61 :No.14 とある雪原にて 1/3 ◇4TdOtPdtl6:07/09/16 22:50:01 ID:HX80xRwl
荒涼とした大地。
最寄の都市まで数十マイルはあるだろう。
周りを山々に囲まれたその土地はまるで、文明と隔絶された異世界のようだった。
文化も交流も、生命も時間さえも凍りついたそこは、さながら太古よりその姿を伝えるタイムカプセルだ。
そんな、どこまでも続く白銀の平原に、彼らは居た。
極彩色で描かれた大旗。
黄金に彩られた馬車。
新雪よりも白く輝く甲冑。
時間の止まったその土地で、彼らはとても不釣合いに見えた。
総勢はおよそ二十五万。
傾きかけた日に輝く、厳かな大軍隊がそこにあった。
突如、山間に高らかな管楽器の音が木霊する。
軍楽隊の奏でる軍歌の音だ。
その音色を合図に、隊列そろえて行進していた軍がその歩みを止める。
同時に、長旅に疲弊しながらも整然としていた隊列は一変、喧騒に見舞われる。
馬をつなぐ者、テントを張る者、炊事に取り掛かるもの……
各自がそれぞれ機敏に動き回り、野営の支度を始める。
敵地深く、殺伐とした異郷でなお、彼らの顔には皆自信に満ち溢れており、疲れを知らぬが如くはつらつとしている。
皆、来たる戦いの勝利を確信しているのだ。
よほど自軍の兵力を過信しているのか、はたまた強力な指導者が居るのか。
ともかく、彼らの士気は上々と言えるだろう。
そんな活気に満ちた彼らの声が辺りに響き渡る。
62 :No.14 とある雪原にて 2/3 ◇4TdOtPdtl6:07/09/16 22:50:27 ID:HX80xRwl
野営の支度が一段落する頃になると、陣内は先ほどとはまた違った騒々しさに包まれる。
敵軍が近いにもかかわらず、彼らは皆、楽しそうだった。
酔っ払った兵士が暴れだし、それを叱り飛ばす上官の声。
カードゲームにでも興じているのだろう、時折歓声が起こる騒々しい兵舎。
それは銃を構え立ち並ぶ見張りの者も例外ではない。
隣の仲間に次の戦いでの手柄を宣言する者。
気も早く勝利の宴の予定を立てる者。
敵の捕虜の中に美女はいるだろうかと妄想する者。
彼らはみな、一様に信じきっている。
我らは無敵だ、と。
そんな様子を、その男は独りじっと見ていた。
騒がしいその様子を見て、彼は何を思っているだろう。
交じるでもなく追い払われるでもなく。
笑うでもなく憤るでもなく。
ただ、眺めていた。
その顔はどこか疲れた老人のようだった。
63 :No.14 とある雪原にて 3/3 ◇4TdOtPdtl6:07/09/16 22:50:49 ID:HX80xRwl
夜。
日付が変わる頃、再び彼は現れた。
わざわざ外に持ち出した椅子に腰掛け、ゲーテの小説を開く。
それは見るからに古ぼけた本だった。
角は取れ、紙は黄ばみ、綴じ紐はほつれかけている。
そんな読み古しの本を、彼は大事そうに抱え、読み始める。
月明かりの中、本に目を落とすその顔は、とても穏やかだった。
さすがに兵士たちも夜番を残し眠りに付いたようだ。
深夜、誰もが寝静まった陣営。
静寂の中、ただページを捲る音だけが時を刻んでいった。
三時間ほど経っただろうか。
彼は本に栞を挟み、ゆっくり閉じる。
緩慢な動作で立ち上がると、空を仰ぎ見る。
夜空に輝く星たちをその双眸が眺める。
すっと視線をずらす。
はるか前方。
その先にある都市――モスクワを見遣る。
先ほどとはうって変わり、射抜くような眼差し。
硬い意思を秘めた巌のような厳しい顔。
その顔は間違いなく、英雄の顔だった。
風がコートを揺らす。
彼は片手を懐に入れ、きびすを返す。
月はもう、翳っていた。