【 子供と大人 】
◆M0e2269Ahs




98 :No.25 子供と大人 1/5 ◇M0e2269Ahs:07/09/24 03:00:18 ID:SCEDXoXb
 虫の声を耳にしながら、草むらに埋もれるようにして釣り糸を垂らしていた。
 川の流れにあおられて、浮き沈みを繰り返す玉浮きを眺め始めてから、どれくらいの時間が経っただろう。
 三つの小川が合流するポイント。俺しか知らない秘密のポイントだ。
 昨日、田原のおじさんに養殖場のニジマスが逃げたらしいという情報を聞いて早速こうしてやって来たというのに、
ニジマスはおろか、いつもは簡単に釣ることができるウグイすら引っ掛からない。
 ふと、俺の隣でおにぎりを幸せそうにほおばっている美弥子に視線を移した。
 俺の視線に気づいた美弥子は、もぐもぐと口を動かしながら首を傾げた。口元にご飯粒がついている。
「ったく。絶対美弥子のせいだかんな。お前がいるから釣れないんだよ」
 俺の言葉に、美弥子は口の動きを止めた。そしてスイッチでも入れたかのように眉毛を八の字にして、大きな瞳を潤ませる。
 慌てて視線を逸らした。失敗した、と思った。もう美弥子の方を見なくても、どんな顔をしているのか想像がついた。
 虫の鳴き声にまじり、鼻をすする音が聞こえてきた。心の中でため息を吐いた。
 泣くのは卑怯だ。いつもなら今頃ウグイの四、五匹は釣れていてもおかしくない。いつもと同じ仕掛けだし、いつもと同じ餌だ。
じゃあ、何故釣れないのか。そんなの俺にもわからない。でも、いつもと違うことと言えば、俺の隣に美弥子がいるくらいのものだ。
 それを指摘して何が悪い。美弥子に泣かれてしまったら、俺はどうすればいいのかわからないじゃないか。
「ごめんね。祐くん、ごめんね」
 美弥子が声を震わせて言った。俺の肩に手が架かる。俺は肩だけを動かしてそれを払った。
 そんなに強く払ったつもりではなかった。だが、その拍子に美弥子の手からおにぎりが落ちてしまった。
「あ……」
 どちらともつかず声が出た。美弥子に目をやると、堰を切ったかのように涙が溢れ出したところだった。
 昼飯に食べようと、美弥子が作ってきてくれたおにぎりだった。
 草むらに落ちたおにぎりは、無情にもそのまま川の中に音を立てて消えた。
 美弥子は堪えきれずに、声を上げて泣き出した。無性に叫びたい気分になったが、叫んだらきっと美弥子がもっと泣く。
 ここはやっぱり、俺が謝らなければいけないのかもしれない。でも、その前に釣りはおしまいだ。
 そう思い、釣竿を片付けようと立ち上がろうとしたときだった。俺に抱きついて謝ろうとしたのか、美弥子が両手を絡ませてきた。
 急な衝撃に、俺は大きくバランスを崩した。そして、そのまま川に落ちた。
 足がつかないほど深い川ではない。しかし、夏とはいえ川の水は冷たい。反射的に体を起こしたが、そのほとんどがずぶ濡れになった。
 そんな俺を見て、美弥子は怯えるように身を竦めていた。俺は、美弥子を無視して草むらに上がると、そのまま土手を駆け上がった。
 土手の上に用意してあったバケツを手に取り、中の水をその場に捨てた。美弥子が包みを持って上がってくるのが見えた。
「……祐くんごめんなさい」
 蚊の鳴くような声で謝った美弥子を無視して、俺は釣竿から仕掛けを外していた。その間、美弥子はずっと泣いていた。

99 :No.25 子供と大人 2/5 ◇M0e2269Ahs:07/09/24 03:00:58 ID:SCEDXoXb
「……くん。立川くん」
 呼びかけられた声に気づき目を開けると、希美先輩が微笑みを浮かべて俺を見つめていた。
「やっと起きてくれた。はい、これ」
 椅子にもたれかかるようにしていた身を起こし、礼をひとつコーヒーを受け取った。どうやら残業の途中、眠ってしまっていたようだ。
