【 ターミナル 】
◆QIrxf/4SJM




19 :No.05 ターミナル 1/5 ◇QIrxf/4SJM:07/09/24 01:22:19 ID:SCEDXoXb
 吐く息が白い。
 震える手の平に滴り落ちた彼女の涙が、肌色に吸い込まれて消えていく。
 静かに涙を流す彼女の背中にそっと手を添えて、ぼくは目を瞑った。
 固く閉ざされていた彼女の心が、錆び付いた蝶つがいのように鈍い雑音を吐き出して、ゆっくりと開いていくのがわかる。
「来てくれないんじゃないかと思ったの」彼女は言った。
 ぼくは目を開けた。「五分、遅刻したよ」
「砂時計を何度ひっくり返したかわからないわ」
 小さな綻びですら、彼女にとっては無視できないものだ。彼女の編んだマフラーが少々ほつれていようと、ぼくは気にしないのに。
「ただ、電車に乗り遅れただけなんだ」
 ほとんどの言葉は彼女の耳を通り抜ける。
「行こう。じっとしていたら、芯まで冷え込む」
 目元に浮かんだ涙を拭ってやって、ぼくは歩き出した。
 彼女が腕にしがみついてくる。
 決められたルートを、ただゆっくりと歩いていく。枯れた並木道を進んで、何も無い湖を眺めた。
 深緑の水が揺れている。こげ茶色の柵が、後ろへ流れていく。
 数時間かけて彼女の家に歩いて行くだけの単調なデートには、どこか駆け落ちのような危うさがある。
 ぼくは、こうして歩いている時にだけ、かつての感覚を取り戻せているような気がした。
「少し、休んでいきましょう」
 ぼくたちはベンチに腰掛けて、しばらくじっとしていた。
 正面の柵越しに湖を眺める。
 彼女はぼくの肩に頭を乗せて目を瞑っていた。
 ぼくはマフラーを緩めて、首にかけてやった。
 辺りには、少し霧が出ている。
 ぼくたちの頬にしっとりと触れ、とても小さな水滴を残して流れていく。
「違う」
 頬を流れる水滴が、涙なのだと気付いた。
「どうしたの?」彼女が言った。
 彼女に掴まれた腕が、熱を持っている。でも、離して欲しいとは言えないのだ。
「目に、ごみが入ったんだ」
 それきり、ぼくも目を瞑った。

20 :No.05 ターミナル 2/5 ◇QIrxf/4SJM:07/09/24 01:22:56 ID:SCEDXoXb
 肩にのしかかる彼女の重みが、ぼくの瞼の裏に、真っ黒な蜃気楼を齎す。
 ぼくはそれに吸い込まれて、身動きが取れない。
 力を奪われたぼくにできることといえば、必死に瞼をこじ開けて、崩壊の様子を間近で見守ることだけだ。
 ペンと紙があったなら、その様子を綴り、食い止める方法を模索できるかもしれない。
 だが、脳は考えることを拒否した。あまりにも、つらすぎる。

 アルバムをめくる。
 懐かしい思い出が、形として残っている。
 スモッグを着て、絵の具で化粧をした彼女の姿や、クリスマス会の集合写真がある。
 ジャングルジムに座って笑顔を見せている彼女は、とても生き生きとした笑顔をしている。
 横断歩道に見立てたうんていの上を、右向きに歩いているぼくたちを撮ったのは誰だろう?
 どんな写真でも、いつも一緒に写っている。
 最後のページを開いた。
 高校の校門で撮った、入学式の時の写真が一枚だけ、貼り付けられていた。
 写真は、もう古い。
 
「人間は絶望を描いて死んでいく」と彼女は言った。「それを悟った者だけが、人生を謳歌できる」
 薄暗い靄に包まれて、彼女がまた何かを言葉に出している。
 彼女の背に浮かぶ不気味な影を喩えるならば、それは息絶えた死神だろう。
 背中から生えた美しい黒曜石の翼は歪に折れ曲がり、眼球はくすんで瞳孔が大きく開いている。
 赤と黒のストライプ。
 薄汚れた金の鎌。
 襤褸を纏った蝋人形。
「くだらないよ」ぼくは言った。「絶望なんて、希望の裏返しなんだ」
「あなたは知っているのね」
「知りたくもないな」
「昨日あげたチョコレート、どうだった?」
 喉や歯に絡みつく感覚を思い出す。

