【 綾糸 】
◆8wDKWlnnnI




45 :No.11綾糸 1/5  ◇8wDKWlnnnI:07/10/07 20:33:22 ID:8hrmqLCj
 外から夕焼け小やけの旋律が流れて来た。ジムの窓から外を見るともう既に日が暮れていた。
 スウェットスーツのポケットから糸を取りだし、いつもの様にあや取りを始める。
 ジムの中央、照明に照らされた四角いリングの上。既に一通りの準備運動済ませていた。
 マットに落ちる汗が染みを作り、熱気が室内に充満している。顔にかかる汗を袖で拭きながらあや取りに集中する。
 単純なはずの一つの輪が幾重にも交差して絡み合い、やがて複雑な形に変化して行く過程は奇跡を見るかの様。
 だがその指を離せば、形が崩れ、すぐに元の輪っかに戻ってしまう。
 そこにある一抹の寂しさに目を背けながら、次々に形を変化させていった。
 やがて東京タワーが完成し、一通りの何処か儀式じみたあや取りも終わりを向かえる。
 試合なんてこれと一緒だ、いや、もしかしたら人生ですら同じなのかもしれない。
 呼吸や心臓の音しか聴こえない狭い空間の中、何処に放てばいいのか、試合の流れが作る円形を見つめながら構える。
 その円形がどんな形であろうが一切関係なく、横糸を取りだして指に掛ける。
 後は綺麗にひっくり返すだけでいい、気が付いた時には相手が先に倒れている、いつもそうだった。
 もちろんあや取りとは違って試合には勝敗があり、リングでの敗北が何を意味するのかは良く知っているつもりだと思う。
 それが怖くはないかと言われたら、正直そんな事はよく分からない。
 もし恐怖を感じる様になったならすぐ止まればいい。
 あや取りはまた元に戻せばいいだけ、犬は吠えるが隊商は進む。
「ずいぶんシリアスな顔じゃないか、坊や、ウンコでも我慢してるのか?」
 振り返ると、側に長谷部さんが立っていた。呆れて溜め息も出ないでいると、長谷部さんはとぼけた顔で肩をすくめた。
「なんだ違うのか、向野……まるで悩める少年だな、ああ、自分の事しか考えられずにもう苦しくてしょうがない、ってか」
 よく大人が浮かべる、全てを見通したようなずるい笑顔に、少しいらつきを覚えながら、いつもの様に練習を開始した。
 ジムの中に、ミットを打つ小気味のいい小さな破裂音が響く。
「僕には悩みなんかありませんよ、分かった様な口を利かないでください、勘違いも甚だしい」
「カッカすんな、ほら見ろ、足元がお留守だ」
 その言葉に反応して顔を下に向けると、急に視覚の横からミットが飛んできて、顔の横に衝撃が走る。
 こんなのない、体の動きを止めて睨みつけた。長谷部さんはその視線を正面から見据え、そのまま返してくる。敵わない。
「なあ向野、世の中の全てはバランスだよ、自分の足元さえ見れない者はすぐに破綻するのさ、坊や」
「なんともお優しい説教ですね、ただ足元が何を指してるのかよくわかりませんけど。
 それに僕には拳だけでいい、後は何もいりません」
「じゃあ、もしもお前の全てを受け止める、そんなやつがいたらどうするんだ、よろよろとその場に倒れ込むのかな」
 そんな事は今まで一度もない。それに分からない事をぐだぐだ考えるのはひどく苦手だった。

46 :No.11綾糸 2/5  ◇8wDKWlnnnI:07/10/07 20:33:44 ID:8hrmqLCj
「それなら、受け止められないぐらい打ち込めばいい」
 このミットを目がけて力一杯打ち込め、脳がそう命令を出している、すぐに体が勝手に動き始めて思考が停止する、
 やがて破裂音が聞こえ、ミットが上に飛ぶ。
「まったく、全てと言ってるのにこれだ、ほらまた足を掬われるよ」
 今度のフックは、下を向くふりをして巧く避けた。
 すると、ゴングが鳴り、そのまま短い休憩に入った。試合の時間を体に刻み込む為のタイムトライバル。
 椅子に座ると長谷部さんが写真を出してきた。
 多分今度の相手だ。数日前に、コイツは中々強いぞ、まあ胸を借りるつもりでやってみろ、と言われていた。
 それを見ないで、ポケットから糸を取りだした。写真なんかどうでもいい。少しも興味がわかない。
 長谷部さんは分かったよと手を上下に振り写真をしまった。
 焦らずに試合までに体調を崩さずにいればいいだけ、そう、リングに立てば一人になる。
 手のなかで小さな東京タワーが出来上がるのと同時にゴングが鳴った。