 希美先輩は、俺の隣のデスクから椅子を引き出して長い足を組んだ。
「夢見てたみたいだね。どんな夢だったの?」
 どこか意地悪そうな笑みを浮かべているのが気になった。間を空けてはまずい。とりあえずコーヒーを口に含んだ。少し温い。
「美弥子って誰?」
 あやうくコーヒーを噴き出しそうになった。そう、俺は確かに美弥子の夢を見ていた。鮮明すぎる夢を見ていた。
 だが、それはたぶん、正直に話すことではない。そう思ってはいたのだが――。
「寝言、言ってました?」
「言ってた言ってた。なんだか愛おしそうに『美弥子〜』って唸ってた。誰なの? 彼女?」
 笑顔を少しも崩さずに言った希美先輩から、その本意が垣間見えた気がした。
「違いますって。ただの昔の友達です」
「友達? そうかなぁ〜。ただの友達の名前が寝言に出てくるものかなぁ〜」
 希美先輩は、わざとらしく首を傾げてみせた。嫌味を言ったのだと思うが、俺にはそう感じられなかった。
「本当に違いますって。信じてくれないなら、いいですよ別に。ああ、悲しいなぁ」
 お返しとばかりにわざとらしく言って席を立ち、片づけを始める。
「え? あ、ちょっと待って。冗談、冗談だってば」
 あたふたとその場で手を動かし弁明する希美先輩は本当に可愛らしく思えた。
「わかってますよ。でも、今日はこれで帰ります。明日朝早いんで」
「とか言って〜。ほんとは美弥子って子とデートでもするんじゃないの?」
「そうかもしれませんね。ではお疲れ様です。コーヒーありがとうございました」
 希美先輩がなにやら文句を言っていたが、聞こえないふりをして背を向けた。あとでメールでも送っておこう。
 時計を見ると、十時半になったところだった。有給をとった明日の分の仕事ができたとは言えなかった。
 ロビーを出たところで、ため息が出た。まさか、会社で美弥子の夢を見るとは思わなかった。
 いや、それも仕方のないことかもしれない。
 明日、美弥子の十三回忌が行われる。だから、美弥子の夢を見たのだろう。そう思うとどこか胸が疼いた。
 美弥子のことが忘れられないのだ。希美先輩のことを思えば、美弥子のことを考えてはいられない。
 しかし、忘れてはいけないのだ。

100 :No.25 子供と大人 3/5 ◇M0e2269Ahs:07/09/24 03:01:11 ID:SCEDXoXb
 久しぶりに訪れた田舎の風景は、良くも悪くもまったく変わっていなかった。
 高校に通うために田舎を出てからだから、九年ぶりになるだろうか。その年月を感じさせないほどゆっくりとした時間が流れていた。
 俺は、法要が始まる前の時間を利用して、あの釣り場に来ていた。三つの小川が合流する、あの秘密のポイントだ。
 ここも何も変わらない。あの夢の中と同じ。あの頃と同じ。ただ、美弥子だけはそこにいない。
 三田村美弥子は、俺の実家の近所に住む女の子だった。
 生まれつき病弱で、外で遊ぶことは殆どなく、そのせいか色白で背も低く見るからに体が弱そうな印象があった。
 そんなか弱い美弥子を見て、守ってあげたいと思ったのは、男として当然と言えば当然の心理だったと思う。
 体の調子がいいときには、美弥子はよく俺と遊んだ。単純に家が近かったからだとは思うが、二つ下の美弥子は、俺を兄のように
慕っていてくれたのかもしれない。美弥子とは対照的に活発な性格をしていた俺は、美弥子の体調を気遣いつつも外で遊ぶことが多かった。
 本当に美弥子のことを気遣っていたなら、家で遊ぶべきだったのかもしれないが、当時の俺は、家にこもりがちの美弥子だから
外で思い切り遊んだ方が楽しいだろうと考えていたのだ。しかし、そんな俺よりも美弥子の方が俺に気遣ってばかりいたのが現状だった。
 俺が気遣ってあげるはずが、美弥子に気遣われている。そんな情けない状態に苛立ちを感じることもあった。
