【 青い空・老人・白い少女 】
◆2LnoVeLzqY
34 :No.08 青い空・老人・白い少女 1/5 ◇2LnoVeLzqY:07/09/16 14:44:37 ID:h5Z1Ar3i
――世界は英雄を失って久しい。
定年間際で死んだ父の遺品を整理していた僕は、こんなタイトルのついた原稿用紙の束を見つけた。
新聞記者をしていた父のことだ。きっと、記事にしようと思ったけれど没にした原稿なのだろうと思った。
日付は書かれていない。いつ書かれたのか、一目にはわからなかった。
けれど、変色し黄色くなりかけたその原稿用紙は、書かれてからずいぶんと時間が経過したことを示している。書かれたのは、僕が生まれる前かもしれない。
ざっと目を通してみた僕は、そこでおかしなことに気がついた。書かれている内容は、記事というよりも……むしろ、小説のようだったのだ。
“私”の語るその物語は、不思議と僕の目を惹きつけた。
◇◇◇
これまで人類の歴史には、数多くの英雄の姿があった。
もちろん歴史が事実の集積とは限らないだろう。多くの場合歴史は、記述する人間の主観によってその容貌を大きく変えるからだ。
それでも、英雄の名に恥じない人物は、幾度となく歴史の表舞台に姿を現している。
たとえば古代、マケドニア王アレクサンダー、あるいはローマ皇帝カエサル。
時代を先へと進めれば、ジャンヌ・ダルク、ナポレオン、デヴィ・クロケット、リンカーン。小さな地域規模から世界規模まで、その枚挙には暇がない。歴史には常に、英雄の姿があったのだ。
……だが、これまで誕生したうち一番最後の――つまり、最も新しい――英雄は、果たして誰だったであろうか。
それは当然のように起こる疑問であろう。そして同時に、答えはいくつも考えられる。
だが、最も多くの首肯を求めようと思ったとき、私は(日本人である私でさえも)答えは次のものになるのではないかと思う。
それは良かれ悪かれ……ヒロシマに『リトルボーイ』を投下したB29、エノラ・ゲイの機長、ポール・ティベッツであったと。
「……私が英雄であるかは別として」
その白髪の老人は、日本人である私の質問に、ゆっくりとこう答えた。
「あれが間違っていたと考えたことは、これまで一度もないね。そしてこれからも、ないだろう」
老人ポール・ティベッツは、退役し半隠遁の身となった今も、血色の良い肌からは溢れんばかりの自信を漲らせている。
おおよそ思ったとおりの彼の返答に、私は何故か、心のどこかで安心していた。
「つまり」私は、あらかじめ考えておいた質問を投げかける。
「十万の、いや、十五万とも二十万ともいわれる人々は、死ぬべくして死んだとおっしゃるのですか?」
「……残念ながら」
老人もまた、私の質問を予想していたのだろう。
「戦争とは、概してそういうものなのだ。謝罪の必要性も、感じはしない」
35 :No.08 青い空・老人・白い少女 2/5 ◇2LnoVeLzqY:07/09/16 14:45:04 ID:h5Z1Ar3i
高級そうな椅子に深く腰掛け、彼はリラックスした様子でそう答える。
1945年8月6日、人類史上最悪の兵器に手をかけた“アメリカ合衆国の英雄”が彼だとは、その姿からは到底思えない。そこにいるのは普通の老人だ。一見する限りは。
――だが、やはり彼は普通の老人ではない、とも思う。
彼の言葉のひとつひとつから窺える、自分の行為への絶対的な自信。それは、普通の人物では持ち得そうにない。
ヒロシマへの原爆投下を正しいと言い切るその信念は、恐らく寿命が尽きるまで、決して揺るがないのだろう。
彼の部屋の窓の外には、青い空が見える。
私自身、生まれたのは戦後だ。しかし、あのときの広島の空もきっと、このような快晴なのではなかったか。何かでそう読んだことがある。
青い空に、黒煙とともに巻き上がるきのこ雲。その姿は、とても人間が想像できるものではないのだろう。
ぼんやりと空に見とれていると、老人が口を開いた。
「君は」
ゆうに三十ほどは年下であるはずの私に、彼は非常に親しげに話しかける。
「『殺人狂時代』を観たことがあるかね?」
私は静かに頷いた。『黄金狂時代』や『独裁者』と並ぶチャップリンの代表作だ。空気の淀んだ古い映画館で、かつて見た記憶がある。
しかし『殺人狂時代』は反戦映画といわれることが多い作品だ。その作品名が、戦争の英雄たる彼の口から出たことは意外だった。
「主人公が死刑になる前のセリフを、覚えているだろう?」
彼はこう続け、私はまた静かに頷いた。
そのとき彼の目線が、私をひたと見据えた。それは、射抜くような視線だった。思わず、私は口を開いていた。
