【 今日も今日とて大惨敗 】
◆vJYNv4JR5w




95 :No.29 今日も今日とて大惨敗 1/3 ◇vJYNv4JR5w:07/09/10 00:03:47 ID:2lBaudG1
 時刻は七時三十分。気の早い入道雲が遠くの空に見える。天気は晴れ、気温、風速、湿度とも問題なし。
路面コンディション良好、タイヤ圧正常。愛車を駐輪場から出し、マンションの前で待つ事一分。今日も眠
そうな顔をして樹がやってくる。
「ゴメン、ゴメン。待った?」
「……あぁ。それより、今日もやるぞ」
「えぇー。今日も? ま、いっか。今日もジュースご馳走様。橘」
「まだ俺が負けるって決まったわけじゃねぇ」
「ハイハイ」
そう言って樹は駐輪場から自転車を出し、スターと地点に向かう俺にヒョコヒョコ付いてきた。
「……古典の宿題やった?」
「やってねぇよ!」
「……なんで怒ってんの?」
「うるせぇ」
今迄の戦績は十五戦十五敗。いくら樹が運動部で俺が帰宅部と言っても、自転車通学に関しては俺のほう
が分があるはずなんだ。俺にだってプライドも面子もある。これ以上負けるわけにはいかない。

 スタートはマンション前のバス停から出る、七時三十五分発のバスの発車が合図。時刻は七時三十三分
を回っていた。バス停には数人がバスを待っている、殆どが俺たちと同じ高校に通学している連中だ。バス
停に着くと樹はその仲の何人かと話し始めた。まぁ、この山の上の団地から約十キロも離れた学校に自転
車通学するのはよっぽど自転車が好きか、バスが嫌いか、の二択だろう。俺は後者だ。
 やがてバスが来るとバスに乗り込む同級の連中から歓声が上がる。
「樹! 今日も勝ちなさいよ」樹には華やかな黄色い歓声が。「橘! 負けんなよテメェ」俺にはドスの効いた
野郎の叫び声が。
 バスが最後の一人を飲み込み、タラップを閉めると、それが俺たちのスタートの合図だった。

 バシューっと音を立ててバスがドアを閉じると同時に俺は立ち漕ぎの姿勢になり、全身の筋肉に指令を出
す。全身の力を振り絞れ! 右足に体重を乗せ、、俺は勢いよくペダルを踏み込む、それと連動して両腕に
力を入れ上体を引き寄せながら全身をバネのように伸縮させる。今日こそ絶対に勝つ。強い意志の元、俺は
さらに強く左足を踏み込んだ。

96 :No.29 今日も今日とて大惨敗 2/3 ◇vJYNv4JR5w:07/09/10 00:04:11 ID:2lBaudG1
 俺と樹が住むマンションは市街地から離れた山の上の団地にあった。緑が広がると言えば聞こえは良い
が、ようは周りに何も無いだけであって、杉の木が多い茂る山々と田んぼの真ん中、それが現実だった。この
団地から高校までは、約十キロ。団地を出て山を下るまでが三キロ、田んぼ道が三キロ、市内を流れる河川
沿いの国道を四キロ、さらにそこから住宅街の中に一キロ進んだ場所に高校がある。

 もちろん入学当初から自転車通学をしていたわけじゃない。入学当初はバスで通学していたが俺は乗り物、
特にバスがダメで、すぐに酔ってしまうのだ。入学当初の数回はバスで通学していたが、五月を過ぎた頃には
雨とか暴風とか機構に問題が無い限りは自転車通学していた。
 樹が自転車通学を始めたのは六月も半ばを越えた頃の事だ。樹とちょっとしたケンカになって「運動部のクセ
にバス通学の軟弱者が!」とか「自転車乗るくらいしか能が無いくせに」と売り言葉に買い言葉の延長で、毎朝
の自転車レースが開催される事になった。樹とは小学三年生の時にアイツが引っ越してきて以来の付き合いだ
が、学校の成績はもちろん、近所の評判、テレビゲームに果ては異性からのモテ具合にいたるまで、何もかも
が負けっぱなしだった。
 唯一、勝てると思っていたこの自転車レース。いくら樹がテニス部の一年生の中では抜群にうまくて将来のエ
ース候補、で俺はと言うと、科学部に名目上所属はしているものの、部活に顔を出したのはほんの数回で、殆ど
宅部と同義と言っても負けるはずが無いと思っていた。しかし、現実とは非常なものだ。今迄、一回として勝った
事が無い。なんだアイツは完璧人間か?
  だが、今日の俺は違った。全身に漲る力。昨日、人気のドラマも見ず、古典の宿題もやらず、早めに就寝した
のが効いたらしい。学校までの行程も半分以上過ぎたというのに樹に五百メートル以上の差をつけリードしていた。
後ろを振り返っても、樹は豆粒ほどの大きさにしか見えない。このままリードを保てば確実に勝つことが出来る。
俺は速まる鼓動を押さえつけ、油断なるものかとさらに全身に力を入れる。全身の細胞、地の一滴に至るまで力を
注ぎ込み、右足に力を込める。
 目の前には田んぼ道の終わりを告げる、約十メートルほどの坂が見える。ここまで全力で走り抜き、限界に近い
心臓ををさらに鞭打ち奮い立たせる。その坂の中程まで差し掛かったときだった。両腕の力を振り絞り、右足に力を
入れた瞬間、ガシャンと短い悲鳴が鳴り、それまで自身の身体の一部のように感じられていた自転車が急に言う事
を効かなくなった。
 あわてて自転車を降り、見ると、チェーンが切れていた。
「……終わった」
 呟くと同時に先刻までは豆粒ほどにしか写っていなかった樹が近づいてくるのが見えた。

97 :No.29 今日も今日とて大惨敗 3/3 ◇vJYNv4JR5w:07/09/10 00:04:26 ID:2lBaudG1
「どうしたの?」
 俺の脇に自転車を止める樹に俺は無言で自転車を指差した。チェーンが切れたのを悟った樹はにんまり笑って制服
のスカートをヒラヒラさせながら「今日も私の勝ちだね」と言った。ハイハイ、今日も私の負けですよ、この完璧女!
「……しょうがないなぁ」
 と呟いて、樹は自分の自転車のサドルをポンポンと叩き「乗れ!」とジェスチャーで言ってきた。俺が居つきの自転車に
乗ると樹は慣れた様子で、自転車の後ろに横座りで乗った。
「レッツゴー!」
「ハイハイ」
 俺は樹を乗せて自転車を漕ぎ出す。俺の自転車は一応、鍵も付けたし帰りにでも拾いに来る事にしよう。俺は立ち漕
ぎの姿勢になって自転車を力の限り漕ぐ。
 後ろで静かになっていた樹が不意に「ねぇ、橘って私の事好きでしょ?」と言ってきた。当たり前だ。だから、この自転車
レースだけは絶対に勝ちたかったんだ。好きな女に負けっぱなしでなるものか。でも、それは黙っている事にしよう、と思っ
たとき樹は続けて言った。
「私は、橘の事好きだよ」
 そう言って、彼女の俺の腰に回した腕に少しだけ、ほんの少しだけ力が入った。自転車は走っていく。どんどんスピードを
増していく。
 きっと俺は彼女に一生敵わないなと思った。
 俺達を乗せた自転車は緩やかな道をゆっくり進む。遠くに見えたはずの入道雲はぐっと近づいて来ていたように見えた。

<終>



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