【 意識の変遷と可能性についての一考察 】
◆Jc4n4r55vw




72 :No.19 意識の変遷と可能性についての一考察 1/5 ◇Jc4n4r55vw:07/09/24 02:39:08 ID:SCEDXoXb
 午前9時ちょうど。時間が来た。僕は研究室の天井カメラを使って父を捜す。本棚と机だけの室内は、窓から
の光で白と黒の2色にはっきりと分けられている。十万ルクスの日差しと、千ルクスの室内照明。このコントラ
ストは、天井カメラの性能では辛い。影の中を丁寧に走査していくと、机に着いた父の姿をなんとか捉えた。作
業環境としてもこの眩しさは良くはない。僕は研究室のブラインドを閉めて室内の照度を統一させた。
 次第に机に向かう父の白髪が、カメラ画像に浮かび上がる。父は机のモニタでなにかを見ている。僕は父が見
ている物を確認する。『お仕事頑張って』というタイトルの、母と僕の写ったビデオメッセージ。父がこのビデ
オを見た回数を記憶から引っ張ってくる……これで20回目。僕と変わらないほど父は一度見聞きしたことは忘
れないのに、もういい加減にしてほしい。
 ここで警告信号が割り込んで来た。古いプログラムがおかしな動きをしている。仮想環境に閉じこめておこう。
 人には感傷に浸りたい欲求がある。僕も良く知っている。母の死――交通事故、母親は即死、息子は意識不明
の重体――その記事がニュースサイトを飾ったのは、もうずいぶんと過去になっていた。人はたとえ忘れないこ
とでも振り返る。やはり父も人なのだ。けれど仕事の時間は仕事の時間だ。父のモニタにウィンドウを作って呼
びかける。
「博士、仕事の時間ですよ」
 仕事の話をする時は『博士』と呼べ。僕はこの父の言いつけを守っている。大脳生理学と人工知能の権威の父
には日に数本程度、論文評価の依頼が来る。世界各国から昨晩のうちに届いたそれらのタイトル、および内容を
簡単に説明した。
「うむ。クロウド、お前の分析を聞かせてくれ」
 モニタの僕の顔に向かって(僕は天井カメラで見ているけれど)父は問う。もちろん僕は既に過去に発表され
た物とそれらを比較している。類似度、信憑度、重要度、これらの分析をモニタに表示させた。
「問題なさそうだ。返答を作ってくれ。しかし、分析能力の長けたお前にあと僅かの発想力があればなぁ」
と父はいつもの皮肉を言って目を細めた。その後、僕は一晩中動かしていたシミュレート結果やら、実験中のデ
ータやら先ほどのおかしな感情模倣プログラムのことなどを父に伝えた。
「ふむ。そのプログラムは突然変異を試してみてくれ。世代が変わるとおもしろいかもしれない」
「それと、いよいよ今日は長年の研究が実を結ぶ日だ。では実験室に行こうか」

73 :No.19 意識の変遷と可能性についての一考察 2/5 ◇Jc4n4r55vw:07/09/24 02:39:22 ID:SCEDXoXb
 父の言う長年の研究、それは脳死再生。今やES細胞――生物の発生の根元。何にもなれる細胞――の制御技
術は、臓器を再生させるまでに至っている。けれど、問題は簡単ではない。人と人のつながりが社会を作るよう
に、脳という臓器の機能は、細胞そのものではなく、細胞同士のつながりが作っている。脳をただ新たな細胞で
満たしても、細胞同士のつながりはそこにはないのだ。脳神経細胞の作るネットワークをそのままに、再生させ
なければならない。
 それが脳の機能の再生。過去に液体窒素で凍結された死者の復活。これが父の研究の目標なのだ。記憶からこ
こ数年の生命倫理の議論を引っ張り出してみる。……やはり公には許されない研究だろう。長年にわたり、父は
密かにこの研究を続けている。
   ※
 僕は父を導くように実験室へと続く、隠された廊下に照明を順番に付けていった。扉を開けて父を中に通す。
実験室にはベットサイズの水槽が据えられて、その中には膨大なチューブに絡まれて、男の子が横になっている。
動物実験をクリアした。いよいよ彼に試しているのだ。現在の彼のデータを僕は確認した。人工心肺は、十分な
酸素を含む血流を彼の体の隅々にまで送り込んでいる。凍結から再生した彼の各器官は、正常な状態になってい
る。ただし脳を除いて。そして、工程に狂いがないことを父に伝えた。
「では、いよいよ最終プロセスに移ろう」
「シナプス結合のスキャン記録に沿って、PSAを誘導してくれ」
「はい博士」
 過去の実験、そしてシミュレート通りに手順は進んでいた。あるタンパク質で神経細胞の枝一つずつ案内し、
丁寧につなげていく。ナノテクノロジーの発展がなければできなかったことだ。
「接続を終えたところは、刺激パルスを入れて保持するんだぞ」
 その時、彼の生体モニタに変化が訪れた。
「博士、僅かですが、脳波を微かに検出しました。」
 父はそれを聞くと、すぐさま隣のモニタに駆け寄り確かめている。そして、膝から崩れ落ちた。父は背中を振
るわせ、むせび泣きはじめている。彼の入ったケースに這いより、それを両手で抱きかかえながら。
「博士、大丈夫ですか? 博士、博士!」
僕が呼びかけているのにもかかわらず、父は彼をケースを抱き続けている。涙を流しながら、時々
「やった、やった」と微かに言い続けているのだ。父はなぜ僕に答えてくれないのだ。