 《拝啓 母上殿》
   母さん、元気で過ごしていますか? こっちは相変わらず元気です。父さんにも心配しなくてもいいと伝えて下さい。
  それから、こちらで知り合いの人に農業はこれから需要が増えると聞きました。
  今は大変かもしれないけど、俺もボクシングが終わったら帰って手伝うから、あまり思い詰めないでなんとかしのいで下さい。
  少ないけど入れておきます。
  それから食べ物は周りの人にもらっているから送ってくれなくても大丈夫、それより自分達の分に取っておく様お願いします。
   最後に、今度の試合が決まりました。相手は最近腕を上げてきた、若手の向野選手です。直接会場での試合を見たけど、とて
  もいい選手でした。今度ばかりは負けるかもしれません。
  ただ、だからって負けるのを期待したら怒りますよ。もちろん、もし一回でも負けたら帰ると言った約束、忘れていません。
  なにより次の試合が楽しみで最近は待ち遠しくてたまりません。いい試合になるように祈ってて下さい。
  それではくれぐれも体に気を付けて御過ごしください。
  《敬具 息子より》

47 :No.11綾糸 3/5  ◇8wDKWlnnnI:07/10/07 20:34:17 ID:8hrmqLCj
 幼い子供が病院のベットに座り、あや取りをしている。
 そこへ巡回にきた看護婦の美紀が声を掛ける。
「あらー、懐かしいわね。へー、綾香ちゃんあや取りなんて出来るの」
 綾香と呼ばれたその子供は、小さな指に糸を巻き付けて嬉しそうに微笑んでいる。
「うん、あのね、看護婦さん取って」
 両手を前に真っすぐ差し出されあや取りをせがまれた美紀は、手に持っていたクリップボードを横に置いて笑顔で応える。
「そうね、じゃあ此処を取ってと、……はい、東京タワー」
「綾香も! 綾香もやりたい!」
 その時、今までCMを流していた部屋の隅に置かれたテレビにボクシングの中継が写る。
 それまであや取りに夢中だった綾香が、急にテレビに釘付けになるのを見て、美紀は首をかしげた。
 普通女の子がボクシングに興味なんか持つかしら、大人の美紀でもあまり関心が湧かないというのに。
 仕事に戻ろうとしてクリップボードを探した時にテレビが視覚に入った。その画面に大きく写った選手の顔に見覚えがある。
「あら、もしかしてこれ……いつも来ていた綾香ちゃんのお兄さんじゃないの?」
「うん」
 綾香が画面から目を離さずに答える。
「そうなの、じゃあ自慢のお兄さんだ」
「うん! ……でもね、お兄ちゃんはいつも一人であや取りしてるの、誰かと一緒にやった方が楽しいのに」
 綾香がテレビから目を離し、まだその悲しみの何処かに幼さの残る表情を浮かべた。
「あら、そう」
「それにね、物凄く嫌そうな顔でやってるの、本当は嫌いなのかな」
 美紀は普段からそれがどんな質問であっても必ず真剣に答える様にしていた。
 頷いて欲しいだけだったり、質問をした時点でその人の中で半分は答えが決まっているとしても、それが礼儀であると感じていた。
 その綾香の曖昧な質問にもかなり真剣に考えを巡らせている。
「……うーん、多分だけどね、それは嫌いじゃなくてね、好きすぎて周りの事が見えなくなってるんじゃないかしら」
「好きなの? でも怒った時みたいな顔してるんだよ、それでも?」
「そうね、それでも好きなんだと思う。それにもし嫌いならやらないんじゃないかしら」
 あんなに大きくなっててあや取りだなんて、まあ好きじゃなきゃやらないわよね、美紀はそう思いながら答えた。
「じゃあね、いつかは綾香と一緒にやってくれるかな、どう、看護婦さん」

48 :No.11綾糸 4/5  ◇8wDKWlnnnI:07/10/07 20:34:39 ID:8hrmqLCj
「よし! 今度きたら私からも言ってみるかね、一緒にやってあげないと帰しませんよ、って」
 美紀がふざけた調子をつけてそう言うと、綾香がクスクス笑いだした。
 本当に可愛いい子だね、こりゃあまいった、美紀が少し照れ臭くなってきた時に、テレビから一際大きな歓声が聞こえてきた。
 どうやら試合が決まる重要な場面に差し掛かったらしい、会場を包む熱気がカメラ越しに伝わってくる。
 すぐに綾香の目がまたテレビに移っていった。