「……『百人殺せば英雄で、一人殺せば殺人者』ですね」
満足そうに彼は頷く。それからセリフの続きを、ゆっくりとした英語で諳んじた。
「『数が、殺人を神聖化する』……私がこの祖国で英雄たり得るのは、まさにそのためなのだ。同時に、日本にとっての私が殺人者であるのもね」
「どういうことです?」
私の質問に、彼はふと、目を細めた。
「私は、十数万のヒロシマ市民を殺害し戦争を終結させた。だからこそ我が祖国で、私は英雄ということになっている。
だが日本から見れば……私は、たとえば一人の赤ん坊を殺した。一人の老人を殺した。あるいは妊婦を殺した。あるいは、また別の老人を殺した。……それゆえ、日本から見た私は殺人者なのだよ」
「……つまり、彼らを個とみるか集団とみるかということですか?」
私の真剣な問いに、しかし彼は、はっはと笑って答えた。
「小難しい哲学を語ったつもりはないさ。まぁ、君の好きなように考えるがいい。もっとも」
彼はそこで、一旦言葉を切った。
「英雄とはいつも、死体の山の上に旗を立て、血の海の上に橋を掛ける者のことをいうのだ」
そのとき、部屋のドアが控えめにノックされた。
36 :No.08 青い空・老人・白い少女 3/5 ◇2LnoVeLzqY:07/09/16 14:45:27 ID:h5Z1Ar3i
入ってきたのは、物腰の柔らかな、優しそうな老婦人だった。彼の妻だ、と何故か私には一目でわかった。
もっとも、彼の妻でなかったら一体誰なのであろうか。
彼女はコーヒーを彼と私の前に置くと、彼に何かを耳打ちし部屋を出て行った。
「英雄にも殺人者にも、妻はいるのだよ。息子も、それに孫もいる。私とて、人間だからね」
閉まるドアを見ていた私に、老人はにやりと笑いながら言った。
テーブルの上のブラックコーヒーは湯気を立てている。老人はカップを細い手で持ち上げ、それを静かに飲み始めた。
私も彼に倣って飲み始める。それは、非常に穏やかな午後の時間だった。
遠い昔、一人の英雄によって街がひとつ消えたことなど、忘れてしまいそうな時間だった。
「ところで申し訳ないが、それを飲み終えたら、君には帰ってもらわなくてはならない」
飲みかけのコーヒーカップをテーブルに置くと、唐突に彼は私に言った。
その口調があまりに真剣だったので、私はカップをテーブルに置き、思わず身構えた。
何を言われるのだろう、と思った。質問のどれかが彼の気に障ったのかもしれない。
そう考えていた私と目が合うと、彼はそのままの口調で、厳かに言った。
「……これから、孫が遊びに来るんでな。妻がそう言っていたのだ」
思わず私は噴き出した。確かに私は邪魔者だ。なるほど、大国アメリカの英雄も孫には敵わないのだろう。
「わかりました。これを飲み終えたらお暇します」
私が笑いながら言うと、彼はもう一度「申し訳ないね」と言った。彼も謝罪の必要性を感じる時があるのだ。
私が残りのコーヒーを飲み干そうとカップを取ると、彼も私に倣ったようにカップを取った。それからはまた、穏やかな午後の時間が続いた。
カップの底が見え始めた頃、ふと、彼の声が聞こえた。
「子供たちは、英雄の姿を見て育つものだ。そう思わんかね?」
その声に、私は一旦カップを置いた。
「そう思います」
私は正直に答えた。それは、歴史が証明している。
残っていたコーヒーを一気に飲み干すと、彼はゆっくりと、こう言った。
「だから私は、英雄を辞めるわけにはいかないのだ」
ことん、と彼がカップを置く音がした。
「では、これで失礼します。色々とご迷惑をお掛けしました」
玄関でそう言う私に、彼は再び「私の方こそ、申し訳ないね」と言った。
37 :No.08 青い空・老人・白い少女 4/5 ◇2LnoVeLzqY:07/09/16 14:45:52 ID:h5Z1Ar3i
その謝罪はヒロシマへ向けたものではないだろう。だが、その点へ怒りを向けることは、今は適切ではないはずだ。
ふと車の来る音がした。振り返ると、一台の日本車がこの家へ近づいてくるところだった。
そこから降りてきたのは若い夫婦と、青い目を持つ金髪の少女だった。五歳ほどに見える。これが、彼の愛する孫なのだろう。
白いワンピースが、少女には良く似合っていた。
「おじいちゃん!」
走り寄る孫娘を、彼は満面の笑みで出迎えた。そこに立つ彼は英雄でも殺人者でもなく、孫を心底愛する一人の老人のように、私には見えた。
だが少女とて、祖父が誰であるのか知らぬわけではあるまい。
子供たちは英雄の姿を見て育つ。
