【 見上げる月、遠い背中 】
◆D7Aqr.apsM
81 :No.24 見上げる月、遠い背中 1/4 ◇D7Aqr.apsM:07/09/09 23:24:50 ID:3+RL0H4f
港からあがってくる夜風が、高台にある公園を吹き抜けていった。
赤い髪が乱れ、頬にかかる。アリシアは乱暴に髪をかき上げて、夜空を見上げた。月が虚空に遠い。
酷い一日だった。やっとはき慣れてきたパンプスで地面に落ちていた缶を蹴り飛ばす。タイトスカートのせいで、思ったように飛ばない。
いまいましい服。襟元に手をやって、ネクタイをゆるめる。職場は規則だけじゃなくて、こんなものでまで縛り付けてくる。組織というもののなかで
働く事の難しさを、アリシアは実感しはじめていた。
こんな時。以前なら駆け込んで泣き言をいえる場所があった。アリシアは今更ながら、それがどれだけ自分を助けてきたのか感じていた。
茶色の瞳。たれ目で、笑うと目が細くなって無くなってしまう。おっとりした雰囲気。けれど、絶対に甘やかさない、心地よい厳しさ。
――イリヤ、あんたどこに行っちゃったのよ。
親友であるイリヤが姿を消してから一年が過ぎようとしていた。アリシアにも、イリヤの彼氏である後輩の男子にも何も告げず、手紙一つ
残さず。王立学園の高等課程を修了する間際の失踪は、当時、事件性も疑われるほどのものだった。
後輩の男子の顔を思い出すと、一瞬、動悸が激しくなった。月を見上げる。真夜中の満月がゆらり、と揺れ、涙が頬をつたう。
――ごめん。イリヤ。本当に。
数時間前。アリシアはその男子と会っていた。イリヤが失踪してから、定期的に会うようになって久しい。初めは、お互いに喪失したものの
大きさからくる心の動揺を抑える為に会っていた二人であったが、ショックから回復するにつれ、イリヤを探し出すために協力して調査をはじめた。
定期的に資料を持ち合い、推測を巡らせる。そうこうするうちに一年が過ぎようとしていた。
打ち合わせに使っていたカフェ。日はすっかり暮れ、夜があたりを覆い始めていた。
別れ際。昔のように、ふざけて額をくっつける。抱きすくめて、耳元に唇を寄せた。少し色っぽい声音で話して焦らせようとした瞬間。
唇が、頬をかすめた。――故意にではなくて、偶然。広くなっている肩幅。いつの間にか追い越されていた背丈。
熱い物に触れてしまったときのように、身体を離した。
やわらかい声が、何か言っていた気がする。でもアリシアはその内容を思い出せなかった。身体を投げ出すようにだらしなく
ベンチに座り込む。ため息を一つ。
「違う。そうじゃない。絶対に違う」
許される話ではない。アリシアは鼓動を早める自分の心臓へ、言い聞かせるように呟き続けた。内戦状態にちかい大陸へ、想い人を
追って旅立とうと決意した人に、何をあたしは欲情なんてしてるんだ。拳をベンチに打ち付ける。ぱらぱらと風化した木片が風に舞った。
がさっ、と背後の茂みが不自然な音を立てた。動物ではない、明らかに人が押し殺そうとしてできなかった音。
一瞬、さっき分かれた後輩の面影が脳裏をよぎって、あわてて打ち消す。そんなわけはない。そんなことを考えちゃいけない。
で、あれば。誰が。
体を走る警戒感は、すぐに別の感情に置き換わった。いいだろう。こんな時に巡り合わせた奴の運がわるい。
82 :No.24 見上げる月、遠い背中 2/4 ◇D7Aqr.apsM:07/09/09 23:25:05 ID:3+RL0H4f
手出しをしてきたら、有無を言わさず手足の一本も折ってやる。そうすれば、少しは気も晴れるかも――。アリシアは体の力を抜いて、
神経をとぎすませた。武道場の演習ではない実戦に、頭の奥の方が熱くなる。
気づかぬそぶりでベンチから立ち上がる。鞄の中から家の鍵を取り出して、右手に握り込んだ。鍵の先端が磨かれたように光る。
気配は、動きを止めていた。左後方。振り向きざま、ベンチの背もたれに足をかけて一気に茂みを飛び越す。一挙動。
ざん、と音を立てて着地すると、人影があった。
