【 over night 】
◆QIrxf/4SJM




34 :No.08 over night 1/5 ◇QIrxf/4SJM:07/09/30 12:18:11 ID:JUYf/ZEI
 脈を打つ音が、城内に響いた。杯の上に乗せられた斑模様の大きな卵が、脈にあわせて揺れ動いている。
「おお、鼓動している」杯のもと、数千と蠢く異形の影が、口々に言った。
 城の外では、豪雨が讃えるように降り注いでいる。大きな雷鳴が轟き、ステンドグラスが歪な聖母の影を映す。喝采を贈るかのように、暴風が窓を叩いていた。
 忠誠と希望によって温め続けられた卵は、今まさに孵ろうとしていた。
「主よ! 我らが血を糧となされ」
 卵の上に血が注がれ、赤黒い線となって表面を伝っていく。ぴしりと音がして、卵にひびが入る。脈動とともにひびは大きくなっていった。
 殻を突き破り、小さな腕が現れた。その細い指先には、既に鋭い爪が生えている。震えながら手を開くと、腕と殻の隙間から、黒い靄が溢れ出した。
 靄が手の平の上に収束し始める。
「我らが全てを凌駕する、この魔力よ!」
 卵から突き出た小さな手が、靄を握りつぶした。途端、殻がはじけ飛ぶ。同時に杯も蒸発した。
 どさり、と音を立て赤子が床に落ちた。うつ伏せたままヒクめいている。それは呻き声を上げながら、ゆっくりと顔を上げた。二対の角は真っ赤に濡れていて、緑色に濁った粘液が、赤子の体から滴り落ちていく。
「召し物を持ってこい」と一人が言った。
 彼は片方の眼窩に蛆を飼っており、もう片方の眼球は垂れ下がって揺れている。肉という肉はほとんど残っておらず、こけた頬や数本残った頭髪は老齢であると推測させた。
「召し物にございます」骸骨の侍女が言った。「お食事も用意いたしました」
「うむ。わしの引き千切れた腕では抱くことも叶わぬ」
「わたくしめには畏れ多きもの」骸骨の侍女は一歩下がり、頭を垂れた。
 横から老婆が現れた。彼女には足が三本あったが、どれも枯れ果てているように見える。
「おお、主よ。この腕に抱く無礼を赦したまえ」と彼女は言い、赤子を抱き上げた。
 体についた粘液を綺麗にふき取って、服を着せてやる。老婆は希望に震えながらも赤子の口に肉を含ませた。
 赤子が咀嚼し飲み込むたびに、その体は大きくなっていく。
 赤子から少年へ。彼は口を開いた。「ここはどこだ?」
「あなたの城にございます。我々は下僕、なんなりと」
「お前は私を何と呼ぶ?」
「主と。人は魔王と」
「魔王?」にやりとして続ける。「大仰な物言いだな」
「人はあなたを恐れます。我々はあなたを慕うのです」
 魔王は老婆から大きな肉塊を受け取り、齧って嚥下した。みしみしと音を立て、背中を突き破って翼が生える。
「もはや私には記憶一つ残っていないようだ。いや、私は始まりであるのか?」転生か、誕生か。魔王自身にはわからなかった。
「主は三人の魔女に封印されたのでございます」
「いずれその魔女には礼をせねばなるまい。――ご苦労だった」魔王は小さく笑って、老婆の手に口づけをした。大いなる魔力を受け、老婆の体にみずみずしさが戻る。

