【 おでん 】
◆04JNP5h0ko




77 :No.20 おでん 1/5 ◇04JNP5h0ko:07/09/24 02:42:14 ID:SCEDXoXb
 小学校五、六年の頃の話だ。
 その店は通学路から一本裏にそれた路地にひっそりとあった。
 こじんまりとした木造で、日に焼けたひさしの下には、木枠にガラスを嵌めた箱が並べられ、中には七福神の
顔をかたどった人形焼やドラ焼きなどが入っており、これらは普段めったに顔を出さない爺さんが作っているらしかった。
 店の入り口の立て付けの悪いガラス戸を横に引き中に入ると、引き戸が鳴らすやかましい鈴の音に気づいた婆さんが
毎度店の奥から「いらっしゃい」と、とりあえず弱々しい声を上げるのだが、いつもなかなか姿を現さなかった。
 店の中は子供の目で見ても六畳ほどだったか。当時でも珍しかった土間に、デコラ張りの四人掛けテーブルが一つ、ラムネや
コーラの入った冷蔵庫が隅に一つ。夏場はかき氷器がテーブルの脇に設置され、夏が終わると代わりにおでんの鍋が置かれた。
――そう、ちょうど今くらいの季節だったな、と俺は想った。

      ◇

「帰り、キッチャテン寄らない?」
 自転車の後ろにバットを苦労して括り付けていると、デコチャリに跨ったツトムが声をかけてきた。白い歯が剥き出しだ。
「おお、軽く行くか」と俺は大人ぶって答える。
 日が暮れるのがめっきり早くなり、腹が減り出すのもなぜか早く感じるこの季節。夕飯まで持ちそうにない。
「キッチャテン」とは喫茶店をもじった仲間うちの言葉で、もはや合言葉のようなものである。やれ、放課後三時にキッチャ
テン、野球帰りにキッチャテン、といったように。

「ジャガイモと大根ください」「俺はジャガイモと巾着で」 常連のツトムと俺は定番を頼んだ。
 ジャガイモは店の名物だったのだ。いつ来てもほど良くダシが沁みていて、煮崩れない程度のホクホクの食感。どれでも一律
五十円というタネの中で一番ボリュームがあり、かつ腹持ちがよいのも小学生には嬉しかった。
 婆さんは終始穏やかな表情で、保温式のおでん鍋からタネとダシを慣れた手つきですくっては茶碗によそっていく。
 鍋が置いてある古い木製の配膳台は、腰の曲がった婆さんが使いやすいようにかなり低くしつらえてあった。
「じゃあ僕は……たまごと、はんぺん」 ためらいながら注文したのは、ツトムの二つ下の弟、ユウタである。顔も雰囲気も
ツトムと全く似ていない。ツトムはいつでも風呂上りのようなさっぱりした顔つきだが、ユウタはどこか寝ぼけた印象なのだ。
 いつもは日が暮れると先に帰ってしまうユウタだったが、今回は珍しく兄にくっ付いてきた。
 ユウタの注文に対し「これだから素人は……」と俺が応えると、ツトムはジャガイモを口に入れたまま表情を崩したが、
ユウタは口を小さく開けたまま不思議なものでも見るように婆さんの手元を眺めていた。

78 :No.20 おでん 2/5 ◇04JNP5h0ko:07/09/24 02:43:20 ID:SCEDXoXb
「お代わりしていいからね。たくさん食べな」
 婆さんはユウタの分をよそい終えると、満足そうに三人の顔をそれぞれ見遣り、奥へ引っ込んでしまった。
 俺たちが、来る度にそれぞれ三、四品食べながら小一時間も駄弁った後に、やっと腰を上げるということを知っているのだ。
 木の蓋が半分外されたおでん鍋からは湯気がゆっくりと立ち上がり、魚介系の甘い香りをテーブルに運んでいた。
 火傷しないぎりぎりの速さで、既に二品を腹におさめてしまった俺は、手持ち無沙汰に言ってみた。
「いつも思うんだけどさ、ここってタダ食いできるよな」
 軽いウケを狙ったつもりだった。しかしツトムが鸚鵡返しに発した言葉は予想に反していた。
「ていうか、俺たまにやってるよ」
 俺は耳を疑った。――こいつのイタズラは今まで数々見てきたが、果たしてそこまでやる奴だったか?
 ユウタも呆けたような表情で兄の顔を眺めている。
 俺は何故か自分の動揺を悟られたくなくて、努めてそっけなく真偽のほどを尋ねてみた。
 ツトムは振り向いて店の奥を一瞥すると、ゆっくりとテーブルに上体を乗り出し、口に両手を添えた。
「食ってそのまま逃げたりはしないよ……数を少しごまかすだけ」

「キッチャテン」での勘定方法はおよそこんな感じだ――食べ終わったら店の奥にいる婆さんに声をかける。次に
婆さんが茶碗に残った串の数を数える。タネは玉子以外のすべてに串が打ってあるのだ。玉子については最初に婆さんが
取り分けたもの以外は自己申告、てことは……玉子をごまかしてるのか、こいつは! その点をさらに問いただしてみると
「いや、それもたまにやるけど、串を何本かポケットに入れちゃうんだよ」と、ツトムはあっけらかんと微笑んだ。