「背後から忍び寄るならもっと上手くやりなさい。あいにく気が立ってるの。殴り合いならつきあうわ」
言いかけて詰まる。
人影はべったりと地面に座り込み、アリシアを見上げていた。
ちょっとたれ目の茶色の瞳。肩口で切りそろえられた柔らかそうな――いや、その柔らかさは知ってる――髪。
スカートの裾から膝小僧がむき出しになっていた。擦り傷。ああ、転んで。早く傷を洗って、ハンカチで――違う。そうじゃない。
アリシアは一つ、大きく頭をふって、もう一度目の前の人物を見た。
「アリシアちゃん」ゆっくりと、おずおずと立ち上がった人影が、声を発した時、何かが自分の中で壊れた。
「あの、ご、ごめんなさ」
下げられる頭の前髪をつかんだ。強引に仰向かせる。握り込んでいた鍵を地面にたたきつけて、右手を大きく引いた。
ぱあん! という音が夜の公園に響く。力が逃げない、打ち下ろすような平手。
「あんた、なんで――な――何を、何をして! あんた! イリヤ!」言葉にならない。
「あの、あ、謝りたくて――」
もう一発。だめだ。平手なんて。足りない。右手を大きく引く。手が拳をつくる。
「それで済むと思ってるのかあっ!」
アリシアの右手は、勢いよくイリヤの背中に回された。強く、強く、逃がすまいとするかのように抱きしめる。
ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返す小さな声と、アリシアの嗚咽だけが海風の音にまぎれて消えていった。
昔とは違うシャンプーの匂いに、戻らない何かを感じながらアリシアはイリヤの背中を優しく、そっと叩く。
二人が出会ったのは中等学校だった。
軍属の子女がおおく、また、教師も士官学校や軍出身の人間が多かったことから校風はひたすらに質実剛健、かつ、
厳しく自らを律することを求めるものだった。
ある夏の日。
教師の一人が、校庭での整列を命じた。「別命あるまで、そのまま待機」と言い残し、教師は校庭から去った。
待機といわれたからには、次の命令が下るまで、動くことは出来ない。新入生が体育の授業で必ず経験する、
伝統の整列。この学校では判断力を求められる、という事を示すというのが目的らしい。ある者は倒れ、またある者は
83 :No.24 見上げる月、遠い背中 3/4 ◇D7Aqr.apsM:07/09/09 23:25:20 ID:3+RL0H4f
このまま立つことを危険と判断し、教室へ戻る。炎天下、太陽は汗をかくことすら許さない。
その中で、最後まで立ちつくしたのが、アリシアとイリヤだった。夕日を浴びて悠然と校舎から出てきた教員が「休め」を
命じるのと同時に、二人は倒れた。
なんとなくカンに障る、と思いながらも、一目置くようになったのは、学内の弁論大会の時だった。
イリヤは授業中、教師が一目置く程、勉強がよくできた。予選を経て、イリヤは学年の代表になった。周囲は全く当然のように
イリヤが予選を通るのを受け入れ、喜んだ。
アリシアは予選をみていたが、レベルの違いにあきれ果てた。イリヤに比べれば、他の人間はまるで言葉を並べている
だけのように聞こえたのだ。イリヤの言葉には人に受け入れられる柔軟かさがありながらも、明確な説得力と、意思があった。
しかし。
大会当日。イリヤは熱を出した。熱を押して出場したが、優勝どころか入賞する事はできなかった。クラス中……いや、教師までが
イリヤの不運を慰めた。それでも十分な成果だったと、涙ながらに。イリヤは、気遣ってくれるクラスメイトや教師に、少し申し訳
なさそうな笑顔で答えていた。
その日の放課後。アリシアは、学校の外れに一人立つイリヤを見かけた。
ぼんやりと焼却炉の前にたたずんでいる。イリヤが手に持っているのは小さな段ボール。
泣くつもりだろうか。人気のないところで。アリシアはそんな風に思いながら見ていると、イリヤの手が、焼却炉の扉を開けた。
段ボールの中の物を捨て始める。最終稿、練習用の原稿、メモ書き、資料。全てを。ヤケになっている風でもなく、淡々と
イリヤは捨て続けた。
