【 剣奴重来 】
◆rmqyubQICI




31 :No.10 剣奴重来 1/4 ◇rmqyubQICI:07/09/09 12:06:44 ID:Jt4J1txs
 昔々、二千年ほど前の話。まだ貴族が貴族として、市民が市民としての誇りをもってい
たころの話。
 ギリシアらしく白い石灰岩質の家々が立ち並び、しかしギリシアの一都市国家にしては
広過ぎる領土をもっていたこの都市。その厳しい教育制度が後世まで語り継がれることに
なる、ペロポネソス半島のスパルタ市だ。
 数年前ローマ帝国の傘下に入ったばかりのこの土地に、その少年はいた。歳は、十三、
四といったところだろうか。まとっている短衣はチュニカと呼ばれるもので、ローマ人の
標準的な服装だ。
 人でにぎわうスパルタの大通りを、彼はひたすら駆けていた。肩からさげている板を見
るに、午前の算術の授業を終えたところなのだろう。この板にはロウがはられていて、そ
れを削り取ることで文字や数字を記せるようになっている。駆け足で通りをゆく彼のもの
をよく見れば、ロウが削り取られているだけでなく、その向こうの木製の板にまで傷が入っ
ていた。
 大通りに面して、先週やっと竣工したばかりの、スパルタでは初となるローマ式の浴場
がある。その前を通り過ぎるとき、それまでまっすぐ前を見据えるばかりだった少年の目
が、ふいに脇を向いた。浴場の壁に刻まれた"S.P.Q.R"の文字を見つけ、嬉しそうに唇を
歪ませる。"Senatus PopulusQue Romanus(元老院およびローマ市民)"、つまりその建
築物が祖国ローマによって成ったことを表す四つの子音。祖国の権威がアドリア海を超え
てこのギリシアの地まで及んでいることの証。この異郷の地において、ローマの市民であ
る彼がもっとも誇りにしているものだ。
 少年は足を止めてしばらくそれを見ていたが、やがて満足したのか、ふたたび駆け出し
た。肩にぶらさがっているロウ板と、やけに縦長い革袋の重さなど気にもしていない様子
で、少年の足は前へ前へと、目的地に向かって進んでゆく。
 スパルタの中心である市街地を抜け、周辺の田園地帯を駆けて、ようやく目的の場所が
迫ってきた。最後の一押しとばかりに、少年は出せる限りの力で地面を蹴る。予想以上の
反動で転びそうになりながら、少年は大きく息を吸い込んで、思いきり叫んだ。
「グラディアトール!」
 両手を拡声器のように口の両側にあてて、体を思いきり反らせながら声を張り上げる。

32 :No.10 剣奴重来 2/4 ◇rmqyubQICI:07/09/09 12:07:10 ID:Jt4J1txs
長く尾をひいたその叫びがやっと途切れたかと思った途端、少年の大きく反らされた体は
弾けるようにして前方に折れた。そして両手を膝につき、肩で息をしはじめる。どうやら
結構無理をしていたらしい。それでも、彼の両目は爛々と輝いていて、まるでまだまだ暴
れられると主張しているようだ。
 少年の視線の先には、黒ずんだ、元は真っ白であったらしいテントがある。中からがさ
ごそと音がして、上背のある、なかばぼろ布のような服を着た男が出てきた。男の腰にさ
げられているのは、その身なりにしては随分豪華に装飾された、競技用の剣だ。
 『グラディアトール』、すなわち剣闘士と呼ばれた男は、眠たげに目をこすりながら少
年の方を見遣る。そんな男の視線に気付いているのかいないのか、少年はロウ板をその辺
の岩に立てかけ、革袋をどさりと降ろした。
「今日も来たのか……」
 袋の中身を取り出す少年を眺めながら、男は溜め息をついた。作業に専念している少年
は、男の方を振り返りもせずぶっきらぼうに答えを返す。
「そりゃあ来るだろ。練習は毎日やるもんだ」
 なるほど、子供のわりにはそれらしいことを言うものだ。意外なことで男が感心してい
るうちに、少年は袋の中身をほとんど取り出し終えていた。
 出てきたのは、二振りの模擬剣。元々は実戦用の剣だったのが、刃を削られ、ただの剣
状の棒となったものだ。そのうち一振りは完全に袋から出されて少年の傍らにあるが、も
う一方はまだ半分袋の中だった。
「そらっ!」
 少年が叫ぶ。両手で一気に模擬剣を引き抜いて、男の方に投げ上げた。
「うおっ!?」
 間の抜けた声を出しながら、男はどうにかそれを受け止める。一息ついた男が少年の方
を見ると、少年はすでに模擬剣を構えていた。
「大貴族クラウディウス一門、ネロ家が嗣子ガイウス! いくぞっ!」
 さきほどの疲れはどこへいったのか、少年、クラウディウス・ネロ家のガイウスは、自
慢の脚力でまだ剣を構えてもいない男に向かってゆく。男は面倒臭そうに溜め息をつきな
がら、空いている方の手で腰の剣を外してテントに投げ込んだ。

