【 大切なもの 】
◆dx10HbTEQg




73 :No.18 大切なもの1/5 ◇dx10HbTEQg :07/09/03 01:10:44 ID:LzGzdCYB
 爽やかな青空の下に広がる緑の中で二人の子供が戯れている。農牧の民の一員としての義務を
果たすには幼すぎ、だが日々を遊ぶことにのみ費やすには成長しすぎているという微妙な年齢だ。
「アラン」少女が快活な笑みを浮かべ、「クラーラ」と少年が叫んで駆ける。
 アランには勉強という名の大仕事があったし、クラーラにも義母に言い渡された役割があった。更に
言うならば彼は地主の息子であり彼女は下働きであったが、そのようなものなど二人の間には何の
関係もなかった。少年と少女という事実だけが横たわり、彼らの眼差しを一つにする。
 横に勢いよく座った彼の頭に、クラーラは不意打ちで白詰草の花冠を載せた。目をぱちくりとさせる
アランに、彼女は笑う。
「ふふ、似合うわ」
「……僕、男なんだけど」
 尚も楽しげに笑い続ける彼女に、不貞腐れたように彼は呟いた。花冠なんて男のするもんじゃない。
こういった戯れを彼女は好んでしたが、いつもアランはなんとなく負けた気分になっていた。
 仕返しとばかりに頭上の花冠を掴み、クラーラの小さな頭に押し込む。
「ほら、君のほうが似合うじゃないか」
 可愛いよと笑う少年の言葉に、少女は顔を紅に染めた。アランが深く物事を考える人間でないことは
知っていたが、いつもクラーラはそんな何気ない言葉に打ち負かされていた。
 悔しくなって、アランの頬を唇で掠め取る。突然のキスに自分と同じくらい顔を赤くした少年に満足し
て、少女は立ち上がってスカートを風にはためかせた。
「ふふ、大好きよ、アラン」
「……世界一?」
 唇を尖らせて問うアランにクラーラは可愛らしく首を傾げ、すぐに結論を出した。
「二番目よ」
 アランは一番目が何を示すのかを知っていた。クラーラが、命よりも大事にしているのではないかと
さえ思われる、一つの箱。散りばめられた装飾は太陽に反射して繊細な光を放ち、派手でこそないが
美しい様相をしているのは彼も認めるところだった。しかし彼女の手のひらにすっぽりと納まるほどの
大きさ程度の物が、自分よりも少女の気を惹いていることにアランは嫉妬していた。
「その箱、貸してよ」少年が手を伸ばし、「駄目よ」少女が遮る。
 それは今は亡き両親の形見であり、泥だらけの彼の手に任せるわけには絶対にいかないものだっ
た。アレンがそのことに不満を覚えているのは知っていたが、こればかりは譲れない。
 幸せな空気に小さな亀裂が走る音がした。それに彼らが耳を傾け向き合おうとする前に、遠くから呼


74 :No.18 大切なもの2/5 ◇dx10HbTEQg :07/09/03 01:11:08 ID:LzGzdCYB
ぶ声に打ち消された。その中に怒りの混じった気配がして、思わず顔を見合わせる。きっとお小言と
仕事が待っているに違いない。
 うんざりとため息をつきながら声の主をこれ以上怒らせないために駆け出す彼らに、雲の影が落ちた。