35 :No.08 over night 2/5 ◇QIrxf/4SJM:07/09/30 12:18:26 ID:JUYf/ZEI
「本来の姿に!」若返った彼女は両手を握って魔王に感謝した。
「名は?」魔王が問う。
「主の思うままに」
「そうだな、アビィ」
 アビィと名づけられた三本足の女は、頭を垂れて下がっていった。
 後ろから眼球を垂らした老人が現れた。「主よ。わしの引き千切れた腕を見てくだされ」
「顕示欲の強い老獪め」と魔王は言った。「何を考えている?」
「おお、主よ。どうか怒りをお鎮めください」
「戯言よ。無論、お前にも感謝している」魔王は口元を歪めて笑い、老人の眼窩に溜まった蛆を掻き出して宝石を詰めた。自らの唇に触れた指先を老人の額に当てる。
 新たな腕が生え、眼球が眼窩に収まった。容貌は老人のままだったが、背筋は伸び、こけた頬は膨らんで、その体には力強さが戻っている。
「老獪は老獪のままだ。だが、その悪賢さは誇るべきだぞ、爺」
「有難きお言葉。真に受け止めております」
 一礼して下がっていく姿を見て、魔王は気持ちよさそうに笑った。
 雷鳴は止み、城の内部を照らす蝋燭が揺らいでいる。
 魔王は上機嫌に王座に腰を下ろして、ぶどう酒を啜っている。
 ふと、跪いている侍女に目をやった。俯いた頭巾の下から少しだけ骸骨が覗いている。「顔を上げてみよ」
 侍女は顔を上げた。 髑髏の形はとても整っていて、黄ばみの欠片も無い。
「美人だな」
「人の淫欲を生きる糧としておりました」と彼女は言う。「今は見る影もございませんが」
「ならば、純朴になれ。私も、お前が朽ち果てずに今まで残ったことを、淫らな人間に感謝しよう」魔王は侍女の手を取った。「名は?」
「かつて、主にはエルマと」
「よかろう、エルマ」魔王は彼女の頭巾を剥ぎ、頬骨に口付けをした。「これからは私の魔力を糧とすればよい。望むのならば、精もくれてやろう」
 骸骨だったエルマに、かつての肉体が戻る。包み隠しているローブの上からでもわかるほどに、豊満で色気の漂う淫乱な体である。
「優しきお言葉。感謝の念に堪えません」
「私を待った者への礼だ」魔王は再びエルマに口付けをした。「朽ち果て死んでいった者には墓を用意しよう。そして、ここにいる全ての者に、我が魔力を分け与えよう」
 魔王が腕を振り下ろす。真っ黒な闇の粒が、ゆっくりと下僕たちの体に降り注いだ。
 数千の歓声が上がり、それぞれの体にみずみずしさが戻っていった。かつて世界を掌握していた者たちの再興である。

 封印された大聖堂の奥深くで、今ここに蘇った三人の魔女がいる。
「我々が目を覚ましたということは、魔王が復活したということ」

36 :No.08 over night 3/5 ◇QIrxf/4SJM:07/09/30 12:18:45 ID:JUYf/ZEI
「地上における魔力の流れが、人間たちのもとを離れ始めている」
「神は死んだ」
「我々だけの力で、再び封じねばならぬ」
「あるいは、理解を得ねばならぬ」
「それが、我々の使命」

「以前と、私は変わったか? エルマよ」
「私に対する深き愛に、ただ感謝するのみです」
 魔王は笑った。「どうやら、まるで正反対だったようだな」
「すべてを赦す寛大さは、かつての主にはございませんでした。主は、すべてを淘汰し粛清なさった」
「かつての罪だな。――罪が、償い許されるものであるのならば」
「主に罪はございません。罰は我々にこそ下されたのです」
「だが、お前たちは罰を乗り越えたのだろう」
 エルマは深く頷いた。
「世界はどうなっている?」
「神の死んだ地上に秩序は無く、信仰を失った人間たちにとって、統制はもはや不可能な代物。我々が人間たちに与えた傷は膿み、文明は滅びました。それでも、武器だけは鋭さを増している」
「王たる人物は?」
「ありません。どんな超自然的な資質を持つ者も、統べるには値しませんでした」
「地上は、それほどまでに腐敗が進んでいるというのか」魔王は立ち上がった。「地上に降り積もった煤は払わねばなるまい。そして、綺麗に磨く必要がある」
 外套を翻し、歩き出そうとする。
「お待ちください! 私は、エルマは、主の愛に大いに感謝しております」
「エルマよ。わかっている」魔王はエルマの肩に手を置いた。「だが、行かねばならん。我々が人間と争い奪い合うほどに、かつての地上は光り輝いていたのだろうからな」
「どうか、私の話に耳を」エルマは魔王の足元に跪いた。「私は、人と交わることで力を得てきた者ゆえ、わかるのです。人は、滅ぼしてはならないと」
「精なら私がくれてやると言ったはずだが」
「そういう意味ではないのです! 人は、様々な考えを持っています。善悪は人の数だけ存在し、衝突すれば打ち消しあう。故に、人は神を信仰することで、大いなる善を作り出した。しかし、神は死んだのです。死ぬ間際に、我々魔性を産み落とした」
「人間たちにとっては、さぞ迷惑なことだったろうな」
「魔女は、神の遺志を継いだ存在です」エルマは涙を流した。「私は嫌なのです。主が、再び殻の中へ閉じ込められてしまうことが――」
 エルマは魔王の足元でうずくまり、体を震わせている。嗚咽が聞こえた。
 魔王は優しくエルマの肩を抱いて立ち上がらせた。同じ目線の高さで微笑みかける。
「まるで、私の力が魔女に劣っているかのような言い草だな?」魔王は静かに言った。「エルマよ、罪は償われている」

