【 カラオケで歌え、凱歌を 】
◆D8MoDpzBRE
35 :カラオケで歌え、凱歌を 1/5 ◇D8MoDpzBRE:07/10/07 20:22:53 ID:8hrmqLCj
初めての告白を、覚えている。
高等学校の校舎裏は、雨上がりの湿気をまとっていた。夕方というにはまだ早い、午後四時半。湿気混じりの雲
を追い払って現れた抜けるような秋空も、部活動の喧噪からほんの少し隔絶された秘密の場所も、全部僕の味方
だと思っていた。
鳴りやまない、浮ついた鼓動に悩まされる。僕は遠く目の前を逃げていく、幸せの長い長い尻尾に追いついて、捕
まえる。心臓は僕の全身に速く走れるためのエネルギーを、血流に乗せて運ばなければならない。そのために、ハ
ートはいつまでもバカみたいに拍動し続けた。
エリちゃんは時間通りにやってきた。彼女と仲のいい友達を、二人背後に付き従えて。……って、何で君たちまで
付いてくるのさ。予期せぬ展開が大きな焦りを運んでくる。一対一のケンカが、いつの間にか一対三のリンチに変貌
したような錯覚を起こした。
背後の二人と二言三言会話を交わして、エリちゃんだけがおずおずと僕の前に立った。こそこそ何を喋ったのだ
ろう。どうせロクでもないことに違いない。猜疑心がつぶてとなって降り注ぎ、追い立てられた僕は逃げ場を失ってい
た。でも、呼び出したからには言わなければならない。
――あの、その、ずっと前から、好きでした。僕と、付き合って、ください。
何たる棒読みか。エリちゃんが僕から目を逸らし、後方で待機する援軍に救いの手を求めるような視線を送った。
イエス・オア・ノー。君の腹の内は、もう決まっているんじゃないのかい? 誰かに背中を押されないと、そんな言葉も
出てこないのか。
ホラ、しっかしりな。うん。会話はなくとも、そんなやりとりが交わされたように思う。最後の答え合わせを済ませて、
エリちゃんは僕と対峙して、一言、ごめんなさい、と言った。
惚れた瞬間に恋愛における敗北が確定する、なんて言う受け売りを持ち出すまでもなく、僕は一敗地に塗れた。
強かな敗北だった。抜けるような青空は果てしなく遠くて空虚で、僕がエリちゃんを想う気持ちは気前よく昇天しては
くれなかった。天に召されて消えたのは、幸せの長い尻尾だけ。掴み損ねたそれは、みるみる太陽の重力圏にとら
われて燃え尽きた。どんだけ遠いんだよ。
やがて、空は赤くなる。僕は立ち尽くしたまま、夕暮れを迎え入れた。既にエリちゃんの姿はない。昼間の済ました
太陽と違って、この時間の太陽はいかにも大仰に燃えさかっているかのような色調をなすクセに、外気の温度は確
実に下がっている。心は生煮えに燻され、フライパンの底に焦げ付いて残る。
挫折を挫折として受け入れるには、テフロン加工された心が必要だ。僕にはそれがない。あざとさも思い切りも駆
け引きも、恋愛という料理を完成させるためには必要なスパイスだ。僕にはそれがない。
だから、逃げようと思った。惨めな恋から。あざとさから。駆け引きから。
戦わなければ負けることもない。しかもそれは、惚れた瞬間に敗北が確定する、危険な戦場だ。せいぜい屠った
36 :No.09カラオケで歌え、凱歌を 2/5 ◇D8MoDpzBRE :07/10/07 20:24:21 ID:8hrmqLCj
敵を道連れにして、五分である。とても僕の手には負えない。
家に帰っても、次の日を迎えても、割り切れない気持ちに取り憑かれた。エリちゃんと顔を合わせることも忌避され
たし、もう二度と会いたくないとさえ思った。残ったのは、僕のフライパンから君の焦げカスをこそげ落とす日々だけ
だ。どうしてくれる。
何をしていても、何を考えていても、時間が流れるのだけは同じだ。有意義な時間であろうと、無為なる浪費であろ
うと、砂時計が吐く砂の量は変わらない。時の流れに押し込められるようにして、僕は高校を卒業し、大学に通うよう
になっていた。
初告白から一年が経った今、僕のフライパンは相も変わらず錆び付いていたけれども、少なくとも焦げカスは目立
たなくなっていた。
『もう恋なんてしない』を槇原敬之が歌ったのは、僕がまだまだ子供の頃だったはずだ。タイトルとは裏腹に、歌詞
を要約すると「もう恋なんてしないなんて、言わないよ絶対」となる。
僕がこの曲を初めて知ったのは、大学入学直後のカラオケ店でのことで、その時この曲を歌っていたのは、目の
前にいる英彦だった。懐メロ党の英彦とカラオケ狂の姫子がそろうと、大抵僕にまでカラオケ店集合の招集がかか
る。