アリシアは声をかけようとして、止めた。無言でそれを手伝う。全てが終わると、イリヤは「ありがとう」とはっきり言った。
「一つ質問していいかな。どうして、捨てた?」
「ゴミだからよ」
「あんたはつくったものをゴミだっていうの? あれだけの時間をかけたものを?」
「そうね。資料まで集めて、何度も改稿して。でも、熱がでたくらいで勝てないようなものだったのよ。結局」
にこにこと楽しそうに、イリヤは笑う。
「手伝ってくれてありがとう」アリシアの目を真正面から見つめて、イリヤは嬉しそうに言った。
数週間後。学校のグラウンドでアリシアの所属する野球チームが試合をしていた。紅白戦。アリシアはピッチャーだった。
最終回。相手は四番バッター。1点差でアリシアのチームは勝っていた。2アウトで、ランナーが一塁に。アリシアのチームを率いる
監督役の上級生は、アリシアに敬遠を要求した。アリシアは歯がみしながらボール玉を放った。スタンドをみる。クラスの仲間が応援に
きていた。浮き足立つ人混みの中に、イリヤが立っていた。イリヤだけが黙ってアリシアをみていた。目が合う。何かを言われた気がした。
84 :No.24 見上げる月、遠い背中 4/4 ◇D7Aqr.apsM:07/09/09 23:25:34 ID:3+RL0H4f
試合は負けた。アリシアは監督のサインを無視して速球で勝負にでた。ツーストライクまで追い込んだところで、最後にホームランを
打たれた。監督をしていた上級生はアリシアを殴った。アリシアのハイキックは易々と上級生の首を捉えた。
「どうして、作戦を変えたの?」殴られた跡を水道の水で冷やしているアリシアに、イリヤが声をかけた。
「ゴミみたいな一勝なんていらない。そうだろ? キャッチャーも、ほかの連中も納得してくれてたよ」
イリヤは笑ってハンカチを差し出した。
こうして全くタイプの違う二人は、お互いを認めた。アリシアは部活で。イリヤは主に学業と、そして高等学校に進学してからは、
生徒会で頑張った。時には教師を黙らせ、他の生徒を敵に回す事もあったが、それでもイリヤは、学校中から
愛された。お互いに自らがすべき事からは一歩もひかず、妥協しない。少しでも手を抜いている素振りがあれば、痛烈に指摘しあう。
それが二人だった。
藍色だった東の空が、熟れた果実のように赤く染まりはじめた。二人は、ただ黙って海を眺めていた。
「――で? 今日はどうしたの?」
アリシアは不意に話をふった。昔と同じように、ベンチに並んで座る。行儀良く並べられた小さな膝が懐かしい。
「え?」
「あんたが夜中にくるときは、たいていなんかあったときなのよ! 例をあげましょうか? はじめてブラをつけて登校する前の日に、
不安で泣きついてきたりとか。 あの子を好きだって自覚した時もそうだったでしょ?」
イリヤは照れたようにうつむいて、笑った。
どこで、なにをしているのか。どうして失踪したのか。そんなことはもう、アリシアにとってはどうでもよくなっていた。イリヤは闘っている。
そうであるなら、アリシアも闘わざるをえない。同じように、立つ。ファイティングポーズをとって。アリシアの戦場で。
「アリシアちゃんにはかなわないなあ。うん。今日はね、顔を見に来ただけ。――でも、そろそろ、いかなきゃ」
ベンチから立ち上がり、くるり、と振り返るイリヤをアリシアは見上げた。
「イリヤ! あの子に会っていかないの?」
「ごめん……黙っていてくれるかな? たぶん、彼に会うと……行けなくなると思うから」
「わかった。でもな。あんまり放っておくのはやめときなよ? それなりにいい男になってきてるからね?」
「……アリシアちゃんだったら、ちゅーまで許す」
「わかった。こんどは遠慮しないでもらうことに――嘘だよ。……まあ、奴は奴なりに、あんたに近づこうとしてる。待っててあげて」
またね、とだけ言ってイリヤは去っていった。胸の痛みを除けば、今まで会っていたのは幻影のよう。月は白く消えかかっていた。
アリシアはその姿を追わずに、海をみたまま。
少しだけ泣いた。