28 :No.07 犬は我が家に帰る 1/5 ◇kP2iJ1lvqM:07/09/24 01:56:27 ID:SCEDXoXb
小学生の時に飼っていた犬の名前がケンジといった。
いい名前だと思う。考えたのは二歳上の兄貴だった。
子犬を貰ってきた夜に僕が寝ずに考えた名前はナターシャといい、次の日父さんに、
「呼びにくいから訳のわからん名前をつけるな」
と一蹴され、はじめて僕は自分の破滅的なネーミングセンスに気がついた。ケンジは雑種のオスで、
茶色に白いものが混じった体毛と、目の下にクマに似た黒い毛を持っている。子供の時はころころと
太っていたので、まるでアライグマが逞しくなった様な外見だった。ナターシャなんて名前は似合わ
ない。それでも僕は気に入っていた。
ともかくこうして犬小屋に表札が掲げられたのだが、それは全くおかしな光景だった。犬小屋を
作ろうとした父さんが張り切りすぎて、庭にちょっとした家を建ててしまったのだ。高さと奥行きが
二メートルあり、人間様が楽々寝られる広さだ。母さんや兄貴と犬小屋の前に並んで立ちながら、
「何様だよって感じ」と僕が言うと、
「武田ケンジ皇太子殿下にあらせられる」と答えが返ってきた。
僕たち兄弟は相部屋をしていて自分の勉強部屋を持っていなかったので、その立派な家が妬まれる
のは当然だった。
「ケンジが皇太子殿下なら、あなたたちだって大切な皇子様よ」
と優しい母さんは言うが、僕たちは納得がいかず食卓で父さんに詰め寄った。家には物置に使って
いる部屋が余っていたのだ。すると父さんは味噌汁をすすりながら、
「お前らは犬より部屋を汚すからいかん」と抗議を却下した。
馬鹿にした話もあったものだと僕と兄貴は怒った。
けれど、諍いの原因になった子犬は憎めなかった。なぜなら僕が犬小屋の前を通ると、ケンジは決
まって地面に仰向けに寝転がってこちらを見てくるからだ。「まあ好きなだけお腹をなでていけよ」
といった感じで、それはむしろ堂々とした雰囲気を漂わせていた。僕が意地悪して通り過ぎると
ケンジは切なそうな目になり、可哀想なので撫でてやると尻尾をホウキみたいに振って地面を掃く。
その癖は成犬になってもなくならず、なかなか愛嬌のある犬にケンジは育ったのだった。
◇
僕の家は隣家まで百メートルの距離があった。最寄の自動販売機まで一キロ、コンビニまでは三キ
ロ。東京で言えば冗談と思われるくらいの田舎だ。だからといって世間的に許される事でないが、
父さんはケンジをほとんど放し飼い状態にしていた。朝ごはんをあげる時に鎖を外し、晩ごはんを
食べに戻ってきたら再び小屋につなぐ。
29 :No.07 犬は我が家に帰る 2/5 ◇kP2iJ1lvqM:07/09/24 01:56:51 ID:SCEDXoXb
最初のうちは家の周囲をおずおずと歩き回っていたケンジも、体が大きくなるにつれて度胸がすわ
ってきたのかだんだん遠出をする様になった。なかなか帰ってこずに心配させられる日も多かった。
好き放題に毎日遊びまわる様子は、よく僕に夏休みを連想させたものだ。
夏休みといえば暇である。長い休暇で学校なんてものの存在を忘れかけた頃、兄弟で暇に飽かせて
ケンジの後を追いかけた事があった。家にいない間、何をしているのか気になったのだ。
トコトコと砂利道を歩くケンジを前に、僕と兄貴は自転車をゆっくり進める。道の両側は見渡す
かぎり緑の絨毯が広がり、まだ青い稲穂が風に揺れていた。ケンジはたまに後ろを気にして振り返る
が駆け寄ってはこない。
「まるでこっちの事情を理解してるみたいだ」と兄貴が言う。
僕はテレビの密着ドキュメントの様で胸が高鳴った。
ケンジは近所で犬を飼っている家へ寄り、大きな声でワン! ワン! と吠えた。すると相手も
二度吠え、ケンジは満足した様に立ち去る。けっきょく他の家でも同様にして一日じゅう町内を巡り
歩き、その事で僕と兄貴とで議論になった。
「きっと友達に挨拶してまわってるんだ」僕は主張した。
「喧嘩相手を探しているのさ」兄貴が反論する。
一体どういう事なのか意見を聞くために報告すると、父さんは、
「あんまりよその犬を冷やかすなって、今度注意しとかないとな」と笑った。
なるほど、俺はお前らと違って自由なんだぞと自慢していたのか。僕たちは顔を見合わせて納得
したものだった。
しかしそんなある日、玄関に近所の住人が現れた時、父さんの顔はみるみる青ざめていった。雌犬