 万引きなら俺がまだ低学年だった頃、別の駄菓子屋で目撃したことがあった。
 狭い店内に入ると、詰襟の黒い制服を着た上級生がすでにいて、商品台の駄菓子を品定めしているようだった。
 詰襟は大きい紙袋を肘に引っかけていて、同じ側の手にガムを握っているのがちょうど横に並んだ俺の目の高さに見えた。
 店の人もいないし、年のかけ離れた上級生と二人きりという状況に何か嫌なものを感じていた矢先、詰襟が、握っていたガム
を落としたのだった――開いた紙袋の口に。
 思わず顔を上げると、冷たく卑屈そうな細い目が、珍獣でもみるように俺を見下ろしていた。俺はさぞかし間抜け面をして
いたことだろう。詰襟がそのまま唇の端をゆがませると、俺は凍りついてしまった。丁度そのとき顔なじみの店主が店の奥
から現れなければ、俺はチビっていたかもしれない。
 その後詰襟は何食わぬ顔で新たに菓子を選び、小銭を払うと振り返りもせずに店から出て行った。
 俺は黙ったまま、真っ白な頭でしばらく菓子を選ぶふりをしていた。

79 :No.20 おでん 3/5 ◇04JNP5h0ko:07/09/24 02:51:15 ID:SCEDXoXb
 店の奥から相撲中継の音が微かに聴こえる。
 奥へ続く廊下は薄暗く、時折ブラウン管が放つ青白い光が木板に反射している。
 ツトムは配膳台の前に屈んで、おでん鍋に指を突っ込み、自分と弟の分のジャガイモの串をつまみ取ろうとしていた。
「アチッ……おまえはお代わりいらないの? まだジャガイモあるぞ」
 俺の顔色を窺っているのだ。ツトムの告白の後、俺は黙りこくっていた。
「言っとくけど、おまえが知らないだけでみんなやってるぞ。これくらいは」
 みんなやってる……この言葉に俺は弱い。自分だけ取り残されて、いつの間にか仲間外れにされるのが怖いのだ。
「はいはい、分かったよ。後でオマワリに通報しとくからな」
 俺はどう答えていいのか分からず、とりあえず憎まれ口を叩いておいた。
 ツトムは火傷しないように、大きく口を開けて息をはきながらジャガイモを頬張っている。その屈託のない顔を見ていると
本当に大したことのないイタズラのようにも思えてくるから不思議だ。――俺が考えすぎなのか?
 柱時計が一回鳴り、見上げるともう六時半だった。
「おにいちゃん、もう帰ろうよ」とユウタがつぶやくと、ツトムは名残惜しそうに茶碗に口をつけダシを飲み干した。
 満足したように大きく息をつくと、串を数本取り上げ真っ二つに折り、Gパンの尻のポケットに滑り込ませた。
 俺が何か言おうとする間もなく、ツトムは店の奥に向かって威勢良く声をかけていた。

 それから数日間俺はキッチャテンに顔を出さなかった。別にツトムに腹を立てたわけではない。
 かつて上級生の万引きを目撃したときの恐怖と、今回のあっけらかんとした一件が、自分の中でうまく噛み合わず混乱して
いたのだった。背中のどこかが痒いのだけれど、どこが痒いのか分からない、そんな気分だった。
 再訪するはめになったのは、草野球のときだけ被るボロの野球帽を、店に忘れてきたことに気付いたからである。

 ガラス戸の前に立ったとき、中に見覚えのある女子が見えた。同じクラスのアカネがおでんを食べている。近所のパーマ屋
の娘だ。廊下の上がり口には、珍しく婆さんも腰掛けていてこちらを見ている。微笑んでいるのか取り澄ましているのか
……老人の表情というのはよく分からないものだ。
 俺が思い切って戸を横に引くと鈴の音がやかましく鳴り、アカネが驚いたように茶碗から顔を上げた。「うお! なによ?」
 アカネはぶっきら棒な喋り方をする女で、小学生のくせにパーマをかけ、髪を少し染めている。中身は色々問題あるのだが
美形なので男子には人気がある。帽子を取りにきた旨を説明すると、婆さんが腰掛けたまま隅の冷蔵庫の方を指差した。
 冷蔵庫の上には日に焼けて擦り切れた野球帽が乗っていた。
 婆さんはいつのものように「いいから、おでん食べてき」と、独特なイントネーションで言った。

80 :No.20 おでん 4/5 ◇04JNP5h0ko:07/09/24 02:51:33 ID:SCEDXoXb
「ビビリ? あいつがそういったの?」
 信じられなかった。ツトムは先日の一件をクラスの何人かに話したらしい。キッチャテンでの小さな犯罪は、やはり俺が知ら
なかっただけで、クラスの一部では日常的に行われていたようだ。
テーブルの向かいのアカネは、ちくわを笛のように咥えておどけている。この女子の前だとなぜか緊張しない。
「うん。昼休みに……でもアンタって確かにビビリなとこあるよね」とアカネは言うと、大口で笑い飛ばした。美少女にあから
さまに馬鹿にされれば、俺もさすがに堪える。俺はつい思ってもないことを口に出してしまった。
「ビビリじゃねーよ。俺だってそのくらいできるし」
「じゃあやってみる?」アカネが悪戯っぽい笑みを浮かべている。俺は婆さんが奥に引っ込んでいるのを振り返って確認すると
何も考えずに串を一本つまみGパンの前ポケットに差し込んだ。「ほらよ。なんつーことないし」

