【 明星 】
◆QIrxf/4SJM




11 :No.03 明星 1/5 ◇QIrxf/4SJM:07/10/06 20:20:18 ID:YDScLqHq
 日曜の午前十時、俺は特にすることも見つからず、姉貴のベッドに寝転がっていた。
 無罪モラトリアムをランダム再生で垂れ流しにして、リズムに合わせて首を動かす。
「肺に映ってトリップぅ〜」お気に入りのフレーズを口ずさみ、寝返りをうって顔を枕に埋める。
 思い切り息を吐いた。枕が湿って熱くなる。押し付けた鼻を軸にして、リズムに乗せて顔を揺らした。
 間奏が終わって、突っ伏したままで口を開いた。少し、声を張り上げてみる。
 俺の美声は、低反発スポンジというフィルターを通り、くぐもった声に変換されて枕の両端から放出されている。
 ローファイになった自分の声が珍しくて、しばらくそのまま歌っていた。
 枕はより湿っぽくなり、熱い。
「グレッチで殴ってぇ〜」と声を発して、俺は跳ね起きた。「飯でも食うか」
 枕に頭突を一発くらわせて、ベッドから降りる。コンポのスイッチを切って、部屋を出た。
 正面で半開きになっている俺の部屋のドアを閉めた。便所で用を足してから、一階へと降りる。
 リビングでは、姉貴がピアノの椅子に座りながら、ワイドショーを見ていた。
 十五年モノのちゃぶ台の上に、コーヒーとバウムクーヘンが置いてある。
 俺はマグカップの取っ手に人差し指を絡めた。「もらいー」
 声に反応して、姉貴はこっちを向いた。
 カップのふちを口につけたところで、俺の手の動きが止まる。
 姉貴と目が合ったからだ。
「それ、ブラックよ」
 俺は姉貴の目を見つめたまま、そっと、マグカップをちゃぶ台に戻した。
「そういうことは、飲む前に言ってくれよ」
「言ったでしょ」
「言われてみれば、確かに」
 俺たちは頷きあった。姉貴はテレビに視線を戻し、俺はバウムクーヘンに手を伸ばす。
「んじゃ、これちょっと貰うから」
 姉貴が振り向いた。
「それ、抹茶バウム」
 掴もうと伸ばした手が、ぴたりと止まる。俺はゆっくり腕を引いて、手の平をポケットにしまった。
「今日はトラップに満ちてる」
「家から出ないほうが身のためかもね」
「ここが火事になったらどうすんだよ」

12 :No.03 明星 2/5 ◇QIrxf/4SJM:07/10/06 20:20:36 ID:YDScLqHq
「私の今日の運勢は絶好調だから、そんなことは絶対に無いわ。ちなみに、うお座は最下位でした」
「今日だけは俺、みずがめ座だから」
「残念ながら、みずがめは一杯です」姉貴は言って立ち上がった。「何か作ろうか?」
「チャルメラ」
「りょーかい」
 姉貴の座った後の椅子は、生ぬるくて好きである。
 そそくさとエプロンを羽織った姉貴が、キッチンでチャルメラを作り始めた。
 俺はピアノの椅子に座って、コーヒーを覗き込む。うっすらと浮かぶ湯気の奥で、俺の顔がこげ茶色になって映っている。
 黒人のリズムをイメージして、息を吹きかけてみた。発生した小さな波は、リズムにあまり関係なく揺れている。
「お待たせ」姉貴がバウムクーヘンの隣にラーメンボウルを置いた。
「ありがと」とんこつ味のチャルメラのいい匂いがする。
 コーヒーの匂いも嗅いでみると、またベクトルの違ういい匂いがした。
「コーヒー」
 姉貴が手を出してきたので、マグカップを渡してやった。ついでに、ピアノの椅子も奪われる。
 俺は座布団にあぐらをかいて座り、割り箸を割った。
「随分と早い昼ご飯ね」姉貴が言った。「いや、遅い朝ご飯かしら」
「ブランチー・ジェット・シティってね」
「馬鹿」姉貴は俺を小突いた。「ブランチ・フェルディナンド。こっちの方が、お腹すいてそうじゃない?」
 俺は麺に息を吹きかけながら、軽く頷いた。そっちのほうが何だかナチュラルな気もする。
 ラーメンボウルの中のチャルメラは、あっという間に消滅した。
「全く足りんな」
「それじゃあ、昼は何か食べに行く? 涼子もそろそろ起きてくると思うし」
 涼子は俺たちの妹である。
「あいつ、ドリエル飲んで寝てたから、夕方まで起きてこないって」と俺は言った。「一人放っとくのも可哀想だから、庭でチャルメラにしよう」
 出前一丁を外で食べるよりは、いくらかクールだ。それに、金欠なので無用な出費は抑えたいところでもある。
「おはよー」後ろで声がした。
 振り向くと、パジャマ姿の涼子が、目をこすりながらこっちを見ている。
「ほら、起きてきたじゃない」姉貴は得意げに言った。「おはよう」
 俺はジト目で姉妹を見ると、姉貴の飲み残したコーヒーを口に流し込んだ。
「苦い」