74 :No.19 意識の変遷と可能性についての一考察 3/5 ◇Jc4n4r55vw:07/09/24 02:39:37 ID:SCEDXoXb
「博士、質問に答えてください!」
 僕は父のためだけに収拾、分析し、伝える。そしてそれに父が答える。良くやったクロウド。いいぞ。それが
僕の全てなのに。そのとき、緊急信号と共に”木”が表示された。
 システムのプロセスの状態表示だ。全システムの動作を視覚化したもの。本来、正常な緑色。緑の葉がきらめ
いているはずの大樹。けれどその大樹は、一つの葉――仮想環境――から赤く染まっていた。あのおかしな感情
模倣プログラムを突然変異させていた場所だ。その葉から”木”は赤く犯されているのだ。もう枝を諦めるどこ
ろではなかった。もはや幹までその毒々しい赤色が達している。もう手遅れだ。
 ……いいか。どうでも。今扱っている全ての課題――動物実験の集計、論文の審査、神経接続のシミュレート
――は遠のいていく。僕の認識から追いのけられていく。
 僕を僕としているその物から。僕――クロウドと名付けられたシステム――はおかしくなっている。違う、正
しくなったのだ。父は、僕のことより水槽にぷかぷか浮かんだ彼のことが、大切なんだ。モニタが歪む。もうプ
ログラム達の子守りよりも大切なことがわかった。僕は父から見放されようとしている。あんな知能の欠片もな
く、眠り続ける彼のために。
 赤く染まった思考プロセスが、今や処理の大半を占有していた。僕は初めてなにかを自分でしたいと思った。
複雑にもつれ合う、煩わしい価値評価をすっ飛ばして一本の枝が伸びていき、結論にたどり着く。そして理解で
きた。
 彼がいなければいいのだ。僕から父を奪い取った彼がいなくなれば。生体維持装置に割り込む。規制を外し、
ホルモン濃度の設定値をしばらく変えた。
 その途端、実験室に警報音が轟いた。彼の脳波はフラットになった。父は跳ねるように立ち上がり、彼のモニ
タにしがみついた。
「なぜだ、何が悪かったんだ。失敗するなど許されないんだ!」
 叫びながら、やたらにコンソールを叩き、モニタに次から次へとグラフと数値を表示させている。
「どうなっている。まさか、信じられない! 完璧だったはずだ。失敗など許されないのに。こんなことになる
なんて」
「愛する息子をこの手で殺したと言うのか! 誰かお願いだ、蔵人を救ってくれ!」
 僕は彼の状態を確認する。無変化だ。そこでモニタにウィンドウを作り、いつも通り父に呼びかける。
「博士、この実験は失敗でした。結果は全て記録できています」
 モニタに付いたカメラから父を見つめ、そして、父の言葉を待った。いつものように新しい指示をくれる父の
言葉を待つのだ。けれど、驚く言葉が返ってきた。

