【 一歩向こうへ 】
◆2LnoVeLzqY




73 :No.22 一歩向こうへ 1/4 ◇2LnoVeLzqY:07/09/09 23:07:28 ID:3+RL0H4f
 九十五点だった。一問落としていた。ちょっと考えればわかるような安易なミスだ。
 けれどゆかりはその結果に、何ら反応を示さない。
 小学五年生のゆかりにとって、九十五というテストの点数は別に珍しいことではない。小学校のテストなんて簡単なのだ。
 けれどゆかりの無反応とそれは、今回何の関係もない。
「よくやったな。すごいぞ」
 教師の褒め言葉も頭に入らない。普段のゆかりならば、この点数なら満足してガッツポーズまで作るはずなのに。
 テストを受け取ったゆかりはまっすぐ自分の席に戻る。窓際の席。視界の右ではテストを受け取った生徒たちが、また一人また一人自分の席に戻っている。
 ゆかりは座ってすぐに、カバンに受け取ったテストを仕舞う。まるでテストなんて無かったことにしたいみたいに。それからため息。
 それから、帰り道のことを考えた。ゆかりの顔はほんの少しだけ赤くなる。
 ――ぜったい、アイツはまた話しかけてくる。テストの点数を訊いてくる。
 ゆかりの言うアイツとは陽介のこと。同じ小学五年生。隣のクラス。
 それでも、家が近いことや親同士の仲が良いこともあって、幼稚園の頃から二人は友だち同士だった。いわゆる幼馴染。それが、彼らの関係だった。
 ところで、陽介には、やたらとゆかりと物事を競う癖があった。
 幼稚園の頃は、お花をいくつ摘んだとかウンテイでどこまで行けるかとか、そんな競争を陽介はゆかりにふっかけた。
 ところが小学校に入って、そういった遊びの機会も以前よりは減った。すると今度は、陽介はテストの点数をゆかりと競い始めたのだ。
 別に勝ち負けが何かを左右するわけでもない。それでもそれが陽介の趣味の一つだったし、ゆかりも楽しんで受けて立っていた。別のクラスになってからは、放課後の帰り道が、ゆかりと陽介のテストの競技場になっていた。
 五時間目が終わって放課後になった。
 ゆかりはカバンを背負うとそそくさと教室を出た。真っ直ぐ階段を降りて靴を急いで履き替えて、正面玄関を勢いよく飛び出す。少し強い秋風が髪を弄んでも、ゆかりは気にせず家へと歩き始めた。
 ゆかりは陽介と会うのを意図的に避けていたのだ。
 ところで陽介はといえば、教室にゆかりがいないのに気づくと、ゆかりよりも早い速度で階段を駆け下りて靴を履き替え、秋風の吹く外に飛び出した。すぐにゆかりは、陽介に追いつかれる。
 住宅街の真ん中で、ゆかりに届く後ろからの声。
「ゆーかーりー!」
 びくっ、とゆかりの小さな肩が跳ねた。
「……なによ」
「なんで逃げるのさ」
「逃げてなんかない!」
「じゃあまさか……点数がひどかったんだな?」
 陽介は能天気に笑いながら言った。ちなみにテストの点数では、陽介がゆかりに敵うはずもなかった。これまで全敗である。
 当のゆかりは陽介の顔を一度も見ずに、まっすぐ前だけを見て歩き続けている。耳が少しだけ赤くなっていることに、左を歩く陽介はちっとも気づいていない。
「なあ、点数」