その日は珍しく、集合場所に英彦しかいなかった。午後五時の待ち合わせ。京王井の頭線のホームからエスカレ
ータで下りて、ハチ公像から道を一本隔てた辺りに、いつも集まった。目指すカラオケ店は、道玄坂を上る途中にあ
る。
「姫子はいねーの?」
「遅れるって」
「じゃあ、どっかで時間を潰すか。男二人でカラオケってのも無いからな」
「スタバだな」
スタバの店内に入ると、ごった返す人いきれとコーヒーの匂いとが奏でるアンバランスな香りに、思わずむせ返る。
決定的に調律を欠いた、不協和音にも似た落ち着かなさだ。暖房の季節になったら、更に匂いがこもって最悪だろ
うな、と思った。
僕と英彦は、アイスコーヒーだけを注文して、並んでカウンターに腰掛けた。コーヒーは苦いから、好きだ。恋に頓
挫して以来、僕はコーヒーばかり飲むようになった。
「しっかし、上手く行かねーわなー」
突如、英彦が漏らした。整髪料で逆立てた髪の毛をもみくちゃにして、しきりにため息を吐いている。明らかに様
子がおかしい。浮ついているようでもあり、落ち込んでいるようでもある。話を聞いて欲しい風でもあった。
37 :No.09カラオケで歌え、凱歌を 3/5 ◇D8MoDpzBRE :07/10/07 20:25:00 ID:8hrmqLCj
「何だよ、いきなり。聞いてやるから言えよ」
「……その、フラれたんだよ」
「姫子に?」
うん、と英彦が力なくうなずいて、そのまま頭を垂れた。僕の頭の中で、いつかのシーンが再生される。エリちゃん
の面影は、記憶の中でぼやけた輪郭としてしか甦ってこない。
大学に入り、人の恋愛事情などをつぶさに観察する機会を得て、今の僕のように恋愛から距離を置くスタイルが
本当である、とは思わなくなった。それでも恋愛という特殊事情は僕にとっては他人事でしかなかったし、一度擦り
込まれた恋愛恐怖症は容易には消えてくれなかった。英彦も、いずれ僕の道を辿るのだろうか。
「これで三人の関係がぎくしゃくするようだったら、ごめんな」
僕の思考を追いやるように、英彦が口を開いた。それは、僕が考えていたのとはまるで方向性の違う内容だった。
フワフワウジウジと、懐古的悲嘆で以て英彦の心中を忖度していた僕の思考は、軌道修正を余儀なくされた。
「そんなこと無いだろ」
「ああ、だといいな」
カウンター席の向こうはガラス張りになっていて、大通りに面している。現在時刻と日照量の関係から、曇り空であ
ることは容易に窺い知れた。動かない空の下を人の流れだけがせわしなく対流し、それぞれの個体が熱を帯びて
大都会の中を拡散していく。巨大なエントロピーに支配されている兵隊のようだ。
窓の外で、ピンク色の上着を羽織った女の子が手を振っている。ショートのボブが、踊る。人の流れをせき止めて
乱流を作り出していることなど、お構いなしだった。
「姫子」
僕もそれに気付いて、手を振る。いつも通りの光景。さあ行くか、と言いながら腰を上げる。英彦も、何となくそれに
倣う。いつもと変わらない空気が流れているように思えた。
カラオケ店の雰囲気は、何とも蠱惑的だ。個室の薄暗さの中に人間の心のヒダやトゲを隠蔽し、照明から放たれ
る暴力的な色彩が感情を統制する。同時に、姫子のハイテンションにも引きずられて、僕たち三人のバランスは、少
なくとも表面上は見事に安定していた。「イエー、盛り上がってるかー」などと叫ぶ彼女からは、悲壮感や自暴自棄
の類はまるで感じられなかった。その意味で、姫子の気配りは天性のものだと思う。
「これで三人の関係がぎくしゃくするようだったら、ごめんな」という英彦の言葉が思い出される。皆が等しくそれを恐
れているに違いない。
だから、姫子は狂ったように明るい歌を歌い続ける。愛し合う二人、幸せの空。僕もそうだし、あるいは英彦もそう
だ。『もう恋なんてしない』は、こんな日には歌われない。英彦自身が、この歌の持つアンビバレンスを消化し切れて
38 :No.09カラオケで歌え、凱歌を 4/5 ◇D8MoDpzBRE :07/10/07 20:25:41 ID:8hrmqLCj
いないせいでもあるのかも知れない。
しかし、投石は一片の波紋を、確かに水面に残した。波紋はいずれ、広大な水平線の彼方まで拡散する頃には、
目ではとても捕捉できないほどの小さなさざ波に姿を変えているだろう。波が収まれば、また元通り平穏で楽しい毎
日が帰ってくる。いつだって、当たり前のようにその奇跡を信じていた。
不安に対しては、努めて非自覚的でいた。しかし、それは確実に存在した。いずれ熱を帯びた投石が、海底火山
