【 8人のテリトリー 】
◆04JNP5h0ko




66 :No.15 8人のテリトリー 1/5 ◇04JNP5h0ko:07/09/30 21:56:53 ID:JUYf/ZEI
女の手鏡に大きく見開いた左目が映っている。上の睫毛を終えて今度は下側に移ったようだ。
右手の指につまんだ黒い綿棒のようなブラシが、バスの鋭い振動をものともせず精密機械のように
ゆっくりと動いていた。金髪と見覚えのある制服の後ろ姿から地元の某高校の生徒だと分かる。
 通路を挟んで斜向かいの席には、膝に黒いランドセルを寝かせ、その上に置いた携帯ゲーム機に
釘付けになって、両の指を激しく動かしている少年の後ろ姿が見えた。
「次は、桜ヶ丘団地入り口、桜ヶ丘団地入り口でございます」

 停留場に着き中央の乗車口が開くと、車内は一気に朝の通勤客で溢れた。
「すみません。いいですか」
 上から囁くような男の声が聞こえ、俺は顔をろくに上げもせず二人掛けの席を窓側へ詰めた。と、
急に凄い圧力が右半身に伝わってきて、横目で見ると、開け放ったスーツの下のYシャツがはち切
れんばかりの丸い腹が見えた。微かに煙草のヤニと昨晩のアルコールが混ざったような臭いが漂って
きて、俺は舌打ちしそうになるのを堪え窓の外に目を移した。
 横を気持ち良さそうにスクーターが追い越していく。
 軽い渋滞に嵌っていることに気付き、定時ぎりぎりのスタンプばかりのタイムカードが気になり始めた。

 前の座席の金髪はマスカラを終え、今度は前髪をいじりながら最終チェックをしているようだ。
「ねえちょっと、あなた……混んでるんだから少し詰めてくれない?」
 傍らに銀縁の眼鏡をかけた中年女が立っていた。大きな皮製の書類鞄を持っている。
 金髪はゆっくり振り向くと、「あ……」と言った。
 二人掛けの席をひとりで占領していて、俺が覗き込むと、脇には通学鞄の他に化粧道具やら派手
な装飾をした携帯やらが散乱していた。鞄には色々なキャラクターのキーホルダーが付いている。
 金髪が座席に散らばったものを片付けて窓際にずれると、中年女は「ふん……」と、聞こえるよう
な聞こえないような息を漏らし、空いた座席の端のほうに腰を下ろして書類鞄を開いた。

67 :No.15 8人のテリトリー 2/5 ◇04JNP5h0ko:07/09/30 21:57:11 ID:JUYf/ZEI
 再び斜向かいに、いつしかイヤフォンまで装着しゲームの世界に没頭している少年の横顔が覗けた。
周りのことなど一切意に介さない様子だった。俺の隣の大きな物体からは、いつの間にか低い鼾が
鳴っている。上体がこちらに凭れ掛かって脚の力も抜けているため、俺は右半身全体に重い圧迫感
と火照りを感じ次第にいらいらしてくる。男の口がぽっかり開いてるせいか、悪臭も益々強い。
「次は市民病院前、市民病院前でございます――」

「混雑してきましたので、後ろのほうの方は奥まで詰めていただけますか」
 感情を押し殺したような運転手の声がマイクを通して無機質に響く。
 外を見ると、まだ五、六人が不満そうな顔で乗車口を囲むようにしている。ただでさえバスは
遅れているのだ。俺は腕時計を見た。いつもの快速電車に間に合いそうもない。
「後ろのほうのお客さん、もう一歩だけ奥へ詰めてもらえますか」
 運転手は我慢強く職務を遂行している。後部の通路に人が詰まってきて車内は熱気を帯びてきた。
金髪が携帯で話し始めた。「もしもしー、アヤ? チョーやばいんだけど――」

 最後の乗客がようやくステップを上がり、コンプレッサーの音とともに扉が閉じる瞬間、俺は何か
小さなものが飛び込んできたのに気付いた。昆虫か何かだろうと思ったが、それはすぐに何処かに
消えていた。金髪は会話を続けている。
「でー、たぶん三十分くらい遅れるからー、佐々木にいっといてー、つーかーアッシのせいじゃ
ないっしー……キャハハハハ!」
 その突拍子もない笑い声の大きさに、狭い通路に立ってメールに没頭していた大学生風の男や、同じ
く窮屈そうに折り畳んだ新聞を読んでいた痩身のサラリーマン風が苦々しく目を上げた。
「ねえあなた、もう少し静かに喋れないの?」
 声を上げたのは隣に腰掛けていた中年女だった。先ほどから露骨に隣とスペースを空けるように
して座り、辛抱強そうに束になった書類に赤ペンを入れている様子だった。
 金髪は携帯から耳を離さず微かに横を窺うようにすると、少しだけ声を低くした。
「あー、ごめんっ、横のオバサンがうるさいだってー、マジ! キャハハ! またかけるわ――」
「あなた、どこの学校通ってるの? 私は……」と中年女はそこまで言うと、金髪の方を向いたまま
細い目を大きく広げて凍り付いていた。