13 :No.03 明星 3/5 ◇QIrxf/4SJM:07/10/06 20:20:55 ID:YDScLqHq
 俺は立ち上がった。
 冷蔵庫の中からオレンジジュースを取り出して、グラスに注ぐ。
「私もー」姉貴が言った。
 俺は気を利かせて、計三杯のオレンジジュースを用意した。
 ちゃぶ台に置いて、座布団の上に座る。
 涼子が着替えを済ませて戻ってきた。やけに嬉しそうだ。
「お姉ちゃん、この服どう?」キャミソールの肩紐を親指で引っ張っている。
「お前、太ったな」と言って、俺はジュースを啜った。
「兄ちゃんには聞いてない」
「似合ってる」姉貴が言った。「そんなの持ってたっけ?」
「昨日買ったの」
「どこからそんな金が湧くんだよ」
「ヒミツ」涼子は曰くありげに笑った。
 俺は、今朝の空っぽの財布を思い出した。あの軽さは、どこか切ない。「お前――」
 涼子はにやりとしたまま座布団に腰掛けて、オレンジジュースを飲み干した。
「そういえば、お姉ちゃん。今日の運勢はどうだった?」
 姉貴はにやりとした。「みずがめ座は絶好調よ。金運、恋愛運、仕事運、全部星五つ。ちなみに、うお座は全部星一つだったわ」
 涼子は愉快そうに笑った。「私もみずがめ座でよかったあ」
「占いを信じるなんて、馬鹿のすることさ」俺は下唇を出して、眉を上げた。
「所詮、うお座の言うことね」姉貴は鼻で笑った。
 姉貴は横目で俺を見ながら、ずずずと音を立ててジュースを飲んでいる。
 涼子は、キャミソールのトップラインをいじって、小悪魔じみた笑顔を俺に向けてきた。
 居心地がひどく悪い。
「それより、昼飯どうする? 庭でチャルメラ?」
「涼子、起きてきたでしょ」姉貴がキッと俺を睨んだ。
「お、おっしゃる通りでござんす――」
「私、うどんが食べたい」涼子が言った。
「いいわね。たしか、うどんならまだ残っていたはずだけど」
「釜揚げにしようよ」
「そうね、私も楽でいいわ」

14 :No.03 明星 4/5 ◇QIrxf/4SJM:07/10/06 20:21:11 ID:YDScLqHq
 昼飯は、庭で釜揚げうどんだった。

 涼子は意気揚々と家を飛び出し、姉貴はリビングでテレビを見ている。
 両親は今頃、どこかでいちゃついていることだろう。
 姉貴のベッドの上に横になって、俺は財布をひっくり返して振った。
 ひらりと、一枚のレシートが落ちてくる。俺は悲しくなったので、頭まで布団を被った。
「同情を欲したときに、全てを失うだろう」コンポに合わせて口ずさんだ。
 布団の中は、姉貴の匂いがする。ツバキのシャンプーの匂いだ。
 適当に口笛を吹いた。我ながら下手すぎて、大好きである。
 曲が何度も変わった。
「驚きなのは、地下鉄のレールぅ」
 ら行は全て巻き舌だ。気に入っているフレーズは、特に気持ちを込めて歌う。
「密やかな行為に専念し――て?」
 そこで音が止んだ。
 布団から頭を出して、コンポを見る。
 姉貴が立っていた。
「また人のベッドで昼寝?」
「低反発マットレスの気持ちよさを知ってしまった」
「母さんたち、夕飯までには帰ってくるってさ」
 姉貴がベッドに腰掛けたので、俺は半身を起こした。
「京都か」
「いい息抜きになったんじゃない?」
「いい年して、二人きりで旅行なんて」俺は肩を竦めてみせた。
「この私が全部お膳立てしたんだから、文句は言わせないわ」
「涼子のやつ、なんであんなに張り切ってたんだ?」
「気になるの?」
「別に」
「それより、ヒマなんだったら、スマブラしよ」姉貴が言った。

 ゲームをしていると、時間の流れは速い。

15 :No.03 明星 5/5 ◇QIrxf/4SJM:07/10/06 20:21:29 ID:YDScLqHq
 いつの間か涼子は帰ってきて、俺たちの中に加わっていた。
「ヤツら、帰ってこないな」
「渋滞してるのかもね」
 死にそうになったので、俺は電源を切った。
「あ、兄ちゃんずるい」
「そろそろ夕飯にしましょうか」姉貴は言った。「向こうも何か食べて帰ってくるんでしょ」
「じゃあ、兄ちゃん、こっちで勝負しよう」
 残った俺たちは、別のゲームをした。
 勝ったり負けたり、勝率は五分だった。俺はゲームが下手なのだ。
 負け越しそうになったので、俺は電源を切った。「ほら、夕飯できたみたいだぞ」
「ほんとだ」
 俺たちは食卓に移動し、姉貴の作った焼きソバで腹を膨らませた。
 夕飯を食べ終えて、俺たちはクイズ番組を見た。
 必死に答えを考えていると、チャイムが鳴った。
「ただいま」
 両親が帰ってきたのだ。
「お帰りー」姉貴が声を張り上げて、玄関先まで出迎えに行った。
 しばらくして、家族全員がリビングに集まる。
 クイズの答えは見逃してしまった。
「いやあ、すばらしいところだったよ」親父は満足気に言った。「それで、これはお土産だ」
 土産と聞いて、俺の目は爛々と輝いた。
 親父は旅行カバンを開けて、包みを取り出した。
「何かしら」姉貴は言って、丁寧に包装紙を外す。
「抹茶だんごだ!」涼子が嬉しそうに言った。
 俺は両親を交互に睨みつけた。しかし、二人は自分たちの世界に入り込んでいて、俺に気付こうともしない。
「美味しそうだね」涼子は言って、俺に向かって微笑んだ。
「早速、いただきましょ」姉貴もにやにやしている。
 二人は旨そうに団子を食べた。
 俺は自分でチャルメラを作って食べた。
 少し悔しかった。



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