を飼っている家の人たちは子犬を何匹も腕に抱えていた。彼らはケンジが訪れるのを数え切れない
ほど目撃していたので、言い逃れはできなかった。
その年ケンジの子供は十匹以上生まれた。なんとか知り合いにあたってそれらを捌き終わると、
両親も僕たち兄弟も疲れきっていた。
「まあつまり、あの時は俺たちに気を使っていたんだな」兄貴が頬をやつれさせ、真相をまとめた。
◇
話す相手によっては「やっぱり」、「当然だ」という事になるのだろうか。僕が中学に上がる年の
冬にケンジは車にはねられて死んでしまった。
前日帰ってこなかった家族を探すため、明け方、僕たち四人は総出で方々を調べつくした。見つけ
たのは兄貴だった。神社の前の道路で、凍った体を横たえていたのだという。
30 :No.07 犬は我が家に帰る 3/5 ◇kP2iJ1lvqM:07/09/24 01:57:17 ID:SCEDXoXb
それから母さんが車を運転し、ケンジの亡骸を連れて帰ってきた。戻った母さんはくしゃくしゃに
泣き腫らした顔で車を降り、開口一番こう言った。
「犯人を見つけたら、フロントバンパーに服をひっかけて百キロ引きずってやるわ!」
後で父さんも同じ様な事をもっとひどい言葉で言った。
父さんに命じられ、僕と兄貴は庭にケンジを埋める穴を掘った。場所は梨の木の根元にした。雪の
下の地面はかちかちに固まっていたので作業は困難を極め、二人で相談してその日は学校を休んだ。
力をこめてスコップを踏む兄貴に僕は聞く。
「兄ちゃんは泣かないんだね」
兄貴は眉間をしかめたまま僕を見た。
「外は犬にとって危険がいっぱいなんだ。道路は車が通るし、野良犬嫌いが農薬団子をばらまく。
いつかこうなる事は予想できたから、その時に充分悲しんだんだよ」二人とも疲れ、煙の様な白い
息をたくさん吐いていた。「それが大人さ」
「でも父さんや母さんは泣いてた」
「もっと大人だからな」
「どういう事だよ?」と僕は首を傾げる。
「大きくなると、泣けるツボがどこにあるのか解ってくるんだよ。時と場所を選んで自然に泣ける様
になる。まあ、本当の大人は鎖を外したりなんてしないんだけど」
父さんと母さんは本当は大人ではないのだろうか? よく解らなくなってきた僕は、もう一つの
疑問を口にした。
「じゃあ、僕はなんで泣けないんだろう」
「さあな、それは知らん」兄貴は空を見上げた。
もうすぐ十二時だった。雪の溶ける音が聞こえてきそうなほど太陽がぎらぎらと世界を照らして
いる。梨の木の枝が作る影が、僕たち二人の顔に落ちていた。
「でも大人になったら自分で解るだろ」目を細めながら兄貴はそう予言した。
◇
兄貴の言った事は本当だった。それは僕が大学生になり、父さんが交通事故で亡くなった時だ。
遺品を整理していた僕は古い紙に包まれた油絵を何枚も見つけた。これは父さんが描いたのかと聞
くと、母さんは懐かしそうな顔で教えてくれた。
「お父さんは画家を目指していたのよ。でも家業を継がされて諦めたの」
それを聞いた瞬間、訃報を聞いた時にも流れなかった涙が溢れて止まらなくなり、ああそういう
31 :No.07 犬は我が家に帰る 4/5 ◇kP2iJ1lvqM:07/09/24 01:57:37 ID:SCEDXoXb
事だったのかと僕は悟った。
ケンジは家族みんなに好かれていたし、自由に生きた。立派な家があって子供も作った。もちろん
いなくなるのは寂しかったけど、本当に悲しい事とは違うと子供心に感じていた。
しかし父さんにはケンジと違う所が一つあった。もう叶わない夢が僕の胸をじりじりと焦がした。
こんなにも涙が出るのは、子供や大人に関係なく、僕が誰かのために悔し涙を流す生き物だから
なのだ。
それから僕は母さんと抱き合って泣いた。兄貴の奥さんがお茶を持って部屋に入ってきたが二人と
も嗚咽が止まらず、もらい泣きを始めた彼女と三人で盛大にべそをかいた。遺品整理の手伝いに来た
兄貴が僕らを見て呆れていた。
兄貴はやはりそれも子供の時に済ませていたのだろうか、と僕は思った。
◇
ある夏の夜、僕は会社帰りにコンビニへ寄った。
深夜まで残業していたので明るい蛍光灯が目に痛かった。店内では二十歳くらいの金髪の男が
しゃがんで週間漫画誌を読んでいた。彼を蹴らない様に後ろを通り抜け、雑誌を手に取り僕はレジへ
進む。買って帰る様に妻に頼まれていたものだ。
水商売ふうの女の後ろに並んだ時、僕はふとさっきの男が気になった。確かに彼は、朝もそこで
同じ姿勢で頁をめくっていた。
まさか、ずっと?
