【 宿命 】
◆M0e2269Ahs




45 :No.14 宿命 1/4 ◇M0e2269Ahs:07/09/09 20:05:36 ID:UyhYJmUU
 鳥のさえずりと遠くに響く新聞配達用のバイクの音を耳にしながら、
 俺は毎日の日課となっている散歩に繰り出していた。
 時刻は五時を回り、既に太陽が顔を出しているので辺りは明るい。
 が、さすがにこんなに朝早くから外を出歩く者は多くなく、目に入るのは、
俺と同じように朝の散歩を日課としている者や、そのついでに犬の散歩をしている者、
朝早くからご苦労な新聞配達員くらいのものだ。
 九月に入り、朝方はめっきりと冷え込むようになってはいるが、このひんやりとしていて
澄み切っている、いかにも清々しい朝の空気を楽しまないのは勿体ない。
 俺は、散歩をするたびにそう思う。
 かといって、朝方から皆がぞろぞろと外に繰り出してきたら、それはそれで
この清々しい空気が台無しなのだが、誰もがまだ夢の中にいる時間帯に
ひっそりと秘密の世界を楽しんでいるような感覚は、誰かに教えてあげたくなるほどに
気持ちいいものなのだ。
 俺が、朝の散歩を日課にするようになったのは、五年前のことだ。
 その五年前にも、俺は美味しい空気の中に身を置いてはいた。
 しかし、それは今吸っている朝方の空気とは違い、もっと濃くて、土や木々の匂いをふんだんに含んだ空気だった。
 どちらも美味しいには変わりないが、その当時の俺には濃密な山の空気を楽しむ余裕はなかった。
 当時の俺は青春真っ只中と呼べる学生時代を過ごしていた。
 恋愛もそこそこに、俺の知的好奇心をくすぐる講義、気が合う仲間との談笑、消し去ってしまいたい醜態。
 そのどれもが、今でも俺の胸の中で宝石のように輝いている。
 中でも、ひときわ強く輝いているのは、俺が所属していた山岳サークルでの日々だった。
 我が町札幌を代表する、藻岩山や大倉山などには数え切れないほどに通ったし、
夏休み中の合宿には、蝦夷富士と呼ばれる羊蹄山や、二〇〇〇メートル級の山々が連なる大雪山系にも挑んだ。
 特に大雪山系の一角である旭岳に挑んだときの半ばサバイバルと成り果てた珍道中のことは、思い出しただけでも笑えてくる。
もちろん、当時はそれどころではなかったのだが。
 このどれもが、俺の大切な思い出なのは間違いない。
 間違いないのだが、この輝かしい思い出を思い返すたびに胸のどこかがちくりと痛むのも、確かなことだった。

46 :No.14 宿命 2/4 ◇M0e2269Ahs:07/09/09 20:06:08 ID:UyhYJmUU
 登山をする上で一番重要なことは、自分のペースを守ることである。
 ウェアやシューズを揃え、ザックに食料・飲料水を詰め込み、もしもの時に備えて、救護セットやナイフ、シュラフなどを
用意するのは、その前提にある物なのだ。自分のペースを守らずに無理をしてしまっては、どんなシューズも役に立たないし、
食料や飲料水の消費も激しくなる。挙句、怪我をしてしまい、最悪下山することもままならなくなってしまっては、
それはある意味必然だったとも言わざるを得ない。それほど、自分のペースを守るということは、登山をする上で重要なことなのだ。
 俺が所属していた山岳サークルは、全十三名(内、男九名、女四名)の部員がいた。実質的に、登山に参加していたのは、
その半分ほどだったろうか。それでも、やはり個人差があり登山道の入り口では一緒でも、途中からはバラバラになるということが
ほとんどだった。一応、山岳サークルに所属し多少の知識はあるにしても、学生であることには変わらない。
 そのため、自分と同じくらいのペースの部員、最低一人とパートナーを組み、共に行動するという取り決めがあった。
 もともと、体力には自信があった俺は、サークルに入り何度も登山を繰り返し、経験を積むうちにどんどんペースが早い相手と
歩くことになり、ついには一番早い奴と共に歩くことになった。
 それが、俺が一方的なライバル意識を持つことになった始まりだった。
 本来、登山というものは、ただ頂上を目指すことだけが目的ではない。森林浴はもちろんのこと、見渡す限りに木々が入り組んでいる
複雑な地形は見ているだけで楽しく、その中で生活するエゾリスやキタキツネ、クマゲラやカケスといった動物に出会うことも
この上ない楽しみでもある。それらを楽しみつつ談笑しながら、頂上を目指すのが登山の楽しみ方なのだ。
 事実、俺はそうやって登ってきた。だからこそ、苦しいはずの登山も楽しむことができ、飽きることもなく
サークルの一員として活動することができたのだ。
 だが、あいつと共に登るようになってから、俺にはそんな余裕はなくなった。
 三森祐介。俺と同じ学年の男。長身で細身だが、決して痩せているわけではなくマラソンランナーのように引き締まった体をしている。
 人当たりのいい性格は、自然とサークル内にいい雰囲気を作り出していた。俺も、三森の人の良さは知っていた。
 だから、初めて三森と一緒にパートナーを組むことになったときは、素直に嬉しかった。
 それどころか、三森と俺が皆を引っ張っていくのだ、などと勝手に責任を感じ、自負心までも抱いていた。
 三森と初めてパートナーを組んだ日。藻岩山の市民スキー場入り口前で準備運動をし、三森とどんな話しをしようかなどと考えていた。
 市民スキー場入り口は、全長二・五キロメートルの登山道で、いくつかある藻岩山登山コースの中でも二番目に長いコースとなる。
 幾度も蛇行したかと思えば上下の起伏に富み、頂上目前で待っている百三十五段の石段は、何回登ってもきつい。
 しかし、サークル内の一番遅い連中でも一時間半ほどで登れるので、とりあえず三森のペースを見て歩こうと思っていた。
 俺と三森が先陣を切り、登山道に入った。と、次の瞬間には、三森は殆ど走っているような足取りで登山道を駆けて行った。
 俺は思わず、笑いながら叫んだ。「そんなに飛ばすともたねぇぞ」三森には聞こえていなかった。
 三森の姿は、すぐに草木に阻まれ見えなくなった。そんな馬鹿なと思いながらも、俺も早足で登山道を進んだ。
 そして俺は、頂上に着くまでの間、三森の背中を見ることはなかった。

