【 敗北=勝利の裏側 】
◆IPIieSiFsA




6 :No.2 敗北=勝利の裏側 1/5 ◇IPIieSiFsA:07/10/06 13:00:54 ID:hws3WzWA
 球場を包み込む興奮は、今この瞬間、最高潮を迎えていた。
 応援席を隙間無く埋めた観客は、三塁側のベンチからその姿が現れた時、地響きのような歓声を上げた。
 それも当然。ここまで苦汁を舐め続けた彼らは、訪れた絶好の機会に、この男を待っていたのだから。
 八回まで、相手の先発投手に散発の三安打、無四球に抑えられ、三対〇で負けている九回表。
 しかしこの回先頭の一番打者がヒットで出塁。二番、三番は倒れるが、エラーとフォアボールでさらに二人が出塁。
 こうして、ツーアウト満塁。三点ビハインド。ホームランが出れば逆転。と、舞台は完全に整った。

『六番、来生に代わりまして、ピンチヒッター、井沢。背番号、三』
 ウグイス嬢の澄んだ声に送られて、その男はゆっくりと打席へ向かった。
 井沢守、三十七歳。今年で入団十六年目を迎えるベテランは、三十代としては唯一の球団生え抜きの選手である。
 若い頃は強肩の外野手として、守備でもファンを魅了していた彼も、年齢を経るにつれて代打専門へとその役割を移していた。
 しかし、入団当初より発揮していたチャンスに強いバッティングは顕在で、今では代打の神様とまで呼ばれている。
 それらの理由があいまって、彼はチーム随一の人気を誇っている。
 井沢は打席に入る前に屈伸、上半身をグルグルと回してから、二度、三度と素振りをした。
 そして彼はゆっくりと右打席に足を踏み入れる。しかしまだ構えない。
 バットは右手一本で持ったまま、左手は投手を制するようにそちらへ突き出す。
 まだ投げるな、という合図。主審が試合再開を告げていないので、投手が投げることはないのだが、これは礼儀である。
 その間に、井沢は足元の土をならし、自らがスイングをするのに最適となる足場を作る。
 それが終わり、バットを両手で構えたことで、主審が試合再開を告げた。

 捕手のサインをうかがっていた投手が小さく肯いた。
 入団三年目の今年、エースとして急成長した右の本格派の投手である。もちろん完封勝利を目指すので続投をする。
 セットポジションから、三つの塁を埋めている走者に視線を送り、投球を開始する。
 初球――内角高め、際どいコースへのストレート。
 百四十九キロの速球に、思わず井沢は仰け反った。
 主審はもちろんボールの判定。三塁、レフト側のスタンドからブーイングが起こる。
 二球目――外角低めに、見事にコントロールされた百四十六キロのストレートが決まる。
 井沢のバットがピクリとだけ動いた。
 主審はストライクをコールする。先ほどとは逆に、一塁、ライト側のスタンドが盛り上がる。

7 :No.2 敗北=勝利の裏側 2/5 ◇IPIieSiFsA:07/10/06 13:02:11 ID:hws3WzWA
 三球目――内角へ力のあるストレート。
 井沢のバットが振り下ろされる。
 ファール。百五十キロのボールに完全な振り遅れ。バットの根っこに当たったボールは、一塁側スタンドに飛び込んだ。

 カウントはツーストライク、ワンボール。投手に有利。
 井沢に投じた三球は全てストレート。これには理由がある。
 投手自身がストレートに自信を持っているから。百五十キロ前後の球速がそれを裏付けている。
 そしてもうひとつ、それは定説として語られている。曰く、『ベテランには速球。若手には変化球』と。
 これは、打撃技術の未熟な若手には変化球で、動体視力の衰えてきているベテランには速球で、それぞれ対しろということである。

 そして投手が四級目を投じるべく、捕手のサインをうかがう。
 ここで初めて、投手は首を振った。そして二度目のサインに肯く。
 セットポジションから投球モーションにはいる。
 井沢が、バットを握る両手にだけ力を込める。
 左足が上がり、前へと踏み出される。
 バットを構えた両腕をそのまま捕手側へ、テイクバックを取る。
 左腕を身体に引付けるようにして引っ張り、後ろに引いた右腕を大きく回す。
 充分に力が蓄えられたバットを、全速力を持って振り始める。
 振り切った右腕、指先から放たれるのは、本日一番の剛速球。
 渾身のフルスイングが迎え撃つ。
 刹那。
 快音を残して打球は、ファンの待つレフトスタンドへと綺麗な放物線を描いた。

 代打逆転満塁ホームラン。

 一瞬、或いは数瞬、静寂が訪れていた。
 そして巻き起こる大歓声。怒号のような、悲鳴のような。しかし間違いなく、喜びの声。
 それらの渦の中、井沢はダイヤモンドを一周する。ホームランを打った者にだけ許される至福の時間。
 ファースト、セカンド、サード、三つのベースをキッチリと踏みしめて、最後にホームベースに右足を落とした。
 井沢はホーム付近で各塁にいたランナー達とハイタッチを交わし、ベンチ前で残りのチームメイトたちの手荒い歓迎を受けた。

8 :No.2 敗北=勝利の裏側 3/5 ◇IPIieSiFsA:07/10/06 13:02:43 ID:hws3WzWA
『今のホームランはどうですか?』
『あれはあかんよ』
『というと失投ですか?』
『失投やないですよ。けどね、四球もストレートを続けたら、いくら年寄りはストレートに弱いゆうても打ちますよ』
『では、そこがバッテリーのミスですか?』
『バッテリーってゆうより、ピッチャーのミスやね。四球目投げる前に、サインに首振ったでしょ?』
『はい。確かに振りましたね』
『多分、キャッチャーは変化球のサイン出してたと思いますよ。けど、ピッチャーはストレートでいけると思たんやろね』
『そして打たれてしまった』
『まあ、若さが出たね。でもね、あのストレートを打った井沢を、何より褒めなアカンよ』
『確かに、球速表示は今日最速の百五十二キロでした』
『こういうことがあるから、野球ってホンマにおもしろいよね』

