【 忘却の疼き 】
◆D8MoDpzBRE




56 :No.13 忘却の疼き 1/5 ◇D8MoDpzBRE:07/09/30 21:48:30 ID:JUYf/ZEI
 緩やかな上り傾斜の山道が、セミの死骸や干からびたミミズによって飾られた様子は、葬送の道と言うに相応
しかった。お墓参りという雰囲気には、縁起でもない言い方だが、とても似つかわしい風景だ。様々な種の骸に見
送られて、夏が逝く。季節は、一度死んでもまた復活できるからいいけれど。
 お墓参りをするには、いささか時期が遅かった。八月も終わろうとしているこの時期、故人の魂はとうに元の天
上へと還ってしまったことだろう。まあ、仕方ない。お墓参りに適した礼服の類も持ち合わせていなかった。その
辺は、見逃してもらえるよう祈るほかない。
 アスファルトの峠道を逸れて、深緑に包まれた石段が山手に伸びていた。
 子供の頃、よく遊んだ場所だ。長い石段を一気に駆け上っても、あの頃は平気だった。懐かしく思い出される。
 断続する木漏れ日が、光の濃度を不均一にしているために、石段の頂点は淡く霞んで見えた。思い出の残像
は、その光景に当時の裕太の後ろ姿をおぼろげに描き出す。裕太。私が追った、小さくて大きい背中。在りし日
のワンシーン、裕太が石段を駆け上る姿が、今やはっきりと私の網膜の中に投影されていた。はしゃぐ声までも
が頭の中で再生されようとした時、私は胸の奥にえぐられるような動悸を覚えた。
 ずん、とみぞおち辺りが重苦しく、疼く。視線が地面に落ち、足が止まる。石段の急傾斜に、体力が付いていか
なかったのだろうか。即座に、私の心がその可能性を否定した。久し振りにアレが訪れたのだ。冷や汗が、私の
頬を垂れ落ちていく。
 目線を上げる。石段の先に見えていた裕太の背中は、すでに跡形もなく消え去っていた。
 息を整える。その間にも裕太のことが色々と思い出されて、胸の中を切なく駆けめぐっていく。
 幼馴染みだった裕太とは、高校三年の夏に付き合い始めて、間もなく別れた。死別だった。
 以来、たびたび私は裕太と出会うようになった。裕太は、高校生の姿をしていることもあれば、幼かった頃の姿
をしていることもあった。少し離れたところに立っていたり、ふと街角で隣同士だったりして、いつも私の傍にいる
ような気がした。亡霊だとは思わなかった。雰囲気的にはどちらかと言えば、幻影に近かった。
 そして、私の持病リストに『動悸』の二文字が綴られた。裕太の幻影を見るたびに、必ずその症状を伴った。
 今年で大学四年生の私は、すなわち四年間、裕太の幻影に心臓の好不調をコントロールされていたことにな
る。お陰で、登山とか水泳とかマラソンとかは出来ない体になってしまった。
 動悸が治まっていく。いつものことだが、特に前触れもなく発作の症状は去っていく。裕太が私の心に留まって
イタズラをするにも、時間的限界があるのだろう。
 もう、大丈夫。再び、私は長い長い石段に足を踏み出した――。

 高校三年生の夏、の夜。澱んだ雨が街灯を浴びて、鈍く光るカーテンを駅舎の外に作り出していた。田舎の駅
は夜八時にもなると人の出入りもまばらで、ましてやこんな雨の日だから、がらんと広くて空虚な待ち合わせ場所

57 :No.13 忘却の疼き 2/5 ◇D8MoDpzBRE:07/09/30 21:48:50 ID:JUYf/ZEI
に取り残された私は、孤独との戦いにいささか消耗していた。
 携帯電話にも着信はないし、こちらからの発信にも応答がない。二時間にも及ぶ待ちぼうけを食らわせている
クセに、裕太からは何ら誠意の兆しが見えない。
 別段、悪い予感がした訳ではない。裕太が待ち合わせに遅れてくるのはいつものことであったし、それを咎め
なかった私にも責任はあるのだろう、とは思った。だが、二時間は長すぎる。そろそろ、ガツンと言ってやる時期
かも知れない。
 一時間に一本の電車がホームに停車するたびに、数人が改札を通って私の脇をかいくぐっていく。その時間
に合わせるかのように、数台の車のヘッドライトが煌々と雨を切り裂いて、駅のロータリーに停泊する。私を置き
去りにして、迎えの車にそのまま乗り込む人もいれば、駐車場に置いた自家用車に向かう人もいた。その数分が
終わり、私は雨の駅舎に取り残されて、再び孤独と対峙させられるのだ。
 帰ろう。
 無為によって生み出された徒労が、ここまでダラダラ粘ってきた私の両肩にのしかかる。私は今、はっきりと限
界を意識した。傘を開く動作一つをとってもひどく億劫で、雨の中を歩き出す決心も遅れた。それでも、帰る。
 駅舎を出るなり、横殴りの風に煽られた雨滴が、防備に晒した私の足元を冷たく湿らせていく。水しぶきが、街
灯や車から放たれる光を攪乱して、幻のように揺れる。
 途中で、裕太とすれ違うかも知れない。そう思うと、道行く人たちに対する監視の目を緩める訳には行かなかっ
た。もっとも、こんな雨ざらしの夜中に、好きこのんで徒歩を選ぶ人など数えるほどしかいない。
 道が二手に分かれた。私の家に向かう細い路地と、裕太の家に向かう大通り。細い路地に、気持ちは傾いて
いた。最後、大通りに目を凝らす。
 ドクン、と何かが疼く。いつもと違う。違和感。
 こみ上げる、寂寞じゃない、夢心地? 違う。
 不安に、近い。
 もっと言えば、絶望――。
 嘘でしょ、と呟いていた。確信めいたものなど、何一つなかった。だから、これは悪い予感に過ぎない。予感? 
違う違う。不吉な連想を振り払う。
 走り出していた。傘など、関係ない。
 この目で確かめる。何なら、裕太の家に押しかけて、彼の無事を確認してから帰ってもいい。最初からそうす
れば良かった。私の馬鹿!
 いつの間にか、傘はない。腕を短距離選手のように振り乱した。火事場の馬鹿力。こんな大雨の中で、火事も
何もないけれど。

