【 どうしようもないところで 】
◆p/2XEgrmcs




136 :No.17 どうしようもないところで 1/5 ◇p/2XEgrmcs:07/09/24 12:20:46 ID:SCEDXoXb
 日曜日より、真夜中よりも、その日その時の教室は静かだった。
 放課後まで続いた五時間目。その時の僕は当事者でありながら、何も知らない風に座っていた。
クラスメイトの大半がそうだった。成り行きを全て知っているのに、何も喋らない。
『隠すのではなく言わない』といういびつな緊張が、教室を満たしたまま流れもしなかった。
「……どうして黙ってるんだ」
 担任の草間先生が呟いた。僕は、先生はこの後怒鳴るんだろうな、嫌だな、と恐怖しながら、
その声が自分にだけ向けられるものではないと知っていて、陰のある安心をしていた。
「卑怯だぞ、お前ら!」
 先生は案の定、声を強くした。廊下にも飛び出しただろう怒鳴り声は、帰り始める隣のクラスの人にも
聞こえただろう。僕たちは、先生ではなく彼らに問い質されたら、本当のことを言えるだろうか。
「小学六年にもなって、下らないイジメなんかして、それを隠して……」
 僕は先生の言葉が、どんどん教室を静かにしていることに気づいた。僕たちは恐ろしく強い絆を持ち始めた。
 何も分かっていない奴、分かろうとしない奴には、何も教えてはならない。無垢な排他だった。
 どうしてあの頃は、仲間と友達が同じ意味になっていたのだろう。どうして、同じ事をしていれば、
それだけで仲の良い友達だと思えたのだろう。時間の共有の節々で、僕らは相手を嫌いになり、
好きになることが出来るのに。それを省みさせたのが、あの日の出来事、その中心にいた彼だった。
「清、お前もどうして黙ってるんだ。殴られたんだろう、誰かに?」
 窓際で一番前の席に座った彼を、先生は見つめた。僕は彼から数席挟んだ真後ろで、教室の緊張の緩みを感じた。
 鼻血止めのティッシュを抜き、清が立ち上がった。そして、教室全体を見据えた。
「ぼくのこと、嫌いなのは分かりますから、謝ります。ただ、今度からは、無視で止めておいて欲しいです」
 清の言葉を全部聴いて、僕はひとつでも余計な動作を取らないように、必死で身体を固めた。
何かの素振りを先生に気づかれるのも嫌だったし、動揺が言葉になりそうで恐かった。
 先生は、清に対して追求を始めたが、清はそれを全ていなした。その後すぐ、集まりは先生が匙を投げて
終わりを迎えた。状況が見えていない先生からは、清の言葉はいじめられっ子の言葉にしか聞こえなかっただろう。
 先生が解散を告げて教室を出ると、ばらばらと生徒も出て行った。清は席に座って、窓の向こうを見ていた。

(嫌いなのは分かります、なんて、どうすれば言えるんだろう。嫌われるのは、物凄く恐いのに)
 この時僕は、嫌悪を受け入れることが出来る清を見て、畏れに良く似た興味を持った。

137 :No.17 どうしようもないところで 2/5 ◇p/2XEgrmcs:07/09/24 12:21:02 ID:SCEDXoXb
 清 一郎というフルネームを持つ彼は、五年までは目立たない人間だった。
セーイチローという、姓名がそのままあだ名になった滑稽さと親しみ易さがあって、同学年の大体が
彼の名前と顔を知っていた。それは目立つタイプだ、と言えるけれど、僕が言いたいこととは少し違う。
少し目立つが、変わってはいない。目立つことが出来るのは皆に好かれるからで、皆に好かれる奴は
皆から逸脱しない奴のことを示していた。清は、目立つけれど、どこにでもいるタイプだった。
 そんな彼が孤立し、同級生から殴られるまでに至ったのは、単に逸脱してしまったからだ。
彼は六年になって明らかに人を遠ざけるようになったし、雰囲気も言動も、どこか朧なものになっていた。
 何より、彼は異常に鋭かった。まことしやかに流れる噂など、彼はすぐに真偽を見抜いた。
誰が誰を好きだとか、誰の靴を誰が隠しただとか、当事者でもない人間が話しているのを聞いただけで。
クラスメイトが清を殴ったのも、僕とある女子との仲を囃している時に、清に窘められたからだった。
「あの子を好きなのはお前だろ。一回振られてるからって、そんなからかいで誤魔化すなよ」
 僕には脈絡の無い指摘に聞こえたが、クラスメイトは図星を射られたようで、激昂したのだった。
「清は、俺が清のことを好きか嫌いか、分かる?」
 事件の翌日、僕は清にこう尋ねた。桜の匂いが漂ってくる昇降口を掃除している時だった。
言ってから、まるで清をからかっているような言葉遣いだと思い、訂正すべきだと思った。
「多分ね、好きとまではいかないけど、嫌いとは全然似てない興味がある。何かちょっと嬉しいよ」
 清は僕の訂正を待たず、下駄箱の周りを丁寧に掃きながら、笑って答えた。
「佐々木は、ぼくにそう言われて、自分でどう思う? そんな感じ、するかな」
 僕は素直に頷いた。
 放課後、一緒に帰る間、話は自然な勢いを保って、止まらなかった。
ゲームの話もアニメの話も、超然とした清には全く似合わなかった。僕は幼くも苦心して、桜の話を始めた。
あの頃から、桜の見てくれよりも匂いが好きだった。花の色とぴったり合う、有機の匂い。
特に甘くも快くもない桜の匂いが、梅の良い香りよりも春を感じさせるのだと言うと、清は共感してくれた。
清は、匂いは塊だ、と言った。色々な匂いは塊になって空気を泳いで、鼻はその一部を吸い込む。
だから花のそばにいても匂わない時があるし、離れていても、濃い匂いを感じられるのだという。
それなら、空気も一つの大きな塊で、匂いは泳ぐというよりも、大きな塊に溶けているのでは、と僕が言うと、
清はとても感心した風に「佐々木は思った通り、結構凄いやつだ」と言った。
「六年になってぼくに近づいてきたの、佐々木が初めてかもしれない。よく、ぼくなんかと話す気になったね」
「……昨日、新井に殴られたでしょ? ああいう黙り方して、卑怯かなと思って……」
「そういう気遣いがちょっとしか無いのは分かってるよ。それより、ぼくに興味を持ってくれてるな、と思って。