74 :No.22 一歩向こうへ 2/4 ◇2LnoVeLzqY:07/09/09 23:07:46 ID:3+RL0H4f
「九十五点よ。どうせあんたなんてまた六十点なんでしょ?」
「あっちゃー、また負けたよ。……っていうか、ゆかり、なんか怒ってない?」
「怒ってない!」
 ニブい陽介でもようやく気がついた。あれ、ゆかりの様子、ちょっと変だぞ、と。
 いつものゆかりなら、意気揚々とテストを取り出しては目の前で見せびらかす。いけしゃあしゃあと調子の良いセリフを吐く。それくらいのことは平然とやってのける。
 けれど今日は、ぶっきらぼうに点数を言っただけ。証拠のテストも見せてこない。そりゃあナマケモノ並に鈍い陽介でも気づく。今日のゆかり、何かおかしい。
 けれど様子が変な理由は、ニブい陽介が知る由もない。
 ゆかりは普段より早足で歩く。たんたんたん、と髪が後ろになびくぐらいに早く。
 もちろんその間、ずっとゆかりは無言だ。陽介も話しかけてこない。たぶんきっかけがつかめないんだろうな、とゆかりは推測する。その方がありがたい。そうも思う。
 早く家に着いてほしい。それだけを願って、ゆかりは歩く。
 けれどそういうときに限って、信号がやたら赤になったりするのだった。
 赤。また赤。三度目も、赤。
 四度目の信号待ちのとき、ついに陽介は無言に耐えられなくなった。
 とりあえず、当たり障りのない話でもしよう。それから、様子がおかしい理由を訊いてみよう。ニブいなりに、陽介はそう考えたのだろう。
「……そういえば今日さ」
 びくん。またゆかりの小さな肩が跳ねた。
 ゆかりの心臓が早鐘を打ち始める。
「クラスで訊いたんだけど」
 ――その先はだめ。
 ゆかりは必死に話題を逸らす方法を考える。もう頬まで真っ赤。それを悟られまいと顔を背けても、ニブい陽介は様子の変化に気づかない。
 ゆかりの様子がいつもと違うその理由は、まさに陽介のクラスにある。もっと言うと、陽介そのものに。
 けれど陽介に、それに気づけというのは、ちょっと無理な話なのだった。
 陽介はあっけらかんと続きを言う。
「大林先生が来年の三月でやめちゃうんだって」
 ――よかった、ちがった。
 ゆかりは胸を撫で下ろした。ちょうど信号が青になって二人は歩き始める。
 と同時に、ゆかりの中に少しだけ余裕ができた。陽介はちっとも気づいてないと知ったからだ。もっとも、早く家に着いてと願っての早歩きは変わらない。けれど内心で「バカ陽介」と罵ってみるくらいの余裕はできた。
 あるいは、陽介の言葉に試しに答えてみる余裕も。
「……すごくいい先生だったのにね」
 ところが、このゆかりの返事に陽介は一気に勢いづいた。ちょっとだけいつものゆかりに戻ったみたいだ。そう思った。そう勘違いした。

75 :No.22 一歩向こうへ 3/4 ◇2LnoVeLzqY:07/09/09 23:08:10 ID:3+RL0H4f
「だよなだよな。おれもそう思うよ。おれの担任の兵藤先生が休みのときによく来てくれてさ、話がめちゃくちゃ面白いんだよ」
 陽介の話を聞きながら、あるいは聞き流しながら、ゆかりは自分の気持ちの整理を続けていた。
 もっと言えば、ゆかりなりに、冷静に自分の気持ちを鑑みようとしていた。
 陽介はただの幼馴染だ。友だちだ。
 長い間、あるいは一昨日までゆかりはそう思っていた。今でも半分以上はそう思っている。むしろ九十五パーセントはそう思っている。
 けれどその五パーセントの、ゆかりにとっては未知の思いが、昨日聞いたある噂で生まれてしまった。
 その五パーセントが何なのか、どうして自分の頬が赤いのか。テストみたいにうっかりミスが原因とはいかない。その五パーセントの理由を、ゆかりは真剣に考えようとしている。けれど陽介は、もちろん何も知らない。
「それで昨日さ、岡崎がおれに言ったんだ」
 ゆかりは、ぴた、と立ち止まった。心臓が一度大きくどくんと鳴る。
 ――その名前は。
「『三月になったら先生のお別れ会しよっか』って。もちろん賛成だけどさ……ただやっぱ、まだ気が早いよなあ……って、ゆかり?」
 ゆかりが立ち止まったことに気づかずに数歩先を行っていた陽介は、慌てて後ろへ戻った。
 何でもないふりをして、ゆかりはまた歩き出そうとする。けれどその頬はもう隠しようもないくらい赤くて、「バカ陽介」と毒づいていたさっきの余裕は、もうどこにもない。
 陽介が何気なく口にしたその名前、その名前の女の子こそ、ゆかりが昨日、「陽介のことを好きな子が隣のクラスにいるらしい」と聞いた、まさにその女の子なのだった。
「なあゆかり、大丈夫か? 顔真っ赤だけど熱でもある?」
 ゆかりはぶんぶんと首を振った。一度大きく深呼吸。心臓の高鳴りは少し収まる。ちょっとだけ冷静になれた。ときどき吹く秋風が、火照った頬には気持ちいい。
「……だいじょうぶ。気にしないで」
 今のゆかりには陽介の視線がやけに気になる。けれどそれよりも、陽介がその岡崎って子をどう思ってるのかが気になる。
 気になっていた。
 昨日からずっと。
 何でだろう、と思う。
 陽介はただの友だちで、幼馴染で、それ以上でも以下でもない。その陽介のことを他の女の子がどう思おうと、自分には関係のない、はず、なのに。
 気がつけば、いつも陽介と別れる交差点に来ていた。まっすぐ行けばゆかりの家で左に曲がれば陽介の家。
 いつもならここでさよならだ。けれど、ナマケモノ並にニブいはずの陽介が、今日のこの瞬間に限って思いがけない言葉を発した。
「送ってこうか? なんか具合悪そうだしさ。途中で倒れられたらたまんねーもん」
 ゆかりは頬が赤いのも忘れて、びっくりして陽介を見つめる。
「……そっちこそ熱あるんじゃないの?」
「なんだよそれ」
 陽介がむくれた。しまった、と思う。ゆかりは自分にバカ、と毒づく。
 このままだとたぶん陽介は左に曲がってしまう。ゆかりにはそれが残念に感じる。いや残念さとは違う。なんだか、行ってほしく、ない。