58 :No.13 忘却の疼き 3/5 ◇D8MoDpzBRE:07/09/30 21:49:07 ID:JUYf/ZEI
 大通りから折れて、緩やかな上り坂に差し掛かった。些細な傾斜が、先を急ぐ私にとって心底恨めしかった。
逸る心を、どうしても抑えきれずに、がむしゃらに走っていたから、その異様な風景に気付くのは一瞬遅れた。
 赤いランプ。今の私には、赤信号は停止する理由になり得ない。だが、それがパトカーの上で明滅する警告灯
だと知り、大破した自転車、フロントガラスが割れたワンボックスカー、レインコートを着た警官、そういう類のもの
が目に入った頃には、私は自我を支える目的を見失っていた。
 大破した自転車には、見覚えがあった。決定的な物証を突きつけられて、奈落の底が、大きな口を開けている
のが見える。意識は、その大穴に吸い込まれた。
 後は覚えていない。ひどく取り乱したのかも知れないし、失神したのかも知れない。
 気付いた時には病院のベッドの上だった、と言うのはよく聞く話だけれども、私の場合は目覚めるのが少し早
かった。救急車の中で、馬鹿うるさいサイレンの音に起こされたのだ。車の振動とは別に、私もひどい寒さにガタ
ガタ震えていた。濡れていたから、余計に冷えたのだろう。
 私の身体は、狭いスペースの中で固定され、手足を動かすことが出来なかった。縛られているのか、金縛りに
あっているのか。
 大丈夫だよ、大丈夫だからねと単調に繰り返す救急隊員の声を、上の空に聞いていた。政治家の街頭演説に
似ているな、と思った。大丈夫な訳ないじゃないか。自転車も車も、あんなめちゃくちゃに壊れていたのに――。

 石段を登り切り、お寺の境内を横目に雑木林の切れ目を抜けたところに、その墓地はある。山の窪地に設置
された、いかにもひなびた集団墓地だ。お盆を過ぎて、今は長いシーズンオフの時期を迎えているためか、人の
気配はなかった。
 裕太の、正確には小西家の墓地を訪れるのは初めてだった。場所は、以前教えてもらっていた。今の今まで
来なかったことに、これといった理由はない。
 雰囲気は、晩夏と言うよりは初秋を思わせた。空は果てしなく青く抜けていて、ススキは枯れ始めている。
 私は、墓石の前にしばし呆然と佇んで、次いでおもむろに手を合わせた。第一、今はお墓参りの季節ではな
い。そんな思いが邪魔をして、私の動作はいかにもぎこちなく、お墓参りに決まった様式のようなものが存在した
としたら、明らかにそれを外れているだろうな、と思った。
 なぜ今頃になってお墓参りをしようという気になったのか。墓前で手を合わせながら、そんなことを自問する。
きっと、裕太に会いたくなったから。
 時を経るにつれて、裕太の幻影は中々現れてくれなくなった。ことに最近、そう思う。かつて裕太を失った夏と
いう季節が過ぎるたびに彼の面影は薄くなって、いよいよ裕太は私の前に出現しなくなるのでは、なんて不安に
駆られるようにすらなった。さっき石段を上る時に見た幻影だって、もう随分久し振りに見たような気がする。