138 :No.17 どうしようもないところで 3/5 ◇p/2XEgrmcs:07/09/24 12:21:16 ID:SCEDXoXb
当たり前だけど、全然いないんだ、好意持ってくれる人。佐々木と話せて嬉しい」 
 清が嫌悪を耐えられる人だとは分かっていたけれど、感じたままの好意を言葉に出来る人だと、その時知った。 
 初めて一緒に帰るので、分岐点を迎えることに気づいていなかった。僕が曲がる角を、清は曲がらない。
何だかすんなりと別れることが出来ず、引きずっている初対面の感触をほぐすように、僕たちは話を続けた。
静かな住宅地を、時折低学年の子供の嬌声が貫いた。僕たちの危うい会話はその都度止まり、
どちらかの思い切りで再開した。日が暮れるまで続くかもしれなかったその会話は、闖入者によって止められた。
「希」
 聞き慣れた声で名前を呼ばれた。近所に住んでいる同級生の、片山ゆきほだった。
「へえ、セーイチローと仲良くなったんだ。何か希っぽくないね」
 ゆきほとは、幼稚園の頃からの付き合いだった。通園バスを待つ間と乗っている間にしか話したことは無かったが、
幼馴染と呼べるほどには気安い関係を持っていた。だからこそ、時に仲をからかわれた。
「ゆきほ、清と同じクラスになったことあるの?」
「一回も無いよ」
「……佐々木、下の名前、ノゾミっていうんだ」
 清がランドセルを背負い直しながら、僕を見た。僕は慌てて頷き、答える。
「そうだよ、希望の希って書いて、ノゾミ」
 清は笑って僕に手を振り、帰っていった。僕の返答への反応は、まるで無かった。

「セーイチローって、ムカつくよね」
 その後一緒に帰りながら、ゆきほがそう呟いた。清を友達だと思い始めている僕は、その言葉に動揺した。
「どうして、そう思うの?」
「だって、この前まではフツウだったのに、急にヘンなこと言い出したりするようになってさ。
そうやって目立つの、気持ち悪いよ。希も友達だと思われたら大変だから、気をつけな」
「友達だよ、もう」
 少ない情報で清を嫌うゆきほが、無性に憎らしかった。
 清を頑なに嫌うゆきほに反発して、清のことを親しく思い出す自分に気づいていた。
だから、清への気持ちがまた不透明になっていった。
 僕と清は急速に仲良くなっていった。清は以前の友達の多くに離れられていたし、僕は人付き合いが得意でなく、
お互い決まったグループと毎日遊ぶようなことは無かった。二人で過ごす時間は長かった。
 僕らの孤立は迅速に進んだ。

