【 夢果てるまで 】
◆dx10HbTEQg




116 :No.29 夢果てるまで1/4 ◇dx10HbTEQg:07/09/24 03:18:54 ID:SCEDXoXb
 故郷が嫌いだった。馴れ合うばかりの人間関係、無意味に押し付けられる慣習、つまらない毎日。
真剣に志していた夢さえも理解されず、私は一人背を向けた。
都会は厳しかった。突き放されるばかりの人間関係、誰も教えてくれない慣習、くたびれる毎日。
真剣に志していた夢は潰え、私は独りとなった。
 そして今度は寒さと飢えを私に叩き付けた都会から背を向け、私は故郷へと進む電車で揺れていた。鈍行で
十五時間近い旅は老いた体に酷く負担をかける。
 いっそ帰ってしまおうか? そんな誘惑が頭をもたげるが、未だ耳にこびり付いたままの声が押しとどめる。い
つまでも過去の諍いにこだわり続けるほどの若さは疾うに失っていた。そもそもこんな男に帰る場所などないのだ。
 きっと歓迎されなどしない。もしかしたら追い出されるかもしれない。目的地に近づくたびに重くなる私の心など
気にも留めず、電車は変わらぬ速度で突き進む。きっと、父親の病状も悪化の一途をたどっているのだろう。
 僅かな可能性をかけて携帯だけは捨てないでいてよかった。充電の状況を示すアイコンが瀕死を訴えていたのを
無感動に眺めやった時、悲鳴が私の脳をかき回したのだった。しかし父親の危篤を伝えてきたのは家族ではなく、
仲の良かった女性であった。私の中では二十代のまま止まっていた彼女の時間も、共にもう四十年も進んで
しまっていたのだと実感させられるような、そんな声だった。
 この辺りも随分景色が変わったらしい。コンビニを発見して、何か生ぬるいものが胸を侵略し始める。四十年ぶり
なのだ。母親は私が上京してすぐ他界し、父親はもう八十歳。家が増え地名すら変わった場所もあった。それでも嘗てを
思い起こさせる物は確かに残っていて、後ろめたい郷愁が頭を占める。やはり帰ろうか。でも、何処へ?
 ぼんやりとしていた私の耳朶を、懐かしい地への到着を告げるが打った。嗚呼、着いてしまった。
 乗り過ごすわけにもいかず、のろのろと立ち上がってドアの向こうへと足を進める。嗚呼、本当に着いてしまった。
 音を立てて私を締め出した電車が次の目的地へと去るのを背後に感じた。もう逃げ出すことは出来ない。都会へと
戻る金などないのだ。意を決して顔を上げると、無人の改札口の向こう側に中年の女性を見つけた。
「正紀?」
「……美里?」
 電話をしてくれたのが彼女でなければ気づかなかっただろう。スレンダーだった彼女の体格は眉をひそめたくなる
ものに変貌し、皺だらけの顔に塗られたファンデーションが暑さに溶けている。生ぬるい風が、きつめの香水を運んだ。
「やっぱりそっか。ここで降りる人なんてほとんどいないからね、来るなら正紀だと思った」
 痩せたねとか、久しぶりだねとか、そんなことを呟きながら、美里は私の腕をがっちりと掴んだ。あまりに力が強くて
骨が折れると抗議しようとし、しかし彼女の表情にはっとした。
「そんなに」口を開いた瞬間に痛みが走った唇を湿らせ、私は囁くように聞いた。「そんなにやばいのか?」
 何も言わずに小さく頷いた美里は、絶対に逃がさないとばかりに更に力を強めた。