33 :No.10 剣奴重来 3/4 ◇rmqyubQICI:07/09/09 12:07:36 ID:Jt4J1txs

「うはー……」
 少年が名告を上げて威勢よく男に打ちかかってから、一時間ほど経っただろうか。何十
回と剣を打ち合わせる音が響いたこの場所に、少年の奇妙なうめき声がむなしく響いてい
た。
「ほら、水だ。飲んどけ」
 テントから戻ってきた男が少年に水筒を投げる。水で満たされた皮袋が少年の腹の上に
落ちて、とぷんと音を立てた。
「なぁ、お前」
 栓を開けて夢中で水筒にかぶりつく少年に、男が尋ねる。
「なんだ」
 一気に水筒の中身を空にして、少年は答えた。
「今更だが、なんでわざわざ俺のとこまで練習しに来るんだ?」
「なんでって、あんたが強いからに決まってるだろ」
 少年は怪訝な顔で返す。何を分かりきったことを、そう言いたげな表情だ。
「いや、そうじゃなくてな」
 男はさらに問う。
「お前はローマの貴族だろう。そんな躍起になって剣をやる必要あるのか?」
「……いや、言ってる意味が分からない」
 ますます訝しむような表情になって、少年は答えた。
「必要も何も、国を守る貴族が弱くてどうするんだ。スパルタの貴族だってそうだろ?」
 男はそれを聞いて、一瞬言葉を失った。本気で不思議そうな少年の表情が、ますます男
の困惑を煽る。男はどうにか言葉を絞り出した。
「ローマの貴族はみんなそうなのか?」
「当たり前だろ、国と民を守るために命をかける覚悟があってこその貴族なんだから。戦
いが起これば真っ先に駆けつけて、誰よりも前線に立って指揮を執るのが貴族の仕事だっ
て、俺も俺の父親もそう教わってきたんだ」
 あっさりそう言い切った少年に、男はもう苦笑いするしかなかった。男は生粋のギリシ
ア人であるから、少年の語るローマの貴族に、その姿を重ねでもしただろうか。兵力にお
いて勝るペルシアの軍隊に向かって敢然と突撃していった、三百年前の、祖国防衛の気概

34 :No.10 剣奴重来 4/4 ◇rmqyubQICI:07/09/09 12:08:02 ID:Jt4J1txs
に満ちた彼の先祖たちの姿を。
「なるほど、勝てないわけだ」
 ローマに敗れた祖国の貴族の脆弱さを思いながら、男は呟く。
「すごいな、お前の国は」
「当然だろ? もちろん、一番すごいのは俺のクラウディウス・ネロ家だけどな」
 誇らしげに語る少年を見て、男は微笑んだ。
「ガイウス・クラウディウス・ネロ、か……。俺もそんな立派な名前が欲しいもんだ」
 男の独り言ちるような言葉を聞いて、少年はまた不思議そうに首を傾げる。
「なんだ、名前が欲しいのか? じゃあ俺がつけてやる」
 にべもなくそう言い放った少年に、男の表情が歪んだ。
「は? いや、ちょっと待てお前……」
「なんだよ、立派な名前が欲しいんだろ? クラウディウスの人間につけてもらったなん
ていったら、相当箔がつくぜ。ギリシア生まれだからアドリア海からとって……ローマ風
に『ハドリアヌス』、『マルクス・ハドリアヌス』でどうだ!」
 少年は満面の笑みで、まるで快哉を叫ぶように言う。男は呆れているらしかったが、そ
の笑顔を見て、観念したようにうなずいた。
「よし、決定だな。そろそろ昼飯だから、いったん帰ってまたくるよ」
 そう言いながら帰り支度を始める少年に、男は不満げな声をぶつけた。
「おいおい! 剣の先生に対してそんな態度でいいのか?」
「先生だって? 冗談じゃない!」
 革袋に戻した模擬剣とロウ板を肩にかけて、少年が大声で言う。
「練習相手なんだから、ライバルだ!」
 手を振り駆け去ってゆく少年を、男は半ば唖然とした表情で見送った。溜め息をひとつ


ついて、男、ハドリアヌスは苦笑いを浮かべる。しかしその表情は、決してまんざらでは
ないように見えた。
 ちなみにこの何世紀か後、帝政となったローマにギリシア出身の一族から皇帝が出る。
彼は姓をハドリアヌスといったが、はてさて……。






BACK−考える葦◆ZRkX.i5zow  |  INDEXへ  |  NEXT−天災魔法少女と俺◆InwGZIAUcs