 わけの分からない文字の羅列を眺めながら、アランは時計を横目で盗み見た。あと一時間は横で
小うるさく指示を出し続ける家庭教師は帰らない。動かすことを許されないお尻のせめてもの代わりに、
足をぶらぶらとさせているとピシリと打たれた。家庭教師は彼の勉学はおろか態度にまで口を出す
権利があるらしい。落ち着きなんて糞食らえだ。
「良いですか、お坊ちゃん。あなたはカルダーノ農園を継がなければならないのです。このようなこと
では困りますよ」
「……はい、先生」
 返事だけは従順に。けれど、内心は不平で一杯だった。
 文字なんて読めなくたってみんなちゃんと生きている。農牧に必ずしも必要な知識だとはどうしても
思えなかった。きっと、何かもっと大切なものがあるはずなのに、こんなつまらないことで時間を取られている。
(クラーラは何してるかなあ)
 文字なんて一つも読めないけれど、アランと同じように呼吸をしている彼女。こんなことよりも、彼女
と過ごすほうがよっぽど有意義に違いない。さっきほどの楽しい時間の邪魔をされて彼は不機嫌だっ
た。そして直前の会話を思い出して更に気分は降下した。
(あんな、箱)
 クラーラはアランの一番の親密な友人であったから、彼女にも当然のようにそれを求めていた。なの
にクラーラはちっぽけな箱にご執心なのだ。彼は箱に触ったこともないのは勿論、中を見せて貰ったこ
とさえもない。アランの好奇心は募るばかりだった。何が入っているのかを聞いても彼女は「何もない
わ」とあしらうばかり。宝石だろうか? お金だろうか? きっとクラーラは身分が低い少女だから、高
価なものを人に少しの間でも渡すのが怖いのだろう。そう決め付けて、アランは機嫌は更に沈んだ。
彼女は彼を信用してはくれていないのか。
(あんな、箱が)
 きっとあれさえなければ、クラーラは自分だけを見てくれるのだ。その思いつきにアランは笑った。
あんなものがあるから、アランとクラーラに壁ができるのだ。ならば。
「アラン坊ちゃん」

75 :No.18 大切なもの3/5 ◇dx10HbTEQg :07/09/03 01:11:27 ID:LzGzdCYB
「え、あ、はい?」
「集中しなさい」
「……はい」
「まだ分からないのかもしれませんが、勉強はいつか役に立ちます。つまらなくとも、大事なことなの
ですよ? 物事の外側だけを見て判断するのはおやめなさい」
 返事だけは従順に。けれど、内心はある計画で一杯だった。

 今日の天候はあまり良くはないらしい。雲が遮る太陽は遠く、僅かに湿った草が服を濡らす。座り
込んでおしゃべりをする気分にはなれないと、彼らは川へと向かった。小魚が泳ぎカニが歩く様子は見
ているだけで飽きないのだ。そして、それこそがアランの望んでいたものだった。上流のほうは多分す
でに雨が降っているのだろう。川の流れは泳ぎの得意な大人でも立ち入ることを戸惑わせる速さだった。
「クラーラ」少年がぎこちない笑みを浮かべ、「アラン?」クラーラがゆっくりと歩み寄る。
 彼女のポケットが四角く膨らんでいるのを見て、彼は視線をクラーラに戻した。身分や文字の読
み書きなどの差異の他にも、泳ぎができるか否かという差異も彼らにはあった。勿論前者がアランだ。
「ねえ、あの箱の中、見せてよ」
「中にはなんの模様もないわ。前見せてあげたじゃない」
「その時にはなんにも入ってなかったじゃないか。隠したんだろ?」
「隠してなんかないわ。なんで信じてくれないの、アラン」
 やっぱり駄目だ。予想通りの展開に、アランはあからさまにため息をついた。下を見たとき、ぽつん
と、土の色が変わった。雨だ。急がなければならない。
「これが最後つうちょうだよ。ねえ、箱、見せて?」
 通牒の使い方はこれであっていただろうか。難しい言葉を使うことで無学の彼女とは違うのだと無
意識のうちに主張しながら、アランは手を伸ばした。クラーラは“つうちょう”という言葉に戸惑いなが
らも、後ろ手に箱を隠す。ぽつぽつと雨の滴ってきた天気のように、この二人の間を漂う空気に不
安を覚えたのだ。
「嫌よ。だって、アランの手、汚いじゃない」
 
彼の視界が真っ赤に染まった。 確かに土くれで汚れてはいたけど、そんな大したことじゃない。アラ
ンとクラーラの信頼関係の下、 中身を見るだけのことに手の汚れが関係するとは到底思えなかった。