117 :No.29 夢果てるまで2/4 ◇dx10HbTEQg:07/09/24 03:24:03 ID:SCEDXoXb

 古ぼけた横開きの扉がガラリと大きな音を立てた。今の瞬間、この家に誰かが訪問したことは近所中に知れ渡っただろう。
 昔と変わりないプライバシーのプの字もない状況に苦笑して、そのまま水差しを手に持った男性と目が合った。小さな頃
からよく似ていると言われ続けた、兄。鏡を見ればいつでも存在する姿とほとんど変わらない容貌は、冷たく私を見据えた。
「お前、どうして」
「私が呼んだの」言葉につまった私を助けるように、美里が強い口調で言った。「駄目だったかしら?」
「駄目とかじゃなくて、今更」
「親子の関係に今更なんて、そんなものないでしょう?」
 兄は私と美里と交互に見やり、ため息をついて顎で一つの部屋を指し示した。私と違って道義を重んじる彼は、自らの
感情よりも瀕死の父親への思いやりを優先したらしい。
 踏みしめるたびにギシギシと悲鳴をあげる廊下に、三人の沈黙が降りる。嗚呼、嗚呼、来てしまった。胃の痛みに顔を
しかめる私の前で、襖が音もなく開かれた。
「父さん」膨らんだ布団に、兄が声をかける。「正紀が」
 それだけ言って、彼は水差しを握り締めたまま部屋を出て行った。当初の目的が果たせていないと教えてやろうかとも
思ったが、やめた。きっとそれくらい私と一緒の空間にいるのが耐えられなかったのだろう。
 引き止める間もなく気をつかってか美里まで退室し、途端に私は父親と二人きりになってしまった。
 どうすれば、いいものか。
 このまま突っ立っているわけにもいかないだろう。だが、行動を起こすのも怖い。逃げたい。逃げようか。挙動不審に
部屋を見渡す。テレビが一台と、数え切れないほどに積み重なったビデオテープ。どれぐらい寝たきりなのかは分からないが、
それが暇つぶしのためにあるのならば相当長くこの部屋から動けないでいるのだろう。そんな父親と顔をあわせる?無理だ。
逃げたい誘惑に打ち負けそうになったその時、布団が動いた。 
「ふん。正紀か。結局東京にいったって何も出来なかったみたいだな」
 勝ち誇ったように笑う父親に、懐かしい反抗心が蘇った。どこが危篤、だ。十分元気じゃないか。
「お前が知らないだけだ。私はちゃんと成功した。何本ものドラマに出たんだ。それに、映画にも」
「そうか」
 興味なさげな返答に熱いものが駆け巡った頭は、父親の顔を見て一瞬にして冷たくなった。顔色は青く、頬は痩せこけて
いる。多分、すぐに死んでも驚かない。
 そんな私の態度を彼は笑い飛ばす。
「なんて顔してやがんだ。俳優になるんだ、とかなんとか叫んで家を飛び出した悪ガキがすっかり大人しくなりやがって」
「こんな田舎にいたって何も出来ないだろ」