 その後、続投した投手に後続は打ち取られ、試合は本当に最終局面、九回裏を迎える。
 ライトの守りにつくためにベンチを出た井沢は、再び起こるファンの歓声に、帽子を取って応えた。
 そしてマウンドには抑えの切り札、滝が上がる。
 昨年は日本記録に並ぶセーブ数をあげ、名実ともに球界一のクローザーである。
 その実力は今日も変わることなく、先頭打者を三振。次の打者をファーストフライと、あっと言う間にツーアウトを取った。
 球場に響くのは『あとひとり』の大合唱。
 その声援にのせられて、テンポ良く投げた滝だったが、何が起こったか、突然ストレートの四球を与えてしまった。
 その瞬間『あとひとり』コールが途切れ、盛大なため息がもれた。
 しかしすぐに気を取り直し、再び『あとひとり』が響く。
 今度は丁寧に投げた滝は、ツーストライク、ワンボールとバッターを追い込んだ。
 その時点で、『あとひとり』コールが『あと一球』へと変わる。
 捕手のサインに肯いた滝。セットポジションから放たれたのはストレート。
 バッターは振り遅れながらもなんとか食らいつき、ライトへふらふらと上がった。
 そこに待つのは、ドラマティックな勝利を呼び込むホームランを打った井沢。
 すぐに打球の落下点へ入り込む。
 そして井沢の掲げたグローブにボールが吸い込まれ――――。

9 :No.2 敗北=勝利の裏側 4/5 ◇IPIieSiFsA:07/10/06 13:03:08 ID:hws3WzWA
 歓声が起こった。怒号のような、悲鳴のような。それは間違いなく、怒号と悲鳴と、喜びの声。
 ボールは点々と、ライトのファールグラウンドを転がっている。

 エラー。
 グローブに吸い込まれるかと思ったボールは、グローブの縁に当たり、あらぬ方向へと跳ねた。

 打つ前にスタートを切っていた一塁ランナーは、一度はスピードを緩めたものの、全速でホームを目指す。
 井沢が懸命に追いかける。イージーフライと油断していた為に、誰もバックアップに走っていなかった。
 フライを打ち上げ、諦めていたバッターは慌てて走り出し、一塁ベースを回った。
 ようやく井沢がボールに追いつき、素手で取る。
 一塁にいたランナーが本塁を陥れんと三塁を回る。
 ホームは間に合うか否かのタイミング。
 井沢は迷うことなく、バックホームした。
 彼の放った返球は、唸りを上げんばかりの勢いでホーム方向へと突き進む。
 ベテランになり、代打専門になったとはいえ、さすがはかつての強肩外野手。
 タイミングだけを見れば、捕手が返球を受けて、ホーム上でランナーアウトは間違いなかった。
 そう。捕手が返球を、受けて、いれば。
 井沢が全力をもって放った返球は、一直線に捕手の頭上を通り過ぎて、バックネットの中ほどに突き刺さった。

 この間に、一塁ランナーがホームイン。同点。
 衝撃を吸収するために緩めに張られているネットでも、井沢の豪速球の勢いは殺しきれず、ボールはポーンと夜空に舞った。
 誰もが、井沢も、守備側の選手も、攻撃側の選手も、ファンも、もしかすると審判も、夜空にくっきりと浮かぶ白球を見ていた。
 ただひとり、バッターランナーを除いて。
 白球が落ちてくる。
 捕手のバックアップに回っていた滝がバックネット側を向いて受け取る。
 捕手へボールを返そうと振り向いた滝の目には、ホームを駆け抜けるバッターの姿が飛び込んできた。
 逆転。
 サヨナラ。
 井沢は、返球した位置から一歩も動くことなく、呆然と立ち尽くしていた。

10 :No.2 敗北=勝利の裏側 5/5 ◇IPIieSiFsA:07/10/06 13:03:35 ID:hws3WzWA
『……ということで、サヨナラゲームとなったわけですが』
『いやー、びっくりやね。まさか、こんな結果になるなんて、誰も予想してへんでしょ』
『まったくその通りです。井沢の満塁ホームランが出て、漫画みたいな展開だと思ったら』
『それを超えましたよ。
 今日のヒーローになるはずやった井沢が、まさかフライを取り損なって、その上大暴投するやなんて、漫画でもありませんよ』
『ええ、事実は小説よりも奇なり、とは言いますけど、まさにその通りでした』
『けどね、こういうことがまったく予想できんかったか、っちゅうたら、そうでもないんですよ』
『そう言いますのは?』
『井沢はここ数年、代打専門やったでしょ。守備練習をしてないってことはないでしょうけど、熱心にはやってないやろね』
『なるほど』
『それに加えて実戦やからね。こういうことがあっても、全然不思議やないよ』
『つまり起こりうる要因はあったわけですね』
『そうやね。きちっと守備固めの選手を出しておけば良かったんやけど。
 あまりにも劇的やったから、監督も代えづらかったんかなぁ』
『それはあるかもしれませんね。しかし、今日のゲームは野球史に残る一戦となりましたね』
『九割九分、勝ってた試合が、一転して負けたんやから。まさに天国から地獄やね。
 こういうことがあるから、野球っちゅうのはホンマに最後までわからんスポーツやね』



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