 そしてそれを態度に出したとき、美弥子は泣いた。泣いて謝った。俺はその度に、自分の不甲斐なさに打ちひしがれていた。
 あのときもそうだった。川に落ちた俺は、怒るという気持ちは一切なく、逆に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 魚が釣れてから食べると意地を張り、美弥子が作ってくれたおにぎりは口にしなかった。それだけではない。
 どうにかニジマスを釣ってやって、美弥子に食べさせたいと思っていたのだが、釣れなかった。そしてそれを美弥子のせいにした。
 挙句の果てには、美弥子のおにぎりを落としてしまった。川に落ちた俺は、落ちても恨めないようなことをしていたのだ。
 何度も謝る美弥子は謝るだけのことをしていない。謝らなければならないのは、俺の方だった。
 次に美弥子と遊ぶときは、きっと美弥子を笑わせてやろうと、そう誓った。しかしそれは、美弥子への謝罪を先延ばしにしただけだった。
 美弥子が亡くなったのは、その三週間後だった。俺は結局、笑わせることもできなければ、謝ることもできなかったのだ。
 小児性脳腫瘍のひとつである髄芽腫は、脳や脊髄に転移する小児がんである。
 手術自体も非常に困難であるのだが、腫瘍を取り除くことに成功しても髄液そのものに腫瘍細胞が生き残るため、転移の発見が難しく、
またその可能性も高い病気である。がんのすべてがそうなように、発見が早ければ早いほど、生存率はあがる。
 美弥子が小児がんを患っていたとわかったのは、美弥子が亡くなってからだった。
 美弥子はもともと体が弱かった。それに、小児がんの症状が重なっていたのは、不運としか言えなかった。
 また、近くに脳手術が行えるような大きな病院がなかったというのも不運のひとつだろう。
 享年十歳。生きていれば、二十二歳。あれから十二年。俺は二十四歳になった。
 何故、もっと優しく接してあげられなかったのだろう。素直に謝ることができなかったのだろう。
 美弥子を想うと、後悔ばかりが浮かぶ。今なら、もっと素直になれる気がするのに、あの頃の俺は、どうしようもなく子供だったのだ。

101 :No.25 子供と大人 4/5 ◇M0e2269Ahs:07/09/24 03:02:33 ID:SCEDXoXb
 美弥子の実家にて行われた法要は、読経、法話を終えて、お斎に入っていた。
 ただ家が近所だけだった俺と、俺の母の分の弁当を用意してくれたのは、本当にありがたいことだ。
 特に、美弥子の三回忌、七回忌ともに出席をしなかった俺は、本来この場に居てはいけないような気もしてくる。
「それにしても祐くんは、ほんと大人になったね」
 唐突に美弥子のおばさんが俺に話しかけてきた。美弥子の親族の方たちの視線が俺に集まる。目の遣りどころに困る。
「ぜんっぜん」
 俺よりも先に声を発したのは、母だった。
「この馬鹿息子ったら、札幌の高校行ったっきり殆どこっちに帰ってこないで。就職も勝手に決めちゃってさ、おまけに
電話の一本も寄越さないのよ? これが大人だってなら、わたしは親失格だね」
 母のまくし立てぶりに場の雰囲気が少し明るくなったように感じた。俺は少し俯いて、頭を下げることくらいしかできなかった。
「いやいや。でも、祐くんは今札幌の会社勤めてるんでしょ? あの腕白小僧の祐くんがスーツ着こなして仕事してるのかと思うと
十分大人になったと思うけどね。今、何歳になったんだっけ?」
「はい。二十四になりました」
「二十四。そりゃあもう、あんたに構ってる暇なんてないわ」
 母を含め、おばさんや親族の方たちがドッと笑い声をあげた。みんなが無理をして笑っているように感じた。
 もちろん俺も愛想笑いをしていたのだが。寿命を迎えて亡くなった者を偲ぶ法要となれば、
