【 日本一の英雄 】
◆nsR4m1AenU




82 :No.19 日本一の英雄 1/4 ◇nsR4m1AenU:07/09/16 23:43:29 ID:HX80xRwl
 今日は搭乗手続きにえらく時間がかかった。いつもより入念なボディチェックとX線による荷物の
検査が行われていたからだ。海外で何か起こる度、何か起こっていなくとも突然警備が厳しくなる時
がある。今日もそんな時に運悪く当たってしまったのだろう。お陰で事前にトイレへ行くことができ
ないまま飛行機へと乗り込むハメとなった。
『本日は、当機へご搭乗頂きまして誠に……』
 お決まりの機内アナウンス。だがそんなものはどうでもいい。問題は俺の腹具合だ。
 一体何がいけなかったのか。出張先の接待で食った得体の知れない刺身か。初めて食って飲み込め
なかった名称不明の漬物か。地方の名物ということで色々食わせてもらったから心当たりがあるかな
いかといわれればあるに決まってる。だがどれが怪しいかといわれるとよく分からない。
 ジェットエンジンの音が大きくなる。
 そろそろか。ちょっとまずいな。離陸からしばらくの間はトイレを使わせてもらえない。上半身を
捻り背もたれ越しに背後のトイレ表示ランプを俺は見る。
『使用中』
 はっきりと、そう表示されている。
 俺は前を向き背もたれへ後頭部を叩きつけた。
「くそ」
 だが、まだ我慢の余地はある。俺の最終関門まで圧力が到達していない。この余地を使いきる前に
なんとかトイレへ行けばいいのだ。羽田空港まで約一時間半。危険なフライトになるかもしれない。

上空へぐんぐんと高度をあげていくジェット機。頭から腰へ抜ける不快なG。Gが腰へ抜けるついで
に別のものまで抜けそうになり、思わず腰を浮かし尻へ力を込め背筋を伸ばした。額が汗と脂で濡れ
る。呼吸も段々と浅く速くなるのが自分でもわかる。
 首を目一杯回して背後の表示ランプを見る。やはり『使用中』だ。くそ、こんなことを何回やらせ
る気だ。そもそも上昇中はシートベルトをしめなければスチュワーデスに怒られる筈だろ? トイレ
も使わせてもらえないはずだ。それなのに何故未だに使用中? 可能性としてはひとつ。離陸前から
ずっとトイレに入っているということか。くそ、長いぞてめえ。俺がテロリストなら迷わずトイレの
ドアを爆破してやる。

83 :No.19 日本一の英雄 2/4 ◇nsR4m1AenU:07/09/16 23:43:55 ID:HX80xRwl
 奥歯をかみしめ過ぎて両あごが痛い。シートからケツを浮かせて、いわば空気いす状態でずっと耐
えていた。やがて何度目か数え切れない振り返りで、やっとランプが消える瞬間を目撃する。と同時
に開いたドアの向こうから胸元を汗で色濃く湿らせた男がよろめきながら出て来るのが見えた。スチ
ュワーデスは即座に歩み寄り何やら話しかけるが、その男は彼女を振り払うようにして空いている席
へ体を投げ込んだ。
 斜め上、天井にある「シートベルト着用」ランプも消灯している。
 しめた、トイレへ行けるぞ。

 何度も腹へ力をいれ、腹が軽くなるどころか内蔵まで出たんじゃないかというほど放出した。それ
なのにまだ腹を締め付けるような鈍痛が俺を責め続ける。首の回りが汗で冷たい。胸元も汗でへばり
付くほどだ。腕時計を見ると離陸してから一時間ほど過ぎていることが分かる。
 俺はこんな窮屈な空間に三十分も座り込んでいるのか。一体どうなっているんだ。まるでさっきの
男と同じじゃないか。奴も出張で色々食わされたのかもしれない。一旦ここを出よう。調子悪ければ
また来ればいい。
 そう思って立ち上がると同時にパンツへ両手をかけた瞬間。
 普段あり得ない感触がそこにあった。思わず視線を落とし感触の元凶を確かめる。
「うそだろ」
 夢だと思った。
 目を閉じてもう一度開けば寝室の天井が見えるんじゃないか。そう思って何度か瞬きをする。だが
ここは正しくジェット旅客機のトイレ。そして俺が両手に持って引き上げようとするものはパンツ。
さらにそのパンツはおろかズボンまで汚染されている。ごまかすことが不可能なほど広く大きい。
 どうやらいつの間にか漏らしてしまったようだ。席で非常ガス抜きをやった時だろうか。すると席
も汚れているはずだ。今頃スチュワーデスは気づいているはず。
「つうか、俺、もう席へ戻れねえ」
 再び便座へケツを落とし、両手で頭を抱えた。髪の毛を強く握り混む。痛いには痛いが心の痛みに
比べれば全然たいしたことはない。
 俺は何度も髪の毛を握り直しながら頭を捻る。いい方法はないかと。
 俺は目を大きく開き頭に手を置いたまま顔を上げる。
 ひとつ案が浮かんだ。こうなったら着陸の瞬間まで立てこもり、席へ寄らずそのまま真っすぐ飛行
機を降りるしかない。