68 :No.15 8人のテリトリー 3/5 ◇04JNP5h0ko:07/09/30 21:57:26 ID:JUYf/ZEI
「あなた……そこ……アンテナ……」
 金髪がやっと会話を終え、仕舞おうとしている携帯のアンテナの先に何かアクセサリーのようなもの
がくっ付いていた。黄色と黒。俺は何か違和感を感じ、金髪の頭越しによくよく覗き込んでみた。
 それは緩慢に動いていた。
 蜂だった。それも並の大きさでない。恐らくスズメバチだろう。
 一瞬の沈黙の後、金髪は「うぎゃー! うきゃー!」と猿のように甲高い悲鳴を上げ、携帯を払い落
とすと蜂はふっ、と飛び立ち金髪の鼻先で刹那ホバリングした後、今度は一直線に隣の中年女の手元に
向かった。金髪は失神したように座席から半分ずり落ちていた。
 中年女は蜂の動きを見失っていたようで、引き攣った顔で何秒かあらぬ方向を見ていたが、ふと自分
の手元を見遣り、右手に持ったままの赤ペンの尻の部分でそれが蠢いてるのを見ると、今度は自分が
絶叫する番だった。
「キェーーッ! キィーーッ!」 怪鳥のような鋭い雄叫びが上がった。

 騒然とした車内の空気の中、全くその空気を読まない女の声のアナウンスが流れた。
「次は菓子の平和堂前、菓子の平和堂前でございます――」
 俺はその後も蜂の動きを追いかけようとしたが、蜂が中年女の悲鳴にびっくりしたかのように飛び
立つと、その行方を見失ってしまった。ふと思い出して隣を見ると、驚いたことに恰幅のよい中年男は
相変わらず大口を開けて鼾をかいていた。

 次の停留場で前のほうにいた乗客の大半が降り、車内はかなり風通しがよくなった。ずっと窮屈な体勢
で新聞を読んでいた痩身の中年サラリーマンは、空いてきた中央付近に移動し軽く伸びをしている。
 先ほど雄叫びを上げた中年女は、この機を窺っていたかのように、鼻息も荒く席を立ち運転席のほうへ
近づいていった。「ねえ、あなた! ハチがいるのよ! 大きいのが……」
 運転手の顔がバックミラー越しにここからも確認できた。無表情で前方を見つめたままだ。
「……はい? すみませんが、運転中は話しかけないでもらえますかね」
 マイクを通して低い、没個性的な声が聞こえてくる。

69 :No.15 8人のテリトリー 4/5 ◇04JNP5h0ko:07/09/30 21:57:48 ID:JUYf/ZEI
「ええ? なんですって! バスの中に大きなハチがいて刺されそうになったのよ!」
 女のヒステリックな調子に、運転手はやや怒気を含んだ声で返した。
「じゃあ窓を開けて貰えますかね。車を止めて追い出すわけにいかないでしょう。ただでさえ遅れてるのに」

 運転手の発言に俺は納得のいかないものを感じたが、よく考えてみれば仕方ないような気もした。路肩
に車を止めて、客を全員降ろして、何処かにいる筈の蜂を追い出すまで再び発車できない、となると……
 俺は我に返って腕時計に目を遣った。既に快速を一本逃してしまっていた。周りを眺めるとやはり俺と
同じような境遇の勤め人が多いようで、それぞれ時計を気にしたり携帯で連絡を取ったり、と落ち着かない
様子だった。蜂はもうどこかの窓の隙間から出て行ってしまったのかもしれない。

――と思いかけたまさにその時、視界の右隅を奴が横切ったのを俺は見逃さなかった。振り向くと蜂は
ゲーム少年の鼻先でホバリングしていた。俺は思わず、おい!と声を上げたが少年はイヤフォンをしていて
俺の声に気付かないようだ。ゲーム画面を食い入るように睨み、相変わらず指をせわしなく動かしていた。
 目の前に蜂が浮かんでいて見えない筈がないのに、と俺が訝っていると、蜂はなんと今度はゲーム機の上
に、すーっ、と降りてきて止まった。蜂は少年を挑発するように液晶の上をもぞもぞと歩き回っている。
 不思議と少年は動揺したように見えなかったが、そのうち急に指を止め、目を三角にしたかと思うと顔
が桃色になるまで大きく息を吸い込み、口を窄めてフーッと一気に風を送り、蜂を吹き飛ばしてしまった。