 病院のベットで寝ながらスポーツ新聞を読んでいると、綾香と長谷部さんが話ながら入って来た。
「おい綾香、知らない人に着いていったらダメだって何度も言っただろ」
 綾香は僕と違ってどんな人にもすぐに打ち解ける所があり、そしてそれが心配な所でもあった。
 急に怒られて少しだけ驚いた顔をしたけど、すぐにまた笑顔に戻って長谷部さんに笑いかけた。
「綾香知ってるよ、この人お兄ちゃんの先生でしょ、テレビで見たもん」
 長谷部さんは、手に持った似合わない花をベットに投げて笑う。花の濃密な甘い香りが鼻を擽る。
「見舞いに来た人間に対してずいぶんな口を訊くじゃないか、そろそろジムにも若いの増えてきたし、お払い箱にしちまおうかな」
 それを聞いた綾香が、いつも母が叱る時にしていた表情をこちらに向けた。敵わない。
 それから、長谷部さんに可愛くおじぎをした。
「ごめんなさい、ウチのお兄ちゃんっていつもこうなの」
 長谷部さんは感心した表情を浮かべてこちらを見てくる。ええ、自慢の妹です、頷きながらそう思った。
 ふと、長谷部さんが僕が手に持っていたスポーツ新聞に気付くと、何も言わないで取り広げて読み始めた。
「長谷部さん、何しに来たんですか」
 そう聞くと、長谷部さんは新聞紙の横から顔の目の部分だけを出し、愉快そうにこちらを見た。
「負け犬の顔を拝みに」
「いい趣味してますね」
 長谷部さんはそれには答えずに、新聞紙を畳むとゴミ箱に捨てた。まだ読みたい記事があったのに。
「意外に元気そうで安心したよ、お前プライドだけは一人前だからな」
 そのセリフと違い、急に優しい顔をするのでなんだか嫌な気分になった。そんなのってなんか卑怯だ。
「足元がお留守にならない為の特訓ですよ」
「まったく、分かってないなお前は。余計な事ばっかり覚えやがって」
 長谷部さんが笑いながら溜め息を付いている、僕は顔を背けて綾香を見た。
 綾香は僕と長谷部さんが話してる間にあや取りを始めていた。長谷部さんがそれに興味を示した。

49 :No.11綾糸 5/5  ◇8wDKWlnnnI:07/10/07 20:34:57 ID:8hrmqLCj
「おお、綾香ちゃんもあや取りするのか」
「うん! せっかくしゅじゅつもおわって退院したのに、お兄ちゃんが入院しちゃったからヒマなの
 ハセベさん、はい、つぎ取って」
 綾香が手を前に出すと、長谷部さんはあまり器用じゃなさそうな手付きで糸を取り、案の条糸を絡ませていた。
 それを見て、綾香が楽しそうに笑い声を上げる。長谷部さんは悔しそうに絡まった糸を見ながらこちらを向いた。
「んーダメだな、よし、向野、お前も混ざれ」
 返事に詰まった。
 誰かと一緒にあや取りするのは苦手だった。遠い昔に母親と一緒にやった気がするけど、それからは一人だけだった。
「あのー、僕はいいです」
「……だめだよハセベさん、あのね、お兄ちゃんは一人でやりたい派なんだよ」
 綾香が小さな声でそう言った。呼吸が苦しくなる気がした。
 長谷部さんが考えをまとめる時にやる仕草をしてから、何かを決めたかの様に頷いた。
「……よし、これはコーチ命令だ、今から一ヶ月間、練習は一切は禁止だ。その代わり、綾香ちゃんにあや取りを教われ」
 最初は冗談だろうと思ったが、長谷部さんの顔は真剣そのものだった。一ヶ月間あや取りだけ? そんなの正気じゃない。
「ちょっ……、それ本気なんですか? ええー、何でですか?」
 今までも長谷部さんに色々と変な練習もさせられたが、今度のは明らかにおかしすぎた。
「何でもクソもあるか、これはコーチ命令だ」
「お兄ちゃんと遊べるの? 本当に! やったあ!」
 笑顔の戻った綾香がさっそく糸を取り、こちらに嬉しそうに手を出した。
 そういえばなんで今まで嫌がっていたんだろう、そもそも大層な理由があったのか。よく分からない事を考えるのは本当に苦手だ。
「じゃあ、はい、お兄ちゃん取って、コーチ命令だよ」
 それを取り、すぐに東京タワーを作ると綾香が怒り出した。
 一人でやらないで、取りあって行くから面白いのに、そう言って口を膨らませている。
 今度のコーチは厳しそうだな、長谷部さんがとぼけて言うと綾香が笑った。
 そこに見覚えのある看護婦さんが入ってくると、綾香が、ミキさんと声を上げて駆け寄っていく。
 あらあらみなさん揃いぶみで、綾香ちゃん良かったわね……


〈了〉



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