21 :No.05 ターミナル 3/5 ◇QIrxf/4SJM:07/09/24 01:24:10 ID:SCEDXoXb
「美味しかったよ」
 彼女は微笑んだ。
 彼女の長い黒髪で刺繍の施された手袋の中、ぼくの指先はかじかんでいる。
 もし外そうとすれば、それはぼくの手首に鋭い牙を立てて、生皮を剥いでしまうだろう。
 ぼくたちは腕を組んで、学校の路地裏を歩いた。
 ぼくはただ足を前に進めているだけで、道を選んでいるのは彼女である。
 黒い冬服に付けられた、黒いリボンが彼女の胸元で揺れている。
 遠回りをすることで、ぼくが失うものは何も無い。郷愁にも似たこの感覚が、一つの琴線となってぼくを繋ぎとめているのだ。
「明日はどこへ行く?」
「きみの好きなところでいいんだ」
「地獄なんてどう?」彼女は笑った。「道連れね」
 釣り上げた口元が、病的な紫色に染まっている。
 ぼくは目を瞑って、彼女の口元に紅を差した。
“You’re my wonderwall.” 彼女が口ずさむ。
 消え入るように澄んだ歌声だった。
 彼女が本当にそのように思っているのかどうかは分からない。
 ぼくはただ、彼女の全てを受け入れて、疑いを晴らしていくしかないのだ。
「テスト勉強は進んでる?」
「平均点が取れればいいんだ」
「私、あなたと同じ点数を取るわ」彼女は言った。「そして、あなたと同じ進路を同じように辿って、同じ屋根の下に住むの」
「きみは、きみの生き方をすればいいと思う」
「――それが、私の生き方なの」
「うん」ぼくは頷いた。
「あなたも、それを望んでいるんでしょう?」
 ぼくは再び頷いた。
 肯定しなければ、彼女の持つ疑念が大きく膨らんで、彼女自身の心を破裂させてしまう。
「ずっと、一緒がいいんだ」
 アルバムに載せることができる写真を、もう一度撮ることができるようになるまで、ぼくはずっとそばに居続けるだろう。

22 :No.05 ターミナル 4/5 ◇QIrxf/4SJM:07/09/24 01:24:31 ID:SCEDXoXb
 紙のように薄い硝子でできた人形は、見ているだけならば壊れることはない。
 たとえ触れてしまっても、力を込めなければいい。
“You're gonna be the one that saves me.” 彼女が口ずさむ。
「その歌、気に入ったの?」
 彼女は頷いた。
「ええ、とても素敵な歌だわ。韻をふんでいて、思わず口に出してしまうの」
「わかるよ」ぼくは言った。
 見知らぬ人の家をたくさん通り過ぎる。
 小さな通りをジグザグに曲がりながら、彼女の思うがままに、ぼくたちは足を進めた。
「二人だけね」
「この辺りにも、誰かが住んでいるよ」
「視界に入らなければ関係ないわ。けれど、目を瞑っていてはあなたが見えないでしょう」 
「目を瞑っても、きみのことが見えるんだ」
「本当?」
「嘘を言えるほど、器用じゃないんだ」
「知ってるわ――」彼女は俯いた。「あなたが、心の中を上手く言葉にできない、不器用な人ってことも」
 腕を組む力が強くなった。
「ねえ、手袋を外してもいい?」
「どうして?」
「手を繋ぎたいんだ」
 彼女は微笑んで、ぼくの右手から手袋を外してくれた。
 ぼくは、彼女の手を握った。
「冷たいね」
「あなたの手の温もりを、大いに感じることができるもの。そのための、寒さ」
 しっかりと身を寄せあって歩く。
「音楽に溢れた世界と、お金に溢れた世界。どっちが素敵?」
「音楽かなあ」
「言うと思ったわ」彼女は機嫌がよさそうに微笑んだ。
 予想通りの答えを得たときほど、嬉しいものはないのだ。

23 :No.05 ターミナル 5/5 ◇QIrxf/4SJM:07/09/24 01:24:46 ID:SCEDXoXb
 ぼくたちは長い時間をかけて、彼女の家の前にたどり着いた。
 切れかけた外灯が、ゆっくりと点滅している。
 冷たい風が吹き、繋いだ手を串刺しにする。
「手を繋がなくても、繋がっていられる方法」彼女は言った。「肉体を越えた融合」
「そんなことをしなくても、ぼくは離れない」
 彼女の疑念を、どうしたら打ち消すことができるのだろう。
「不安の存在しない、とても安定した世界へ旅立つことが出来たら」
「世界というものは、住民が作り出すものだよ」
「私は、あなたと同じ夢を見たい」

 土曜の朝は、いつもよりもずっと冷え込んだ。
 廊下を歩くと足の裏が痛い。
 ぼくは手短に朝食を済ませて家を出た。
 彼女の家の前に立ち止まり、インターホンを鳴らす。
 ぼくは彼女の部屋に入った。
 彼女はベッドの上に座って、ぼくを手招きした。
 ぼくは隣に腰掛けて、顔がよく見えるように彼女の髪の毛を耳にかけた。
 彼女は二本のナイフを取り出して、片方をぼくに差し出した。
「目が覚めたら、きっとそこは二人だけの世界」
 彼女はぼくの目の前で、自らの腹にナイフを突き刺した。ふわりと微笑を浮かべて、瞼を閉じる。
 ぼくは渡されたナイフの刃を眺めた。顔が半分だけ映っている。
 彼女は、ぼくを信じようとした。ぼくに委ねようとした。
 彼女は死ぬだろうか? ぼくも死ぬべきだろうか?
「絶望は希望の裏返し」ぼくは言った。
 ぼくは彼女の体を抱えて、部屋を飛び出した。
 再生を確信した。



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