その言葉には、私は全面的に同意しよう。たとえば二百年前、ナポレオンの姿を見た子供たちは、彼のようになるとその小さな胸に誓ったはずだからだ。その決意は、ナポレオン亡きあとも、子供たちの心の奥に残ったであろう。
世界はきっと、英雄を欠いてはいけないのだ。
◇◇◇
「……だが次に現れる英雄は、死体の山の上でも血の海の上でもなく、たとえばふと、どこかの路上に現れては子供の心を救うような、そんな存在であれば良いと心から願う。
そしてこの点においては、幼い孫を持つあの老人も、きっと私と同じ想いであったはずだ」
古ぼけた原稿用紙は、そんな言葉で締めくくられていた。
日本人である私とは、きっと父のことだろう。彼を責めるでもなくただ話を聞く姿は、なるほど父らしいといえば父らしかった。
もっとも僕が知る限り、ポール・ティベッツという人は日本からの取材をほとんど受けてはいないはずだ。
これが実話なのか創作なのか、僕にはわからない。もっとも今となっては、それを知る必要もないだろう。
周りで同じように遺品の整理をしている母や姉に気づかれないように、僕はこの原稿用紙をそっと畳んでポケットに仕舞った。
時計を見ると、友だちとの約束の時間が迫っていた。
「ちょっと出かけてくる」
「はいよ、いってらっしゃい」
バス停へ続く道には、八月の強い陽射しが降り注いでいた。
ミンミンと鳴く蝉の音があたりを支配している。ふと見上げれば、遠くに入道雲のそびえる青い空がある。
僕はふと、六十年前のあの日の広島も、きっとこんな感じだったんじゃないかと思った。時間帯こそ違うけれど、あの日も今日と同じように、真っ青な空が頭上にはあったと聞く。それは、原稿用紙にも書かれていた。
その青い空を舞っていた英雄は、どんな気持ちだったんだろう。
角を曲がった僕の横を、学校帰りの子供たちが通り過ぎていった。彼らは笑いながらゲームか何かの話題に興じていた。
原稿用紙の中の老人の言葉が、僕の頭を駆け巡る。
38 :No.08 青い空・老人・白い少女 5/5 ◇2LnoVeLzqY:07/09/16 14:46:31 ID:h5Z1Ar3i
――子供たちは英雄の姿を見て育つ。
傍を通り過ぎた彼らには、果たして英雄はいるのだろうか。ふとそんなことを考える。現代の英雄。そんな人、やはりいないだろう。
そのとき僕は唐突に、あの原稿用紙のタイトルを思い出した。
『世界は英雄を失って久しい』
父がそんなタイトルにした意図が、僕にはほんの少しだけ、理解できた気がした。同時に、彼があの老人を、ほとんど責めなかった理由も。
そして、父がこれを書いた時期も。ほんの少しだけだけれど。父とあの老人が、子供に拘っていた理由が、なんとなく、透けて見えてくるのだ。
角を曲がるとバス停がある。
バス停に近づいた僕は、そこに一人の小さな女の子が立っているのに気がついた。
着ている白いワンピースが良く似合っている。頭には同じ色の、つばの広い帽子を載せている。きっと大事な帽子なのだろう。少女はしきりにそれを気にしては、手で押さえる仕草を見せた。
その真っ白な姿は、僕に原稿用紙に出てきたあの少女を連想させた。
僕がバス停に近づくと、その少女が僕の方を向いた。
――あ、と思った。僕は一瞬目を疑った。目の前の少女の、髪の色は――
そのとき、一陣の風が吹いた。
「あっ」
少女の背後からの風は、彼女の帽子を吹き飛ばした。帽子は風に乗って低くだけど早く流れる。そのまま帽子は僕の方へと飛んでくる。
「取って!」
彼女の声。僕はとっさに手を伸ばす。取らないと。けれど、帽子の方が早い。
帽子は僕の横を低く飛び去る。指先は虚しく空を切る。駄目だ。僕はそれを追って慌てて振り返った。
そこには、一人の女性が、その帽子を手にして立っていた。
流れるような金色の髪。それに青い瞳。
僕よりも五歳くらい、年齢は上だ。
彼女は僕の傍を通り過ぎ、まっすぐに少女へと歩み寄る。蝉の声が消えた気がした。僕と青い空だけが、その様子を眺めている。
彼女は帽子の埃を手で軽く払うと、少女の金色の髪の上に載せる。
「ありがとう!」
少女は、満面の笑みでそれに応える。彼女は少女といくつか言葉を交し合う。やがて女性は、結局僕を一瞥もすることなく、向こうへと歩き去ってしまった。
一人になった少女は、帽子をぎゅっと深く被った。もう二度と飛ばないように。そこからほんのわずかに見え隠れする金色の髪に、僕の目はまた、釘付けになる。
夏の日差しの中に、金髪の、真っ白な少女だけが立っている。
――たとえばふと、どこかの路上に現れては、子供の心を救うような。
やがてバスが来て、少女がその中へと消えるまで。
僕はずっと、その姿を見つめ続けていた。