の火口を穿つ楔になりはしないか。既に海底より深いところでマグマは煮立って渦巻いていて、辛うじて薄いカサブ
タが一枚、その上を覆っているだけだとしたら。
僕は既に色々なことに気付いていて、その可能性から目を背けているのだ。あるいは、愛情が友情に戻る際に必
要な犠牲とか、敗北を乗り越えるために必要な恋の経験値とか、分からないものだらけが漂う汚い海に入ることを
嫌って、不毛な無人島から抜け出せないでいるだけかも知れない。
「ちょっとー。ラルカン入れたの、浩樹じゃない?」
僕の名前が呼ばれ、飛んできたマイクが太もも辺りに当たったところで、僕は現実感を取り戻した。慌てて歌う。
真面目にやんないと罰ゲームだからね、と姫子が笑う。僕は、この時間がいつまでも平穏であることを願う。いつも
そうしているみたいに。
冷えた飲み物のせいで、やたらとトイレが近い。カラオケではいつも頻尿に悩まされる。席を立つごとに、姫子が
「早く帰ってこいよ」と叫ぶから、落ち着いて用を足すことすらままならない。
汚いトイレで身を構えると、無色透明な尿があふれ出た。ソフトドリンク飲み過ぎ警報の色だ。
トイレの入り口が開く。英彦が入ってくる。しまった、と思う。同じ部屋でこの二人を、二人きりで残してきてしまった
ことの浅慮を自覚する。だが、それもトイレに行くためなのだから仕方がないじゃないか、と即座に開き直りの口実
にたどり着いた。
「おい、浩樹」
英彦が言う。僕は、便座に向かって構えたまま背筋を伸ばす。
「言い忘れてたことがある」
「なんだよ」
それは、言うのが躊躇われたことじゃないのか、と邪推する。無論、声には出さない。
「姫子、お前のことが好きだそうだ。じゃあな」
じゃあな、の意味が分からなかった。前半部分は、分かる。
実は、僕も薄々勘付いていた。姫子から向けられる好意の視線に。なるたけそれをやり過ごして、僕は友達のま
までいようとした。その方が居心地が良かったし、姫子もそれに満足しているなどと思い込んでいた。
また一枚、火口を覆う薄いカサブタがむけていくのを感じた。いや、もう既に海底火山は噴火しているのかも知れ
39 :No.09カラオケで歌え、凱歌を 5/5 ◇D8MoDpzBRE :07/10/07 20:26:06 ID:8hrmqLCj
ない。ゆっくりと。穏やかにマグマを吹き上げながら、深海にとてつもなく巨大な対流を巻き起こしつつある。いつま
で知らんぷりできるものか。僕を試すような大きなうねりが、確実に近づいてきている。
個室に戻ると、そこには姫子だけが取り残されていた。
「英彦は?」
「知らない」
バカにあっけらかんとした返答が返ってくる。戻ってくるとは思えなかった。
僕が元の席に座ろうとすると、「こっち」という声と共に、姫子が自分の座席の隣をバンバンと叩く。
この日初めて生まれる躊躇。賽は投げられ、僕は戦場に放り込まれた。僕の、姫子に対する気持ちはライクだ。ラ
ブではない。勝ちを拾える戦のはずだ。だがそこに、凱歌を歌う者はいない。
「今日はこっちだ」
僕は姫子と正対する席に腰掛けた。もう、と姫子が含み笑いを浮かべる。その表情はどことなく自虐的な明るさを
包含しており、逞しかった。
「またボーッとしてる。早く曲を入れなきゃ駄目でしょ?」
姫子が怒る。僕は急かされるように、というか実際に急かされて曲を入れた。槇原敬之の『もう恋なんてしない』。
入れてから、しまったな、と少し思う。
「やだー浩樹、趣味が英彦みたい」
僕の選曲に対して、姫子が小突くような仕草をして、笑った。その笑顔に救われる。いつでも、こんな場面でも明る
く笑う姫子の表情からは、敗者の翳りなど微塵も感じられない。
前奏が鳴り出す。柔らかなメロディ。姫子のケータイが鳴る。僕は構わず、歌い出す。
「もうやだ、バカみたい。見てよコレ」
僕は歌を中断して、姫子から手渡されたケータイの画面に目を凝らした。メール。差出人は英彦だ。
『俺は調子が悪いから、帰る。後は二人で頑張ってくれ』
「ね? ワケ分かんないでしょ」
アハハハ、と僕も合わせて笑う。演技だ、と思う。さっき姫子が隣の席を勧めたのは、英彦が戻ってこないことを
知っていたからだ。でも、僕は彼らの目論見通りに騙されたフリをする。二人が気まずくならないようにと慮った英彦
の献身に、僕なりに応えようと思ったからだ。
三人の関係は、変容しながらも続いていくだろう。一時の敗北を分かち合った仲間同士として。そんな緩やかな連
帯感を感じながら、明るい歌を歌い続ければいい。人間はいつだって、良くて五分の戦いに明け暮れているのだ。
[fin]