47 :No.14 宿命 3/4 ◇M0e2269Ahs:07/09/09 20:06:43 ID:UyhYJmUU
 藻岩山展望台へ続く階段に座り込んだ俺に三森がジュースを差し出してくれた。声に出すことも憚られて、軽く頭を下げて礼とした。
「相当、疲れたみたいだね」三森は、俺の様子を見て涼しい顔で笑った。
 当然だった。俺は三十五分という自分でも信じられないような早さで登ったのだ。
 頭ごとヒーターの中に突っ込んでいるかのような熱さに見舞われていた。自分のペースなんてものはあったもんじゃなかった。
「おまえ、速すぎだろ」
 ジュースを浴びるように飲み、息つきながらもようやく出た俺の言葉に、三森はやはり涼しい顔をして笑った。
「伊田とは目標が違うからね」言いながら、三森は両足を投げ出すようにして俺の隣に座った。
 目標? その言葉を聞き、俺はすぐに閃いた。
「タイムアタックか」
「似たようなもんだけど、ちょっと違う。この程度で音を上げるようじゃダメなのさ」
「……それ、俺を馬鹿にしてるって捉えていいんだよな」
 そうかもね、と言って三森は立ち上がった。馬鹿、そこは否定するとこだろ! と突っ込もうとした俺より早く、三森が口を開いた。
「トレイルランって知ってるか?」
 トレイルラン――。
 あの時、三森から初めて聞いた言葉。簡単に言えば、山中マラソンみたいなものである。平地とは違う、山特有の起伏に富んだ道を
正確に踏みしめ、できるだけ早く走り抜けるスポーツ。もちろん、そのタイムを目標とするスポーツではあるが、過酷な条件のために
完走を目標とする人も多い。そして三森は前者だった。
 藻岩山というトレイルランをするには短すぎるコースを走ったくらいで疲れていては話にならない。三森はそう言いたかったのだ。
 そんな自分を虐めるようなことをして何が楽しいのか。そう尋ねた俺に、三森は珍しく真剣な顔つきで、でも楽しそうに語った。
 トレイルランは、一見辛そうに見えるスポーツだが、やっている本人からすれば自然と戯れているのと何ら変わりない。
 一歩でも間違えれば転倒を免れないような山道を最善の足場を選び誰よりも速く走り抜ける。特に下りでのスピード感は、
自分が山を行く狼にでもなったかのよう。加えて、ただ走ればいいだけじゃない。ペース配分はもちろんのこと、
激しく消費される体力を補給するために、走りながら水分を摂り、食事も済ます。突然の雨に降られても走り続けなければならない。
 当然のこと、難易度は増す。避けられない転倒も増える。しかし、それがどんなに辛くても、完走しきったときの喜びは、
まるで自然をすべて知り尽くした覇者のように誇らしく何にも変え難い感動なのだ、と。
 熱く語る三森の話を聞いて、俺は興奮していた。
 登山も確実に一歩一歩踏みしめて進めていくには変わりない。自然と目一杯触れ合うことには変わりない。
 だが、そのさらに上を行くトレイルラン。そして、既にその領域にいる三森。
 負けたくないと思った。俺もこいつと同じようにトレイルランで自然を支配してみたい。感動を味わいたい。
 さらには、こいつよりも速く。他の誰よりも速く。自ずと胸が震えた。