76 :No.18 大切なもの4/5 ◇dx10HbTEQg :07/09/03 01:11:47 ID:LzGzdCYB
 抵抗するクラーラの肩を強く掴み、無理やり手を前に向けさせる。最初は拮抗していたが、女と
男の力の差は意志如きで埋められるものではない。男の力に屈した彼女の手から、箱が落ちた。
無情な音を立てて水しぶきがあがり、川へと流れていく。
「あ!」
 小さな悲鳴に満足感を覚え、アランは笑った。本当は自分で投げ捨てるはずだったけれど、結果
オーライだ。
「クラーラの意志もそんちょう、したんだよ?」
 尊重の意味はあっていただろうか。頭の中の辞書をひっくり返しながら、アランは手を腰に当てた。
難しい言葉を使うことは彼の優越感や自尊心の表れであったが、彼自身はそんなことに気づきもし
ていなかった。
「中を見られたくないんでしょ? 僕はあれが気に食わなかった。だから、捨てるのがふさわしいんだ」
 得意げに彼は演説したが、クラーラはそんなこと聞いてもいなかった。絶望した眼差しが、決意へ
と変わり、川へと身を乗り出そうとする。慌てたのはアランのほうだ。泳げない彼女が今の川へなど入
ったら死んでしまう。
 そんなに箱が大事だったの? 失っても尚自分を見てくれない彼女に怒りさえ覚えながら、必死
に彼女を押さえつける。
「アランの馬鹿!」クラーラは涙声で言った。「中なんて本当に入ってなかったのよ」
 証拠に、箱は浮いている。流されている。中身があったら沈んでいるはずなのに。
 そのか細い声に、アランは愕然とした。
 蓋を開いてくれなかったのは、そんな必要はなかったから? 浮き沈みして遠くへ流れる箱は、
その全てをいつもアランの前に曝け出していた。彼女の大切なものはいつも目の前にあって、でも
彼はその大切なことに気づいていなかったのだ。
「馬鹿!」
 もう一度クラーラの悲鳴が耳朶を打ち、アランは突如我に返った。彼女の大切なものを取り戻さ
なければならない。
 大きな音を立てて、彼は川へと飛び込んだ。箱、箱を。目で追おうとしたが土の混じった水にそれも
叶わない。
 ――僕は泳ぎが得意なはずだ!
 罪悪感と使命感で流れの強さに抗いながら、彼は箱を必死で追いかける。もはやそれは泳ぎで
はなく、ただ川に身を任せるだけの動きでしかなかったが彼自身は追い求めているつもりだった。


77 :No.18 大切なもの4/5 ◇dx10HbTEQg :07/09/03 01:12:32 ID:LzGzdCYB
 小さいけれどはっきりと、自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。それも水にかき消され――頭に
加えられた衝撃で、あっけなくアレンの意識は沈んだ。


「馬鹿!」今度は大きく、やはりはっきりとした自分の名前を呼ぶ声にアレンは目を覚ました。「この
馬鹿アレン!」
 目を瞬かせると、そこには大きくクラーラの顔があった。止め処なく流される涙が痛々しい。なん
で泣いているんだろう。ぼんやりと思考して、思い至ったことに彼は胸を突き刺されるような痛みを覚
え、小さく呻いた。アレンの所為だった。アレンが、箱を捨ててしまったから。
 勢いよく身を起こそうとして、くらりとしてまた布団に逆戻りした。暖かいけれど、心は寒い。一体
自分は何をしてしまったのだったか!
「ごめん、箱……。本当に。僕、馬鹿で……! ごめんクラーラ、僕が!」
「違うわよ!」
「え?」
「箱なんかより、アレンの命の方が大切よ! みんなが助けてくれなかったら死んでたのよ?」
 クラーラの後ろにある両親の姿。それだけではなく農園中の人間が心配げに見守っていた。何がどうなった
のか詳しいことはわからないけれど、クラーラが大人たちを呼び、流されたアレンを助けてくれたらしかった。
 あの川には岩が沢山あったから、巻かれた包帯はきっとそれにぶつかったからだろう。
「でも……」
 箱は取り返せなかった。沈うつな様子で下を向くアレンの頬を、クラーラの唇が掠め取った。
 驚きに目をぱちくりとさせるアレンに、彼女は笑った。
「いいわ、許してあげる」箱よりも大事なものがあると、彼女は囁いた。「あれに中身はなかったのだもの」


 河口に一つの箱が浮きつ沈みつ流れ着いた。綺麗な装飾は剥げ落ち、色は褪せている。波に流
され、海とも川ともつかぬ岸に箱は漂着した。
 太陽の光を浴び小さく輝くそれを、目ざとく見つけた子供が一人。宝箱にするのだと報告された母親が、
日差しを手で遮りながら微笑んでいた。

それきってどっとはれぁー



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