118 :No.29 夢果てるまで3/4 ◇dx10HbTEQg:07/09/24 03:24:17 ID:SCEDXoXb
「なんだ、図体はでかくなったが、まだ頭のほうはガキだったか」
 ……瀕死だろうとなんだろうと、言う事は四十年前から一切変わっていないらしい。
 私には才能など無いのだと、地道に田舎で生活をしていたほうが幸せだと、クドクドと説いた家族。その煩わしさが
一層私の都会への憧れを強めたのだ。一応死に様を見届けようと思っただけだったのに、また説教されるとは思わなかった。
「お前のほうは順調に老いぼれになったらしいな。今にも死にそうじゃないか」
 さっさと死んじまえ。本心ではなかったが、嘗ての調子で思わず悪態が口から滑りでた。
 家族との反目は、間違いなくこんな私が原因だった。それに気づいたときには手遅れで、今更態度を改めるわけにも行かず
に私は都会へと旅立ったのだ。俳優になりたいというのも半分は偽りで、ただ悪化していく関係から逃げたかっただけだった。
「けっ。手前に言われたくはねえよ。どうせ死んだみたいに生きてるんだろ」
「だから、私は成功したって言っただろう?」
 もちろん嘘だった。成功などとは冷静だったなら口が裂けても言えない。
 爆発に驚いて叫ぶ役、ベランダで洗濯物を干す役、お土産屋で人ごみに押しつぶされる役。
 ほとんど全部が台詞さえない役柄を振り当てられた私は、確かに父親の言うとおり才能がなかったのだろう。
「“まさかり担いで三千里”“青ヒゲ消失事件”“ある幼女との一日”」
「は?」
 だから、思わず間の抜けた声が出てしまった。それは全て私が出演したドラマや映画のタイトルだったのだ。
 呆然とする私に、父親は顔色の悪さを感じさせないような人の悪い笑みを浮かべる。
「“千人の妹”では大役だったな。六十七人目の妹と結婚する役だったじゃないか」
「でも同じような役は沢山いた、……じゃなくて」
 何でそれを知っている? 出演したといっても一分にも満たないものばかりだ。最長で四分二一秒。数えていることが虚しく
なったのはもう三十年近く前だ。
「俳優になるとかわけのわからないことを言っていた知り合いがいてな。見つけてやろうと片っ端から探したやったのさ」
「……馬鹿なのか?」
 今度の悪態は、心の底から滑りでた。阿呆だ。本物の阿呆だ。
 勝手にしろと怒鳴った父親が、ちまちまと毎日テレビを見る姿は想像もできない。私を見つけるには、何度も
何度も見返さなければならなかっただろう。そもそも一度も連絡を交わさなかった私が本当に俳優を志したかなど分か
らないにも関わらず、だ。
「まだ諦めてなんかないんだろ?」
 確信しているかのように笑う父親に瞠目した。諦めてない? まだ? そんなわけあるか。今までの活躍もない六十の
年寄りに大きな仕事を任せてくれるような、そんな優しい業界ではない。長い付き合いだからとお情けで出演させてくれる

119 :No.29 夢果てるまで4/4 ◇dx10HbTEQg:07/09/24 03:24:30 ID:SCEDXoXb
人も居たには居たが、もうこの数年は音沙汰がなくなっていた。家さえも失い、ゴミ箱を漁るような生活を送る男など見向き
されるはずもないのだ。
「……もうこんな歳だ」思わず情けない声が出た。「俺だって大人になるさ」
 夢を追い続けるのはガキの仕事だ。父親にとってはガキなのかもしれないが、それでもやはり図体は大人
なのだ。頭だってそれに伴い諦めることを学習する。
 俯いた私の頭を、不意に細く大きな手のひらが覆った。驚いて顔をあげようとすると、意外な強さがそれを押し
とどめる。乱暴にかき混ぜるその指は、薄くなった髪を通して父親の体温を伝える。随分と冷えているが、まだ
仲のよかった頃を思い出させるには十分な暖かさを帯びていた。
「お前が、大人だって?」
 大人しく撫でられているのは、年老いた親父に無理をさせないためだ。仕方ないからだ。
 そう自分に言い聞かせながら、滲む視界の中、親父の言葉に耳を傾ける。
「正紀。お前はいつまでも、俺の――」
 手のひらが、滑り落ちた。
 はっと顔を起こすと、背を丸めた親父が苦しそうに咳き込んでいた。ぼたぼたと、口を押さえる指の隙間から赤い液体が零れる。
 唖然とする私の背後で、勢いよく襖が開く。
「父さん!」
 兄が水差しを持ったまま走り寄った。枕元に座った彼からやっと開放された水差しは、しかし横倒しにされ水差しとしての
役割を失う。
 必死に開放する兄と、青ざめた美里。どんどんと力を失っていく親父。
 私は、一人呆然と立ち尽くすしかなかった。

 そして、葬式を待つことなく私は都会へと一人旅立った。旅費については美里に土下座した。
「まだ俺は、やれるよな」
 離れていく故郷へ向かい、私は囁く。そう簡単に諦めていいはずがない。
「そうだろ? 親父」
 だって、私は親父の子供なのだ。
 

<とっぴんぱらりのぷうどびーん>



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