139 :No.17 どうしようもないところで 4/5 ◇p/2XEgrmcs:07/09/24 12:21:29 ID:SCEDXoXb
 清と話すうちに、彼は本当に何でも分かるのだと思った。
「言葉そのものと、話す時の言い方とか強弱とか、あとは表情。特に目だね。じっと見てると、
その人が何を言いたいのかは大体分かる。どうやって相手を思ってるか、どれだけ真剣か、とかね」
 清が感じるように、人の動作を感じたことは無い。ただ彼の鋭さには、いつも畏敬を覚えた。
二人きりで話を続けると、徐々にコミュニケーションは濃密になっていった。僕は慣れによって、
清から得る清自身の情報を、以前よりもずっと立体的に感じることが出来るようになった。
それが清の知覚に似ているのかと思うと、親しみながらも畏れている清に近づいた錯覚を招き、
清の神格化は徐々に曇っていった。畏敬の刺激も、覚えるごとに麻痺してきていた。
 六月の終わり、良く晴れたのに蒸し暑い日のことだった。空が夏のように極端に深いのに、
湿気が肌に張り付いたような汗をかき、太り気味の僕は随分Tシャツを濡らしたのを覚えている。
草間先生の急用だとかで、四時間目が自習となり、トイレに行くと言って教室を出たきり戻らない男子が多く出た。
僕と清もその中の一員だった。清は、面白いところを見つけた、と言い、ついて来るよう促した。
下の階に降りた。四年生と五年生の教室が並ぶその階には理科室がある。その準備室が目的の場所だという。
廊下の窓は全て閉まっていた。僕たちは、窓に影が映らないよう、這うようにして廊下を進み、
どの教室の誰にも悟られず、準備室に忍び込むことが出来た。僕は清に続いて中に入り、ゆっくり戸を閉めた。
耳を澄ませると、先生と生徒の声が聞こえてくる。僕らはそこから壁を何枚か隔てた奇妙な静けさの中にいた。
「希、冷えてるよ」
 清は部屋の隅にある冷蔵庫を開け、ペプシコーラの缶を二本取り出した。白く、細長い。
 そのコーラは異常においしく、味が思い出せない程だ。暑さは冷たいコーラをおいしくしただろう。
けれど、棚に並んだ実験器具と、それらの専門性が年季を帯びて発する臭気、教室の床の板張り、
周りの全てが『学校』なのに飲むコーラは、骨を溶かすように甘かった。
「草間先生が管理の担当だし、今日は実験無いって分かったから、チャンスだと思ったんだ」
「どうして実験のこと、分かったの?」
「理科室見れば、大体分かる。先生が緊張した感じが、部屋に残るはずだから」
 清によると、冷蔵庫の中に何か入っているというのは相当稀なことらしく、一週間以上前から
コーラを入れていても、それが見られた形跡すら無かったという。
「昔は、悪戯って好きだったんだけど、最近はやろうと思えなかった。でも、希となら楽しいかなって」
 この時に最も強く、僕と清とは対等だと思った。友達としての関係を指すなら、もっと以前からそうなっていた。
ただ、畏れていた清の能力を自分も帯びたような下らない錯覚が、この時はっきり形になった。

140 :No.17 どうしようもないところで 5/5 ◇p/2XEgrmcs:07/09/24 12:21:42 ID:SCEDXoXb
だから、あんな言葉も言えてしまったのだ。
「清は凄いよな。俺なんかより全然凄いよ」
 そう言って、残り少なかったコーラを飲み干した。自虐のように話せたのも、対等だという自信からだった。
「どこが凄いと思う?」
 聴いたことの無い声色で、清が呟いた。僕は何にも気付かず、言葉を続けた。
「ほら、四月に。嫌いなのは分かるから無視で止めてくれって言ったでしょ。嫌いって思われるのに
耐えられるのって、凄いなあって思った。だから俺、清に話しかけたんだ」
「……耐えられてないよ」
 その時初めて清の表情が崩れるのを見た。穏やかでよく微笑んでいた表情が涙を堪えていた。
「希の幼馴染の人、いるだろ。あの人なんか、ぼくのこと、本当に嫌いなんだろうなって思う。
それが分かると、ぼく、本当にいなくなるとかした方が良いような気がしてくる。第一、辛すぎるよ。
自分のことを嫌いだって分かってる人間と付き合ってると、身体のどっかが、ギシギシするんだ。
分かるようになる前は、こんな事無かったんだ。分かっちゃうと、もう逃げ方も分かんない」
 僕は汗をかいていた。水分を摂った反射や、温度と湿度、純度の高い緊張と同情が汗をかかせていた。
その汗は謝意でもあった。彼のことを分かった気になって、共感する演技をしていた自分を詫びていた。
それでも足りない分は涙で補った。感情が暑さで澱んで、身体の外に次々に出てきていた。
「どうして、希が泣くんだよ」
 清の声は笑っていた。僕は必死に詫びた。自分がどれだけ利己的に清と付き合ってきたか、
清を理解した振りをしてきたか、とても安易に、清のようになりたいと思ったか、嗚咽を忍ばせながら。
「だから、良い奴だっていうんだ」
 清はそうやって僕を許し、汗に湿る僕の肩を優しく叩いた。
 彼が感じていた、僕よりよっぽど強い苦痛。嫌悪を『見る』ことは、傷口を見るのと同じ痛みがあるのだと、
初めて知ることが出来た。それなら――僕よりずっと強い幸せも、安らぎも、彼は感じることが出来るのだろうか?
 
 可能性を無視出来るほど愚かだったから、不可能を失敗にすりかえられた。何が出来るか、そのために
何をすればいいか。それを考えた時、僕は大人になった気がする。不可能な事が見え始めれば、
それ以外の事が、自分に出来る事だった。
 僕は清に、自分の周りの人に、してやれることをしたいと今でも思う。どれだけ時間が経っても
失ってはならないものを、あの時あそこで得たからだ。清と過ごし始めた日々、どうしようもないところで。
<終>



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