37 :No.08 over night 4/5 ◇QIrxf/4SJM:07/09/30 12:18:59 ID:JUYf/ZEI
 魔王はにやりとして、手の平に浮かべた魔力を握りつぶした。「心配するな。人間にも感謝していると言ったであろう」

 莫大な魔力が、城に迫りつつあった。三つの恒星を思わせるほどに、陽に満ちた真赤な魔力である。
「例の三魔女か。爺ならばどうする?」
「迎え撃ち、嬲り殺しにしてご覧に入れましょう」
「――老獪め、ただの老いぼれに堕ちたか」魔王は冷笑した。「貴様のような考えの者は私の前に出てくると良いだろう」
 睨みつけると、爺は腰を抜かして、尻餅をついたまま必死に下がっていった。
「アビィよ」
「私には、何も申し上げることはございません」アビィは深々とお辞儀をした。「我々に下された罪は、償われたのです。しわがれた老女の姿から、今の容貌を取り戻すことができた。主の口付けを、再び受けることができた。それだけで私は満足なのです」
「お前たちを処刑した三人の魔女だろう。それに、失われた時は戻らない」
「これからの我々の時間は永遠でございましょう。すべては、主の思うがままに」
 魔王は笑った。「そういえば、封じられたのは私だったな」

 闇夜の上空に、一欠片の月が出ている。城の外に立った魔王は、迫り来る三人の魔女を視界に捉えた。闇に紛れるようなローブを身に纏い、腐りつつある竜の背中に乗っている。
「ほう、中々の美人ときている。竜も楽しそうだ」魔王は口元を歪め、三人が目の前に降り立つのを待った。
 竜の羽ばたきが、腐臭を運んでくる。溶け落ちた肉片が、魔王の周囲に撒き散らされた。竜はゆっくりと魔王の目の前におりてきて、血反吐を吐いて倒れた。
 中央に控えていた魔女が歩み出た。「魔王よ、人を滅ぼそうというのなら、その身を再び封じさせてもらう」
 二人の魔女は、一歩引いた位置で、吟味するように魔王を睨みつけている。
「我々は、罪を理解した」魔王は口元を釣り上げた。「神は死んだ。全ては、ここにいる私たちに委ねられている。聞けば、地上は腐り落ちようとしているらしい。その竜のように」
「魔王によって滅ぼされるよりは、幾分の救いがある」と魔女が言う。
「我々は、理解することで償ったのだ」魔王は、魔女に対して手を差し出した。「誓おう」
 三人の魔女は向き合って、頷いた。
「信じよう。理解を得ることこそが、我々の目的」魔女は言って、魔王の手を握ろうと手を伸ばした、――その時である。
 魔王の目の前、魔女の足元が膨れ上がった。
「女豹共が!」これは爺の声だ。地面から飛び出して、魔女の首根に掴みかかったのである。「主の邪魔は許さん!」
 爺の魔力が収束し、魔女の首元で爆発する。
 しかし、魔女は動じない。「これが、貴様の理解したものか、魔王!」と言って爺の頭を地面に叩きつけると、左右で控えていた魔女が追い討ちをかけた。
「主よ! 地上の全てを手に入れるのです!」二つの莫大な魔力に挟まれて、爺は絶命した。
「固陋め」魔王は顔をしかめ、爺の屍骸を見下ろしていた。
 魔女三人は並んで立ち、詠唱を始めた。かつて魔王を封印した呪文そのものである。

