【 初秋の夜寒 】
◆n44PdPZkEE




54 :No.12 初秋の夜寒 1/2  ◆n44PdPZkEE :07/09/30 14:28:22 ID:yQPCP4jp
 秋雨の降る九月末の真夜中の事だ。男は、この物寂しい季節に、独りで京都の旅館に泊まっていた。
 この男、一人旅を道楽にもち、毎年数々の名所を旅している。本人曰く
「春には生命の芽生えを想い、夏には命が盛るのを感ずる。秋には日の衰えを憂い、冬にはただ独りでいる寂し
さを知る。だから旅行は良い」というらしい。かといって、友人に誘われても「旅先では全く知らぬ人と話した
い」と言って聞かないものだから、毎回こうして一人旅をしている。
 この日は、先日から比べて寒寒としていて、庭先の葉も凍えるように風と雨に震えていた。常日頃風に晒され
た庭石も、季節感のない風に驚きながらじっと耐えている。池は月も写さずに、雨の波紋に揺れながら、だんま
りを決め込んでいるので、庭木が寂しさからか窓から男の部屋を覗くと、真夜中だというに、まだ微かな明かり
がついていた。
 この部屋は、男が庭園を見る為に寺へ行った、その帰りの日暮れ前に泊った部屋で、夕方過ぎに女中が、秋刀
魚のおつくりや豆腐のしめじ餡等を乗せた盆を持ってきたのと、それからもう一度、布団をひきに来た以外、誰
も部屋には来ていない。既に夕食を食した男の腹は大した張りもなく、布団をひいてもらった時に置いてもらっ
た寝酒はとうに飲み終えた。もうこうして何時間も衣に包まっているが、一向に眠気とやらは来る気配すら見せ
ない。仕舞にはこうして、電気スタンドの明かりで、本を読んでいる。部屋は和室の六畳間で、水墨画らしき掛
け軸が床の間に飾ってあるが、薄明かりでぼんやりとしか分からない。男は、ぽっかりとした孤独に不服そうに
しながら、黙って本をめくっていた。
 男は何故眠れないか分からないでいた。尤も、今日は寺を数件巡っただけで疲れが来ていないというのもある
。また、この珍しい初秋の夜寒に趣を感じて、先立つ感傷が為に眠気が来ない、とも言えるが、何れにしたとこ
ろで、既に布団に入ってから数時間と経つ、その理由であるとは断定し得なかった。寝ようとすればすれども容
易には眠れず、また誰も来ない夜中を夢心地ではなく判然とした目で見つめるのはとても寂しく、ますます寝床
の居心地の悪さを感じた。時々夜風が外を駆けていくのを聞くと、室内にいるにもかかわらず、布団の端を肩に
寄せて小さくなり寝ようとするが、それでも早々にまた本を開けて、眠気が来るのを待っている。
 苛立たしさがある域に達したのか、男は掛け布を体に纏いながら、電気スタンドを片手に、端に寄せてある小
さな黒い机の前にあぐらをかいて座った。電気スタンドをつけ、古びた茶色の皮で出来た筆入れから万年筆を取
り出す。虫の声すら聞こえない孤独の中で、男は日記をつけ始めた。
 『九月二十九日 雨天 
少し肌寒い。初秋だというに、夜は木枯らしが吹くように思える。
今日はかねてより行きたかった高台寺を訪れた。圓徳院は長屋門から入り、奥の唐門から方丈へと進んだ。雨
天、初秋ゆえ、人も疎らだが、その中で南庭を臨むのは中々趣がある。ただ、さすがに早いか、紅葉は無い。
途中、等伯の画を眺めていた老人に声を掛けた。・・・』

55 :No.12 初秋の夜寒 2/2  ◆n44PdPZkEE :07/09/30 14:29:58 ID:yQPCP4jp
 人々との話を書こうとすると、何を思ってか、筆が空回りをした。男は、肘をついて唸っている。今日、人々
との触れ合いを思うと、どうにもこの夜の孤独と比べずにはいられないらしい。その為か、十分経っても一向に
ペン先を紙に擦ろうとはしない。いや、既に男の思考の中では、老人との雑談を想起しているのだが、それを日
記に記すのは、どうにも具体化されて適わないようだ。
 どうしておくか書きなずんでいると、突然、カタ、と音が廊下に響いた。いや、その気がした、というだけだ
が、どうであれ男は廊下側の木枠のガラス窓へ、首をひねった。だがそこには特に変わった事は無い。一瞬廊下
を凝視し、また日記に目を移すと、また一つ、今度はギシという足音みたいなものが聞こえる。
 女中ではない。もう夜も夜だ。こんな時間に、しかも他の部屋は皆寝静まったというのに、誰かしら来るとは
思えない。男は厠かと思ったが、それは反対側の通路を通る。とすれば何か。
 男は、今度は暫くの間廊下を見つめていた。今度は、視線に惑わされる事無くギシギシと、ゆっくり進む音が、
風雨の音にかすれながら聞こえてきた。尤も、これもまた気がするというだけで、はっきりとはしない。ただ、
風が暇に任せて悪戯をしているようには思えず、男は尚の事目を離せずにいた。
 更に妙な事に気が付いた。先ほどから既に数分と、この木の軋む音を感じるというのに、一向にこちらへ近づ
いてこない。かといって、気のせいかと言えば、そうではない。俗に言う物の怪の類、とも考えたが、数分経つ
と、思うところあってそれを切り捨てた。
 そうだ。これは私の考えなのだ。今こうして老人との雑談を思い出し、この夜寒の孤独に耐えている私の心だ。
外では風の音以外静まり返り、趣に浸る愉悦も、この孤独に苛まれて私は孤影と成り果てた。あの音は、この底
知れぬ心の空白を埋める為の、慰みなのであろう。事実、私はこうして独りでいるのを忘れ、目の前の怪奇に心
身を囚われているではないか。
 音はこうして考える間も、しっかり男の頭に響いてくる。風や雨の声も、既にこの場には居合わせていない。
ここにいるのは、男と、音と、それを挟んだ木枠のガラス戸だけである。
 男は、段々とこの音が強くなるのを、感じた。すると、何かしらの恐怖が芽生えた。この音が本当にそうだと
しても、慰みが心を侵食していき、その一色に塗り替えられたとき、孤独に対して負けたのだ。孤独によって私
がそのように、変えられたのだ。このような慰みをしなければ、私は孤独と向き合えないのだ。
 既に男が正気かどうかはわからない。兎も、角男は布を纏いながらゆっくりと立ち上がった。そうして、畳を
踏みしめて廊下側の窓を開けた。
 そこには何も無かった。男は、安寧と、再燃した恐怖とをごちゃ混ぜにして、布団に包まり眠ってしまった。

『了』



BACK−地球侵略も楽じゃない◆InwGZIAUcs  |  INDEXへ  |  NEXT−忘却の疼き◆D8MoDpzBRE