 その後ツトムの悪戯遍歴などについてしばらくアカネと話しこみ、柱時計の合図でそろそろ婆さんに声をかけようとした時
だった。入り口のガラス戸を叩く音がして振り向くと、噂をすれば何とやら、ツトムがガラスのむこうに立っており、こちら
を向いて笑いながら、なにやら俺とアカネがふたりでいるのを冷やかすような仕草をしていた。それだけならまだ許せるが、
そのうちなんと軒先に並べてあるケースからドラヤキを取り出し、口に咥えておどけ始めた。――あの馬鹿が……
 さすがにこれはヤバイと思い、注意しようと立ち上がったその時、ツトムが何かに気づいた様子で慌てて走り去っていった。
 俺が突っ立ったままアカネと顔を見合わせていると、突然引き戸がけたたましく鳴り、顔を紅潮させた老人が息せき切って
入ってきた。「おい! お前たちの友達か?」 それはめったに顔を出さない店の爺さんだった。
 しばし沈黙があった。奥のテレビの音だけが微かに聞こえる。
 丸椅子に座ったままのアカネの様子を窺うと、爺さんの剣幕にさすがに動揺したようで、テーブルの上で両手を揃え下を
向いてしまっている。 俺は「知りません」と言うのがやっとだった。 爺さんは何かに気づいたようだった。

 爺さんは俺に近づいてくると「これ何だ?」と言った。何のことだか分からなかった。爺さんは下のほうを向いている。
 視線の先を見て俺は凍りつく。Gパンの前ポケットから串の先が飛び出していた。
 ふと視線を感じて振り返ると、いつの間にか婆さんも廊下の上がり口に立っていた。――万事休すだ……
 爺さんはふしくれだった指で俺のポケットから串を抜き、婆さんのほうに示して言った。「おい、この坊主……」
 俺はもう婆さんの顔を見ることができなかった。
 婆さんのしわがれた声だけが聞こえる。
「まあ……あなた、なに変なことを言うの? いつもちゃんとお金払ってくれてますよ。ねえ」
 半分フタの開いたおでん鍋から立ち上がる湯気が、涙で滲んで見えた。

81 :No.20 おでん 5/5 ◇04JNP5h0ko:07/09/24 02:51:46 ID:SCEDXoXb
「ただいま」
「おかえり、遅かったね。早くお風呂に入っちゃいなさい」
 俺は無言で風呂場へ向かい、何も考えずに服を脱いだ。体が勝手に動いてるみたいだった。
 何かを考えられるようになったのは、ひしゃくで湯を何杯か頭から被って嫌な汗を流し、湯船に浸かってからのことだ。
 一時間ほど前の出来事を思い出していた。
 結局婆さんは一切俺を責めることなく、いつも通り串を数えて金額を口にしただけだった。最初俺をとがめた爺さんも、
しばらくぶつくさ言っていたが、婆さんが取りなすと奥へ引っ込んでしまった。
 もしかすると爺さんは俺の親を見知っていて、家に連絡を入れたかもしれないな、と思った。そう考えてみると、さっき俺が
帰ってきたとき母さんの態度が冷たかったような気がしないでもない。
 でも俺はもう罰を受ける覚悟があった。

「ああ、ツチヤさんね。知ってるわよ。運動会になるといつもあそこのお爺さん、おでんとかお団子の屋台を出すじゃない」
 食後に母さんがお茶を注ぎながら言った。
 探りを入れてみたが、結局爺さんから家には連絡がなかったようだ。俺は複雑な心境だった。
「あの屋台はツチヤの爺さんだったのか……婆さんのほうは毎年父兄席にいるな。お孫さんがいるんだろうね」と父が新聞を
めくりながら答える。すると母が怪訝そうな顔をして言った。
「いや、お孫さんはいない筈よ。だって戦争でお子さん皆亡くなったって噂だもの。お孫さんがいるわけないじゃない」
「そうなのか、まあ訊いてみるわけにもいかないしな……そういえば、もうすぐじゃないか。運動会も」

      ◇

「パパー、おひるだよー!」
 台所のほうから息子の快活な声が聞こえてきて、俺は夢見心地から覚めた。
 遠くから風に乗ってやってくる音楽を聴いてるうちに、うとうとしていたようだ。
 町内の小学校で運動会をやっているらしく、耳を澄ませば微かに歓声も聴こえる。
 息子も来年は参加することだろう。
 俺はソファーからゆっくり起き上がると、伸びをして大きく息を吸い込んだ。

 魚介系の甘くて少しなまぐさいような出汁の香りがした。



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