38 :No.08 over night 5/5 ◇QIrxf/4SJM:07/09/30 12:19:13 ID:JUYf/ZEI
「もう一度償え。ちっぽけな殻の中でな」魔王に向けられた手の平から、真っ白な魔力の線が伸びる。
「全ての者が、理解していたわけではなかった」魔王は抵抗しなかった。「それを知っていて何もしなかった。これは私の罪だ。受け入れよう」
 魔王は目を瞑った。魔力の線が魔王の体に絡みつき、雁字搦めにするだろう。それは殻となり、魔王に精神と記憶を失わせてしまうほどの孤独を与えるのだ。
「主は、封じられてはなりません!」
 魔王は目を開けた。「おお、エルマよ――」
 真っ白な魔力に絡まれているのは、紛れも無くエルマである。
「邪魔をするな、淫魔ごときが」魔女は吐き捨てた。
「主は、あなたたちの望んだように、生まれ変わったのです。主は、人間に感謝の念すら抱いた。そして、闇が光を侵し、飲み込んでしまえば何も残らないことを理解した! 私はこのまま封じられてしまっても構わない。けれど、主を封じるのは、どうか――」
 絡みついた魔力が硬質化していく。喉が侵され、訴える声は呻き声に変わった。
「エルマ!」魔王はエルマに絡みついた魔力に爪を立てた。あらん限りの魔力を込めて引き剥がそうとするが、傷一つ付ける事は出来ない。魔女を睨みつけるしかなかった。「これは、私の罪だと言ったはずだ!」
 三人の魔女は、目の前で必死に抗っている二人の魔性を眺めていた。魔王の爪は剥がれて、血が流れ出ている。
「我々の目的は、理解を得ることだ」魔女は言った。「しかし今、我々がしていることは、かつて魔王がしていたことに等しい」
 魔女は頷きあい、魔力を解いた。
 自由になったエルマの体が倒れる。魔王がしっかりと抱きとめた。
「理解は得た」魔女は言った。「我々の存在は、もはや不要である」
 三人の魔女は指先に魔力を込めて、喉元に当てた。
「待て」魔王はエルマを抱きかかえたまま、魔女に歩み寄った。「感謝している。私は以前の記憶を失くしてしまったが、生まれる喜びを得た。それは、伝えておかねばならない。――お前たち、名は?」
「我々は三人の魔女であり、それで完結している。人から魔女へと堕ちたとき、既に決まっていたことだ。そして、役目が終われば消えなければならない。それが、神の遺志」
 魔王は魔女の手を取り、それぞれに口付けをした。「左から、オーガスタ、コーディリア、ソフィア」
 三人の魔女という存在は、消滅した。
「神の御使い、竜よ」魔王は、血反吐を垂らしながら辛うじて呼吸している竜の鼻先に口付けをした。「いや、ミリセントと呼ぼう」
 竜の体から蒸気が上がり、音を立てて小さくなっていく。やがて光に包まれて、中から一対の翼が大きく飛び出した。一回り小さな竜が、完璧な姿で蘇る。
「さあ。魔性として、大いなる悪を演じるとしよう」魔王は新たな三人の魔性と竜を引き連れて、城に戻っていった。
「無茶をしたな」傷ついたエルマをベッドに寝かせてやりながら、魔王が言った。「感謝している」
「この度のご無礼、どうかお許しください」エルマが言った。侍女である彼女を魔王が介抱しているのである。その苦しげな表情は、傷だけが理由ではなかった。
「気にするな」魔王は笑い飛ばした。
「非常に畏れ多きことなのですが、よろしいでしょうか」エルマは頬を上気させた。
「気分がいい。何でも申せ」
「どうか、精を私に」エルマはさらに顔を赤くした。「――魔力が、足らないのです」
 魔王はにやりとした。「実は私も、人間の営みに少しだけ興味が湧いていたところなのだ」



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