48 :No.14 宿命 4/4 ◇M0e2269Ahs:07/09/09 20:07:15 ID:UyhYJmUU
 日本山岳耐久レース。世界的ソロクライマーの長谷川恒夫が奥多摩の山々で昼夜を問わずトレーニングを行ったことに因み開かれた、
奥多摩主要峰全山を跨ぐ七十一・五キロメートルの道程を二十四時間以内に完走する、という過酷なレース。
 三森が目標としていたのは、この日本山岳耐久レース――通称ハセツネカップに出場し、完走することだった。
 そう聞かされた俺は、驚くでも呆れるでもなく、失望していた。
 山岳サークルの中でも三森に次いで速いペースで登れるようになった俺は、少なからず慢心していた。誰だって一番になれるなら
なってみたい。俺は、三森とパートナーを組むことになった時から、あわよくばと思っていたのだ。あわよくば、三森よりも速くと。
 三森が語るトレイルランの魅力に惹きつけられてもいた。だが、そんな淡い気持ちを打ち砕くに充分なほど三森の志は高かった。
 次元が違ったのだ。ペースが速かったとはいえ藻岩山の二・五キロメートル程度で足が震えるほどにへこたれていた。
 月とすっぽん。肩を並べたつもりが、俺は三森の背中すら見ることができなかったのだ。単純に悔しかった。
 そんな俺の心境など知るはずもなく、三森は涼しい顔をして俺を誘った。一緒にトレイルランをしてみないか、と。
 笑いながら断ることしかできなかった。それから俺はサークルに顔を出すのが億劫になっていった。
 三森に着いて行けないことの悔しさ。恥ずかしさ。それを部員たち、三森に悟られたくない。
 登山を楽しむ余裕もなくしていた。いつも頂上で出迎える、三森の涼しい笑顔に、屈辱を感じていた。
 あの時にくだらないプライドを捨てていれば、三森に対して一方的に対抗心を持つことを辞めていれば、と色々思うことはある。
 だが結果として、俺は輝かしい思い出たちに、俺の一方的な三森へのライバル心のせいで、影を落とすことになってしまったのだ。
 散歩を始めたのは、それからだった。就職が決まり、自由な時間は減っていた。使える時間は、有効に使いたい。
 俺は、まだ諦めていない。俺が勝手に感じている屈辱を忘れてはいない。輝かしい思い出を振り返るたびに思い出すことができる。
 すぐにとはいかないが、今の俺には目標がある。そのために夜にはジムやプールに通い、休日にも様々なトレーニングを行っている。
 三森に教えてもらったトレイルランのためでも、ハセツネカップのためでもない。エクステラと呼ばれる複合競技のためだ。
 スイム、バイク、ランの三競技の合計タイムを競うトライアスロンのオフロード版と考えていいだろう。
 スイムは同じだが、バイクはMTBに変わり、コースも山中にある。ランはもちろん、トレイルランだ。
 あのハセツネカップと負けず劣らず過酷なレースなのは間違いない。エクステラの大会に出て、完走する。それが今の俺の目標だ。
 何故、エクステラを始めたか。その理由は簡単だった。あのときの三森と同じように、あいつに教えてやりたいのだ。
 あのとき俺に熱く語った三森のように語り、見せ付けてやりたいのだ。エクステラをこなす、俺の姿を。
 あいつに屈辱を与えようと思っているわけではない。この目標を達成できれば、輝く思い出に落ちる影を払拭できると思っているのだ。
 散歩を終え、自宅に帰る途中だった。Tシャツにスパッツ姿の男が、こちら側に走ってくるのが見えた。
 どこから走ってきたのか見るからに息があがっている。俺の前で立ち止まったそいつは両膝に手を付き深呼吸を繰り返していた。
 俺は思わず拳を握っていた。顔をあげたそいつは、額の汗を拭いながら忘れもしない涼しい笑顔でこう言った。
「よお、伊田。エクステラって知ってるか?」
 負けない。こいつにだけは絶対負けない。絶対に、絶対に――。            おわり



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