 吹き飛ばされた蜂は、前の座席の背もたれに衝突し少年の足元に墜落しかけたが、すぐにブイーンと
Uの字を描いて急上昇すると、とうとう怒り狂ったように激しく羽音の唸りを上げて、通路上空の一箇所
で何故かこちらに頭を向けて、8の字を描くようにして発奮している。俺は身震いした。
 次の瞬間、蜂は俺の危惧したとおり、線を引くようににこちらに向かって斜めに滑空してきた。俺は
恐怖のあまりがむしゃらに体の前で手を掻いたが、蜂が向かったのは俺に上体を預けている隣の男だった。
 俺は恐る恐る首をねじり男の顔を覗くと、鼾の息を感じるほどの近さで、ぽっかりと開いた上唇に、
黄色と黒の毒々しい物体が張り付いて、今まさに穴の中に侵入しようとしていた。
 俺は無意識に、うおぅ……と腹の底から搾り出すような低い声をあげながら、脊椎反射のように男の
膝を飛び越え、乗客を一人突き飛ばしながら車内の中ほどまで避難してやっと腰を抜かし、横並びの
シルバーシートにへたり込んだのである。

70 :No.15 8人のテリトリー 5/5 ◇04JNP5h0ko:07/09/30 21:58:43 ID:JUYf/ZEI
 動悸がやっと治まりかけ、先ほどまで自分がいた座席を振り返ると、驚いたことに鼾男はまだ目を覚まし
ておらず、寝ぼけた様子で口の辺りを左手で撫でながらムニャムニャと何かつぶやいていた。今の騒動で
運転手に何か変化があったかどうか窺ってみると、やはり無表情で、遅れを取り戻すべくアクセルを踏み込
んでいるところだった。いつの間にか渋滞は解消していたようだ。
 俺が先ほど突き飛ばしてしまった大学生はその拍子に携帯を落としたようで、床に膝をついて座席の下を
探っている。俺はふと思い出して、金髪はどうしていたかと再度後部に目をやると、先ほどの二人掛けの席
に独りで気を失ったままでいた。ではその隣にいたヒステリー女は?と思い、辺りを見回すと女は運転席の
真後ろの目立たぬ場所に立ち、片手に書類鞄を持ったまま開け放った窓から呆然と外を眺めていた。

「次は終点、極楽寺駅前、極楽寺駅前でございます。お降りの際はお忘れ物のないように――」
 俺は我に返るといつの間にか自分が、連座のシルバーシートに座ったまま、前方上空で浮遊している
蜂の姿を仰ぎ見ている事に気付いた。蜂は再びどこからともなくやってきて、そこにいたようだ。
 ――蜂が俺のテリトリーに侵入してきているのか、俺が奴のテリトリーを侵しているのか……
 ――それにしても何故誰も騒ぎ出さないのか……まさか俺にしか見えてないのか……
 視界がぐらっ、と揺れた。
 バスがさらに加速し、それが合図のように上空で羽ばたいていた蜂がフッと位相をずらし、どこかへ消える。
 床の大学生の隣に立ち、新聞を読んでいたサラリーマンは慣性でよろめき、大学生の手を踏んでしまう。
 ぎゃっ、と叫んだ大学生は反射的に自分を踏んだ足を掴む。片足になった男は遊戯のように数回飛び跳ねて
開け放った窓の外を眺めていた中年女に向かって倒れこむ。
 中年女は驚いて男と正対するが、男の腕が自分の両の乳房をを鷲づかみにするのを見て鋭い悲鳴を上げる。
 女は男の腕を振りほどくと、パニック状態で運転手の方へ駆け寄った。

 運転手の頭上には、また蜂がいて、俺の方を向いたまま空中で静止している。
 女に肩を掴まれてとっさに振り返った運転手の目は据わっている。
 振り向いている数秒の間に、右手だけで押さえているハンドルが勝手にゆっくりと回転し、意思とは無関係に
車体は対向車線のほうへ滑らかに流れていく。
 蜂の勝ちだ、と思った。
 フロントガラスいっぱいに大型トラックの鼻っ面が映り込んだ時
 俺は窓の隙間から奴が飛び出していくのを見た。               ――了



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