場の雰囲気はもう少し明るいものになっていたかと思うが、美弥子の場合は早すぎる死だった。十三回忌を迎えてもその無念は変わらない。
ましてや、何もしてあげることができなかった上、美弥子の人生は始まったばかりだったはずなのだ。
 それでも、この場にいる全員は悲しい顔を作ろうとはしない。大人だからだ。俺たちが亡くなった美弥子のためにできることは、
こうして集い、偲ぶことくらいしかない。そのたった一つの場で、悲しい顔を美弥子に見せるわけにはいかないのだ。
 俺は、ようやくそのように思えるまで成長したのだ。
「ところで、祐くんはお付き合いしている人とかいるのかな?」
「え?」
 またもや唐突に振られた俺への質問に、思わず間抜けな声が出た。
「お、その反応は、どうやらいるみたいだね。よかったね、和子さん」
 おばさんは、俺の母を見てにやりと笑った。
「え、いや、その、俺にはいませんよ。そういう人は」
「あら、そうなの? なんだぁ。それなら早く意中の人を捕まえて、結婚して子供作りなさい。こう見えて、和子だって
心待ちにしているんだからね。もう、いい大人なんだからさ」

102 :No.25 子供と大人 5/5 ◇M0e2269Ahs:07/09/24 03:03:31 ID:SCEDXoXb
 美弥子の十三回忌を終えた週末の夜、俺は希美先輩と飲みに出ていた。希美先輩と飲みに出ること自体は珍しいことではなく、
俺が二十歳を迎えたその日から、度々誘ってもらっていた。
 希美先輩が、俺に好意を持っていてくれていることは、言葉の節々や態度から感じていた。
 そして俺も、希美先輩に対して好意を持っている。それもたぶん、希美先輩は気づいていると思う。
 しかし、どうにも俺は希美先輩に告白をする決意を持てなかった。
 思い違いでなければ、告白をすれば受けてもらえるはずだ。それでも、できなかった。
 美弥子のことだった。美弥子が亡くなってから、俺は美弥子のことをずっと忘れられずにいた。それはそうだ。
 美弥子に冷たい態度ばかりを取り、気を遣わせ、泣かせ、謝ることもできなかったのだ。後悔しないはずがなかった。
 まるで、恋人を想う乙女のように、美弥子のことを考えていたのだ。それは今でも同じだ。
 そんな思いがあるなか、俺は希美先輩と付き合ってもいいのだろうか。そんな半端な状態で、いいのだろうか。
 また、いつか希美先輩に美弥子のことを話したとき、俺はどう思われるのだろうか。
 そう考えると、つい告白をしり込みしてしまうのだった。
 相変わらず、子供なのだ。俺はいくら年を重ねようとも、子供なのだ。
 美弥子に関しても半端な態度で接し、希美先輩に対しても同じように接している。
 それがわかっているのに、何も行動を起こすことができない。あのとき、美弥子に謝ることができなかったように。
「どうしたの? 真剣な顔しちゃってさ」
 グラスを手にしながら、希美先輩が俺の顔を覗き込んだ。
「いえ、何でもないです」
 俺の素っ気無い返事に、希美先輩は大きく肩を落とした。
「あのさぁ、会社でならいいけど、二人で会ってるときには敬語使うのやめてって言ったよね?」
「あ、すいません……」
 希美先輩は、大げさに首を振ってため息をついた。
「もう、いいや。なんだかめんどくさくなっちゃった」
「え、それはどういう――」
 驚いて、聞き返そうとした俺を制するように希美先輩はテーブルに両手をついた。
「立川くん。いや、立川祐さん」
 ここまで聞いて、察しがついた。まさか――。
「わたしと結婚してください」
 頭が真っ白になった。胸が一気に高鳴る。一体どうすればいい……。  
 希美先輩の瞳を見つめながら、震える喉から声を絞り出した。          おわり



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