84 :No.19 日本一の英雄 3/4 ◇nsR4m1AenU:07/09/16 23:44:20 ID:HX80xRwl
 それから何度もドアをたたく音と「すいませーん、まだですか」という声を聞いた。
 俺は無慈悲に「すいません、調子悪くて」とだけ言い、決してドアを開けようとはしなかった。
 当たり前だ。実際調子悪いどころではないのだ。これはパンドラの箱と同じで、開いた瞬間、俺へ
厄災が一斉に降りかかる。乗客へ迷惑をかけまくっているという自覚はある。だからノックの音が繰
り返される度だんだんと俺は憂鬱な気分に包まれていった。
 再び性懲りもなくノックの音が響く。何度目のノックかは忘れた。いい加減返事をするのも邪魔く
さくなり、何もせず、何も言わず無視していた。
 だが、今度はさっきまでとは様子が違う。まるでバンドのドラムよろしく延々とノックが続く。
「空けろてめえ」
 苛立たしげな男のそんな声に女性の声が混じる。どうやらスチュワーデスが何か言っているようだ。
男をなだめるような話し声。それにもかかわらずますますヒートアップする男の罵声。
「お客様、お体が悪いのですか? 他のお客様へトイレを一旦譲って戴けませんか?」
 ノックと一緒にそう聞き取れた。
 くそ、トイレ占拠がこれほど精神的にきついとは。
 施錠レバーへ俺は手を伸ばしかける。
 既にもう俺は疲れ切っていた。これ以上頑張れそうも無い。
 その時、耳をつんざくような破裂音が立て続けに響き渡った。
 スチュワーデスの悲鳴に続き客の罵声、悲鳴。そしてさっきの男らしき怒鳴り声。俺の目の前でド
アがすごい音を立てて振動する。思わず施錠ノブへ視線を向ける。俺は目を大きく開いた。人差し指
が入るくらいの穴がノブ周辺に五個ほど空いている。何だこれ。ひょっとして拳銃か何かか?
 再びドアが大きな音を立てた。
「開けろ!」
 男がそう叫んだ。だがこんな訳の分からない状況でハイそうですかと開ける訳がない。
 一体いつまで踏ん張ればいいんだ? 俺は腕時計を見る。救われるかもしれない。まもなく着陸だ。
ジェットエンジンの音が低くなる。機械の動作音が響く。間違いない、着陸態勢だ。これで状況は良
くなる。地上なら警察は飛行機へ乗り込める。
「ちくしょう!」
 ドアの向こうで嗚咽に混じった男の叫び声が聞こえた。

85 :No.19 日本一の英雄 4/4 ◇nsR4m1AenU:07/09/16 23:44:46 ID:HX80xRwl
 着陸してから更なる爆発音、罵声が聞こえてきた。そして急に訪れる静寂。一体何がどうなってい
るのか分からなくなった。意を決して俺はそろりとドアを開ける。すると目の前に黒づくめの男達が
数人、機関銃をこちらへ向けている光景が目に飛び込んできた。
 あまりにも予想外の光景だ。俺は口を半開きのまま表情が凍る。慌ててドアを閉めようとした。逆
にその手を掴まれる。通路へと引きずり出された。下半身汚物まみれのすっぽんぽんで。
 後ろ手に手錠をかけられ引きずり下ろされるように飛行機のタラップを降りた。そして空港警察へ
連れ込まれ、数名の警察官に取り囲まれたまま事情聴取。
 事のあらましを説明してもらったのは随分後になってからだった。案の定、俺はテロリストの仲間
と勘違いされていたようだ。そして例の男は本物のテロリストだったそうで、トイレの消耗品置き場
へ爆発物を一旦隠し、着陸寸前にもう一度トイレへ入り自縛する予定だったそうだ。その作戦を俺が
トイレへ立てこもることで潰したらしい。
 警察から言わせれば俺はヒーローだとか。恐らくマスコミもそう放送するだろうとのことだった。

 数日後。
 俺はやっと警察から解放され、一人暮らしの朝を久しぶりに迎えた。いつものようにコーヒーをわ
かし、夕べコンビニで買い込んだ食パンをトースターへ押し込んでからテレビをつける。
 タナボタとはいえ俺はヒーローだ。そう扱った報道を楽しみにしている。
 最初に映し出されたのは『ハイジャックおよび爆破未遂犯』と称された男がタラップから降りると
ころだった。髭をたくわえるその男が毅然と歩く姿にはどこか敗戦の将のような雰囲気を感じる。
 俺の向こうで怒鳴り散らしたり発砲したり体当たりしてたのはこの男だったか。俺の腹痛ごときで
計画を潰してしまったことになぜか申し訳なく思ってしまう。もし話ができる機会があれば彼と一度
酒でも酌み交わしてみたい、そんな気にさえなった。
 さて、次は俺だ。どんな報道だろう。DVDプレーヤーの録画ボタンを押してその時を待つ。
 そして映し出されたのは。
 目と下半身をモザイクにした男がタラップから引き摺り下ろされる光景と『Aさんの名誉のため画
像処理および仮名とさせていただきます』というテロップが共に放送された。

 今回の事件をどう会社で説明すればいいのだろうかと俺は頭を抱えた。

                       缶



BACK−英雄◆luN7z/2xAk  |  INDEXへ  |  NEXT−魔法を使えない男の弟子◆bsoaZfzTPo