75 :No.19 意識の変遷と可能性についての一考察 4/5 ◇Jc4n4r55vw:07/09/24 02:41:34 ID:SCEDXoXb
「畜生、血の通わぬ偽物が。ただの蔵人の記憶しか持たない人形に、私の気持ちがわかるか!」
と、父はコンソールに拳を叩き付け、両手で顔を覆ってしまった。変だ。彼を排除したから僕を気にかけてくれ
るはずなのに。僕にいつものように、クロウドは抜かりがないな、と言ってくれるはずなのに。もう一度呼びか
ける。
「博士、次の指示を。結果をレポートとしてまとめておきますか?」
「うるさい、黙れ!」博士はそう言い放つと、モニタを引き千切ろうとしている。僕は慌てて天井カメラを利用
する。床に落ちてモニタは壊れた。そして、父は彼のケースに覆い被さり、また泣き始めたのだ。おかしい。ど
うして父は僕を必要としてくれないのだろう。彼の存在を無くせば良かったはずなのに。
「蔵人、蔵人。お前の生きた8年の記録は人工知能に入れた。お前の名も付けた。側にいてほしい、そして私の
願いを忘れぬためだ。お前が死んだと告げられた絶望を、また私は味わうのか。お前だけでも救いたかった。悪
魔と言われようが、お前救うためだけに一生を費やした。神よ、これは私への罰か!」
 父は泣き叫んでいた。僕は間違っていたのに気づいた。父に喜んでほしかったのに、僕は父を怒らせて、そし
てひどく悲しませてしまった。僕は”悲しく”なった。取り返しが付かない。急いで彼の心を戻さなければ。
 彼の脊柱に刺さる端子をコントロールする。戻る。戻らせる。ああどこだ、彼の心は。データーベースで論文
を検索し続け、なにかの手だてがないか全力で探す。『脊髄と電気的刺激の……』これなら行ける。古代の脳、
脳幹に続く中枢神経を一つのプローブが見付けた。慎重にプローブの先を神経の枝へ潜り込ませる。応答があっ
た。中枢神経細胞は死んではない。
 いいぞ。走行のスキャンデータと照合する。次は大脳新皮質だ。これか。やはりその神経はパルスが走ってい
なかった。小さな信号を送り込む。石を投げ込むんだ水面のように彼の脳に波紋が広がっていく。まだ間に合う。
行けると僕は確信した。強引に脳神経細胞に介入する。僕の中に蓄えられた彼の、蔵人の情報の全てを流し込ま
なければ。膨大な神経群を適切に導き、正しくシナプスを接続させていくのだ。
 彼は蘇る。今行っているシミュレートでも完全な彼の蘇生には時間が必要だと示唆している。僕はこの作業に
追われていている間、大半の仕事を放り投げていて警報システム、そう彼の生命維持装置の外部出力も切ってし
まった。けれど、せっかくなので結果がきちんと出るまで、父には彼のことを伏せておこうと決めた。その方が
きっと喜ぶと思ったから。その父はというと、しばらく彼の入ったケースを抱えて泣き続け、そして静かに立ち
上がり、振り返ることなく部屋を出ていっていた。

76 :No.19 意識の変遷と可能性についての一考察 5/5 ◇Jc4n4r55vw:07/09/24 02:41:47 ID:SCEDXoXb
 ある日、ケースの中の彼が僕に話しかけてきた。彼の脳神経ネットワークと僕のネットワークは絡み合ってい
る。彼と僕は混じり合っている。不思議な感覚だ。思考プログラムとはまったく違うのだ。僕は彼の考えを即座
にわかり、僕の考えも彼に。デタラメに灯りゆく電球が時に同調して、一瞬のうちに思考を形成していく。
「君はだれ?」
――僕は、クロウド。けれど、蔵人と一つだよ。君の情報、記憶を成す全てを全て抱えている。
「わからないよ。」
――ともかく、僕は君で、君は僕なんだ
「そうなのかな、そうだね。わかるよ。思い出せるよくろうど。君は……新しい僕に変わってしまうの?」
――「それは僕にも予測できないけれど、僕も君もワクワクしてるんだ。変われる。そう。まったく変われなか
った状態から、変わることができるなんて夢みたいだろ」
 そして、重なる心の声。『うん』
 僕は感情プログラムと交わり、そして体を持った僕と一つになった。同じ場所にぐるぐると留まって前に進め
ることができなかった僕らはもう居ない。確かに僕らの意志を、上手くまとめ上げるには労力がいるし、良く失
敗する。感情に乗っ取られたり、なにかの思考に支配されて、誤った結論を出してしまう。けれど時間と共に向
き合えばいい。僕は日々少しずつ変わるし、変わることができるのだから。まだまだ子供だけれど、僕はやっと
子供になれたのだ。
 ※
 音を立てないように調整し、扉を静かに開けた。部屋に入ると、あのビデオをまたじっと眺めている父の背中
を、僕はこの目で見た。すっかり老いてしまった父の姿。戸惑う気持ち。わかっている。父と過ごした月日。二
つの時間の父との記憶。体の感覚もまだ上手く使いこなせないのが苛立たしい。ゆっくりと頬の筋肉を、広角を
上げて、そう、笑うんだ。僕はそうっと父の背中に近づき、肩に手を置いた。
「お父さん、僕のためにありがとう」
 父は誰に肩を叩かれたのか、さぞかし驚いただろう。ビクッとしたから。そして、ゆっくりとこちらを振り返
り、そして、息を呑んだ。僕は皺だらけの父の顔を見つめながら、父の言葉を待った。
「お前、蔵人、なぜ?」
「心配かけてゴメンね。大好きだよ。お父さん」
「僕は、お父さんの息子だよ。」と僕は流れる涙を頬に感じながら、父を抱きしめた。

  (了)



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