何となく可笑しくなり、僕はビニール袋を手に漫画の棚へ向かった。涼むついでに古本屋で数時間
くらいなら僕にも経験はある。しかし一日中コンビニでとなると、相当店員の目は厳しいはずだ。
何をそんなに熱心に読んでいるのか覗いてやろうと思った。
金髪の男はかなり異臭を放っていた。よく観察すれば髪も洗っていないし、着替えすらしていない
様だ。伸び放題の無精ひげをもごもごさせながら、眠たげな目を彼はこする。
この年でホームレスなんて事があるのかと驚きつつ、僕は視線を落とした。
きっと麻雀漫画か何かだろうと思っていたが、それは意外にも動物ものだった。子供の柴犬が親を
探して放浪するストーリーだ。僕の手には妊婦が読む情報誌があり、姓名判断の特集記事が組まれて
いる。僕はその事実に天啓に近い何かを感じて叫びだしそうになった。ケンジやそれにまつわる思い
出が頭の中で溢れかえり、一つの形をとる。
賢治だ。
急いで調べると、姓名判断もばっちりだった。
32 :No.07 犬は我が家に帰る 5/5 ◇kP2iJ1lvqM:07/09/24 01:58:10 ID:SCEDXoXb
名づけの理由は、臨月間近の妻には黙っておこうと思った。子供が死んだ時に泣きたくないのだと
言えば怒られるだろう。どんな希望を託そうが不謹慎なものは不謹慎だ、それくらいの知識はついて
いる。
気づけば僕は男の手を握り、ありがとうありがとうと連呼していた。彼は頭のおかしい人間だ
と思ったのか、「ここじゃ迷惑だから」と僕を外へ連れ出した。店員が安堵の目で見送る。
その後公園のベンチで僕は誤解をとき、男の話を聞いた。
彼は同棲中の彼女と喧嘩をし、アパートを追い出されたのだという。それから一ヶ月の間さ迷い
歩いている。
「もう帰りたい。けど金がない」と男は嘆いた。
電話で彼女に謝れよと僕が言うと、携帯番号を忘れてしまったのだと彼は告白する。この身なりで
謝罪するなどプライドが許さない。長いヒモ生活で友達はいなくなり、両親は既に他界して頼る者
もない。仕事はしたくない。どうにもならなかった。
そんな中、暑さ避けのために立てこもったコンビニで自分の境遇に似た犬が出てくる漫画を見つけ、
彼は朝から穴が開くほど繰り返し読んでいた。
「よく解らないけど、何か頑張ってみようって思ったよ、おれ」
「それはいい事だなあ」と僕は言い、金を渡した。彼がどんな人間だろうと無数にある漫画の中から
それを選び、僕に啓示をもたらしたのは確かである。
「いいか、これは飯を食う金じゃないぞ。風呂と洗濯と、電車賃だからな」
何度も礼を言い頭を下げる男に僕は念をおした。
「解ってますっての」
と言う彼の口元は緩んでいて、不安になった僕はさらに財布から金を取り出す。
最後に僕は質問した。
「そういえば、何で彼女と喧嘩したんだい?」
「彼女が妊娠しちまって、産むっていうんですよ。それでおれにも働けっていうから」
男はてへへと頭をかいた。ここまで来れば気持ちの良いクズだと思った。まあ嫌いではない。
別れの言葉を告げた男は軽い足取りで歩き出す。
「じゃあな野良犬、まっすぐ家に帰れよ!」立ち去る背中に僕は叫ぶ。
「ウウウ。ワン! ワン!」男が振り返って吠えた。(了)