59 :No.13 忘却の疼き 4/5 ◇D8MoDpzBRE:07/09/30 21:49:23 ID:JUYf/ZEI
 時間が、私たちの思い出を徐々に浸食しているのかも知れない。私の思い出から、大切な裕太を奪い去って
いく侵略者。そんな風に思うのは、少し病的だろうか。
「ああ、十分病的だよ」
 声に驚く。どこから聞こえてきたのだろうか。声色は冷たく、血の通っていない、この世の者ではない雰囲気を
漂わせていた。振り向いても、上を見上げても、誰もいない。
「裕太? 裕太なの?」
 必死になって、かつての恋人の名前を呼んだ。すがるような気持ちに、私自身がかき乱される。お盆過ぎに
なって会いに来たことや、礼服を用意しなかったことが、どうしようもなく悔やまれた。
「気付いていたんだろ? 沙織の目に映る俺の姿が幻影だってことに」
 裕太の声で私の名前が呼ばれたことに、少し嬉しくなる。
「裕太、いるなら姿を現してよ」
「おかしなことを言うね。幻影を見てるのは沙織なんだから、見ようと思えばいつでも見られるんじゃないか?」
 意地悪な言葉に、頭が混乱する。裕太の幻影を追ってここまで来たはずなのに、何が間違っているのだろう。
もしかして、これも幻聴? 他の人には恐らく聞こえないこの声は、幻聴は幻聴に違いない。
「分かんないよ、裕太。あなたはあなたじゃないの?」
 気が付けば、裕太が墓石の隣に佇んでいた。物憂げに空を見上げている裕太の表情は、途方もなく無機質で
土気色をしていて、、四年前に死んだはずなのに、私なんかよりずっと大人に見えた。
 動悸が始まっていた。
「死んでしまった小西裕太は、もうどこにもいない。幻影の俺は、沙織の心の中にいる。もう止めようじゃないか、
こんな問答は。沙織もそう望んでいるはずだ」
 胸の疼きに堪えかねて、視線を逸らしそうになる。いつも、一度目を切ったら裕太の姿は消えてしまうから、必
死でこらえた。
「沙織は俺のことを忘れたがっているんだよ。一方で、日々俺のことを忘れていく自分に対して罪悪感を抱いて、
俺の幻影を追った。忘れようとする心と、忘れまいとする心。いつの間にか出来てしまった心のひずみに、今日、
決着を付けに来たんだ」
「決めつけないでよ。私、裕太のこと忘れたことない。一日だってないんだから」
「忘却は本能の仕業だ。渇望や飢えやまどろみと一緒で、止めようもない」
 氷のように冷たく透き通った声で、裕太は言い放った。それが、疼きの止まらない胸に突き刺さる槍のように感
じられる。
「人はいつか死ぬ。沙織の本心は、胸の疼きから解放されたがっている。もう認めたらどうだ? こうして小西裕

60 :No.13 忘却の疼き 5/5 ◇D8MoDpzBRE:07/09/30 21:49:38 ID:JUYf/ZEI
太の姿を借りた幻影だって、沙織の心を投影している虚像に過ぎない。もっと言ってしまえば、今俺が喋っている
言葉も、沙織が心のどこかで思っている内容を反復しているだけだ」
 聞きたくない。認めたくない。けれども、裕太の言葉は耳を塞いだところで、脳と外界との障壁を易々と越えて
響いてくる。いや、むしろ私の心の中で反響しているのだろう。
 私自身が、裕太の記憶から逃れようとしている。そう言われればそうなのかも知れないと思うくらいに、自分自
身の深層心理のことなんて分からない。
 ふと、私の心に過去の映像が侵入した。突然のフラッシュバック。棺の中で横たわり、永遠にまぶたを閉じた裕
太の姿が、なぜか今見ている裕太の幻影と重なった。
 お葬式は、一番悲しい思い出だ。どうして今更、自分たちの心をえぐるような真似をするんだろう、などと考え
たことを思い出す。
「ここがお墓だから、裕太はそんな姿をしているの?」
「そうじゃない。この姿で、多分最後なんだ」
 裕太の影が薄くなっていく。消えてしまう。
「どういう意味なの? もう会えないの?」
「もう会えない。沙織は、記憶の中にある俺の姿を一つ消化するたびに、俺の幻影を見てきたんだ。そして、これ
が最後。一番思い出したくなかったから、きっと最後まで取っておいたんだね」
「待って、行かないで」
「……ごめん。さよなら」
 裕太の最後の台詞は、もはやほとんど聞き取れなかった。枯れたススキが擦れ合う音と混じり合って判然とせ
ず、風に溶けて消えた。
 相も変わらぬ、秋晴れ。過ぎ去った夏のことを、身体が思い出すことを拒んでいるかのように、吹き抜ける風が
涼しく感じられた。
 決して裕太のことを忘れる訳ではない。裕太と一緒にいたという事実は消えないし、思い出が一生の宝物であ
ることも変わらない。でも、もう裕太の幻影を追うことはない。それが乗り越えることであり、ある意味、忘れるとい
うことなのだろう。最後にさよならと言ったのは、私自身の心なのだ。
 私は、裕太が眠る墓石を一瞥して、踵を返す。目指す雑木林の先には長い長い石段あって、下り坂が峠道へ
と導いてくれるはずだ。
 せめて足取りは軽やかに。動悸はすでに止まっている。

[fin]



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