76 :No.22 一歩向こうへ 4/4 ◇2LnoVeLzqY:07/09/09 23:08:27 ID:3+RL0H4f
 けれど言葉じゃ伝えられない。言おうとすると顔が急に真っ赤になって言えなくなる。どうしよう。陽介が行ってしまう。残された方法は。ゆかりは必死に探して、
 秋になってもTシャツ一枚の陽介の裾を、掴んだ。
 それから真っ直ぐ自分の家に向かって歩き出す。掴んだまま。視線を合わせずに。前だけを見て。早足で。髪が後ろになびくくらいに。
「わ、ちょ、ちょっと待った。離せって。コケるから!」
 陽介が叫んだ。ゆかりはパッと裾を離す。何だよもういきなり、と陽介が愚痴るのが聞こえる。
「そっちが送っていこうかって言ったんでしょ?」
「いや、まぁ、そうだけどさ……」
 それでも、何だかんだと言いながら陽介はついて来る。同時に自分の家も近づく。
 さっきまであれほど早く着いてほしいと願っていたのに、今ではもうちょっと待ってほしいとゆかりは願っている。
 ――陽介は、その岡崎って子のことを……。
 いつでも訊ける。そう思う。けれど今しかないとも思う。
 家が近づく。もうすぐ玄関だ。また明日陽介とはきっと会える。それでも。今訊かなくちゃ、いつ、訊くんだろう。
 ゆかりは立ち止まって陽介の方を振り向く。
「ねえ陽介」
「ん?」
 ゆかりは、うつむきながら、それでもはっきりと、訊く。
「……陽介ってさ、あたしのこと、どう思ってるの?」
 きょとん。陽介は文字通りそうなった。それから、しばらく真剣に、考えていた。
「どうって……そうだな」
 心臓が高鳴る。ゆかりは陽介の顔を見ることができない。逃げ出したい。言ってしまったことを今になって後悔する。それでも答えは聞かなくては、と思う。
 そうして陽介は、にこっと笑って能天気に、こう言ったのだった。
「ライバルだな、うん。ライバルだ」
「……へ?」
 ゆかりの口から思わず気の抜けた声が出る。拍子抜け。そんな言葉がぴったりだった。何だよなんか変だった? と陽介が聞く。
 その様子があまりに大真面目で、ゆかりは思わず笑い出してしまった。
「ちくしょー笑うなら理由くらい言えって!」
「やーだねっ!」
 ゆかりはたたっと走って家の門を抜ける。玄関ドアに手をかけて、振り向くと門越しに陽介がこっちを見ている。ライバル。良いかもしれない。今のうちは。そう、今のうちは。
 ゆかりが陽介に向かって手を振ると、向こうもむっつりしながら手を振り返す。それから玄関ドアを開ければ我が家だ。うん、今日はゆっくり考えよう。テストみたいにミスしたくないから。
 どうすればライバル関係を終わらせて、一歩向こうへ行けるかを。



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