二度目だ。というか俺がそれを無意識に望んでいたのかもしれ
ない、と今やっと気づいた。――こじんまりして、温かく、柔らかい、女の手。
急に手のひらが汗ばむのを感じた。俺は悟られないようにジャージのズボンで手のひらをゆっくり拭った。
56 :No.13 指 4/5 ◇04JNP5h0ko:07/10/08 00:02:02 ID:GHgD87hW
俺は女の曲げた四本の指に、おそるおそる自分の指を引っ掛けて握った。温かく湿っていた。いや、俺が汗ばん
でいるのか……女は口の端を横に広げて少しおどけた調子で笑っている。
「さあいくわよ。せーの、どん!」
女の親指が、ボクサーが上体をスウィングさせるように滑らかに振れている。親指の爪は、綺麗な楕円に整え
られ、透明な桃色に輝いている。
湿った手のひらには女の四本の指が軽く食い込んで、妙にくすぐったく、いつの間にか熱を帯びてくる。
「さあ、本気を出して。私は本気だからね」
女の指に力が入ったような気がした。俺は軽く握り返した。
こっそり女の表情を窺うと、頬を薄桃色に染め唇を少し窄めるようにして、俺達の指の動きをじっと眺めている。
女の首筋の辺りから、ふっ、と甘い果実の香りが漂ってきて、胸が高鳴った。
次の瞬間、女の親指が俺のそれを押さえ込んでいた。かなりの圧力を感じた。俺がぼおっとしてる間に女は
テンカウントを急いで数え上げると「はい、私の勝ち!」と言って誇らしげに微笑んだ。
俺は何か甘酸っぱいデジャブのようなものを感じていた。小学生の頃か、中学か……
「さあ、第二回戦ね! はじめるわよ」
異存はない。全くない。俺は空しく音を鳴らしているテレビを消して、再び女と指を組んだ。
俺はいつまで続けるのかと女に尋ねた。
「あなたが勝つまでよ」
女の親指が最初のうちはおそるおそる、俺が仕掛けてこない事が分かるとそのうちに挑発するようにフェイン
トをかけては、さっと引っ込める。自由自在に滑らかに飛び回ったかと思うと、今度は俺の人差し指の脇の微妙な
位置に悪戯っぽく張り付いてしばらく休む。
目を瞑ると女の手の筋肉のあらゆる伸縮、あらゆる震えが細大漏らさず俺自身に伝わってくる。
俺は女の息遣いを全身で感じ、その指の動きに魅了され、身も心も参っていた。
「タカシ? お茶が入りましたよ。開けてもいい?」
突然、ドアの向こうからオフクロの声が聞こえて、俺はうろたえた。
興醒めと気恥ずかしさが津波のようにやってくる。
「いや! ドアの前に置いといて!」
57 :No.13 指 5/5 ◇04JNP5h0ko:07/10/08 00:02:54 ID:GHgD87hW
女の親指がまだ挑発するように妖しく宙を舞っている。まるで俺の心の中を探っているようだ。
女は明らかに俺をリードする立場にいる。
こんな小さな手の中に一体どんな力が秘められているのだろう、と俺は思った。
「……結構ガチですね」
「私は本気よ。あなたは本気を出さないの?」女の目が少し微笑んだ。額が薄っすらと湿っている。
ふと俺は思った。――ひょっとして俺の人生そのものについて問われているのか?
女は指を動かしながら、俺の心を見透かすようにつぶやいた。
「アルバイトでも始めてみたらいいのに。あなたならできると思う」
俺は女のリードに何かやるせないものを感じて、自然に馬鹿げた言葉が吐いて出た。
「働いたら負けだと思ってますから」
女は表情を変えなかったが、その指が一瞬止まった。熱気が少し治まったような気がした。
――とうとう呆れられたか、そう思ったとき、女が言った。
「人生はね、本気を出さない事、イコール負けなんじゃないかしら。本気を出してる時点で、結果はどうあれ勝ち
なのよ」
俺の心を何かが打った。そして次の瞬間。
「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10」
一気にカウントが終わった。
その後も二試合、俺は負け続けた。
四本の指の根元には、女の爪の痕がくっきりと赤く残って、俺は心地よい痛みを感じた。
「今日はこれまでね。続きはまた明日にしましょう」
満足げにそう言う女の顔は、上気して薄っすらと潤っている。汗が眼に流れたのか、女が片方の瞼を軽く閉じた
とき、俺にはそれがウィンクしたように見えた。そう思うことにしよう。
「明日はわざと負けちゃダメだからね。それじゃあ、また明日」と女が言った。
俺は勝ってこの部屋を出よう、と強く思った。 ――了