【 オアシス 】
◆QIrxf/4SJM




68 :No.17 オアシス (1/5) ◇QIrxf/4SJM:07/09/03 01:07:52 ID:LzGzdCYB
 
 アンまたはコーデリアと、その生みの親であるモンゴメリに感謝を。

 想像することは、すべてにおいて優先される。仕事をしているときも、食事をしているときも、想像が浮かんだなら手を止めなくてはならない。
 気負っているわけではないけれど、二十余年の生活の中で、ぼくの生き方とはそういうものなのだと気が付いた。
 新宿は嫌いだ。ちっとも想像の余地が無い。
 ぼくは物心付いたころから一緒にいる女の子と、七歳の時には将来を誓い合った。あの頃、ぼくがどのような想像をめぐらしていたかなんて覚えていないけれど、その中には常に彼女がいたことだろう。
「好きな花を育てて、れもんの木の下で本を読もう」
「きっと、風の歌が聴こえるわ」
 大きな波の打ち寄せる崖っぷち、その真上には赤い屋根の白い小屋があるものだ。安楽椅子に腰掛けてパイプをふかしている老人はぼくで、今、籠一杯のりんごを抱えて帰ってきたのが彼女だ。
「すっかり、おばあちゃんになっちゃったわね」と彼女は言う。
 あるいは、兎の飛び越えた切り株に腰掛けて、ぼくは溜め息をつく。小さな竜が降りてきて、ぼくの前に首を垂れた。
「竜の上に乗っているのは私」
「ぼくは、きみを待っていたんだ」
 竜が故郷へ帰っていく。手を繋いで曲がりくねった小道を進む。
「とても静かね。心地よくて眠たくなるわ」
 二人肩を寄せ合って、公園のベンチに座っている。
 あの素敵な世界には、ぼくたち二人だけしかいなかった。

 母の形見の古びたレコードから、PP&Mのパフが流れてくる。
「ねえ、ミク。こっちを向いて」
「なあに? シュウちゃん」
 ミクはその黒目がちな双眸をぼくの方へ向けた。相変わらず化粧気が無い。けれど、色白できめこまかな肌や、薄紅色の控えめな唇を見ればわかるように、彼女には生まれる前から天使の白粉と、妖精の紅が施されている。
「ばか」とぼくは言った。
 ミクはきょとんとしてから首をかしげた。眉毛の上で切り揃えられた前髪が、斜めに流れる。
 ぼくは出来うる限りの憎たらしい表情を作った。
「ばぁか」
 この言葉は、さぞミクの心を怒りに満たすことだろう。さあ、そのつきたての餅のような頬をぷっくりと膨らませて怒っておくれ。

69 :No.17 オアシス (/5) ◇QIrxf/4SJM:07/09/03 01:08:12 ID:LzGzdCYB
「もう、シュウちゃんったら。その手には乗らないわ」とミクは言って口元を隠し、くすくすと笑い始めた。「そんなことを言ったらだめでしょう?」
 ミクの華奢な手がぼくの頭を撫でた。薬指には、ささやかな白金のリングがある。
「だってぼくたち、一度も夫婦喧嘩をしたことが無いじゃないか」ぼくは口をすぼめた。
「だって、あなたには悪意ってものが無いんですもの」
「でも――」喧嘩するほど仲がいいという法則に従えば、ぼくたちはひどく仲が悪いことになってしまう。こんなにも愛しているのに。
「まあ! 私も愛しているわ、シュウちゃん」ミクはぼくに抱きついてきた。「晩ご飯は何がいいかしら? 今日はいつも以上にがんばって作っちゃう」
 ミクの料理に外れは無い。愛情という調味料は、すじだらけの兎肉ですら霜降る肉へと変えてしまうからだ。彼女がひとたび包丁を手にすれば、しなびた野菜ですらみずみずしい輝きを取り戻すだろう。
 ぼくはそのあまりの美味しさに、いつの日か両の頬を失うことになるに違いない。
「もう、褒め上手ね!」とミクは言った。
 彼女はまるで自動改札機のようだ。要するに、彼女の口に指を突っ込むと、甘噛みしてくれるってこと。
「もう、自動改札だなんて嬉しくもなんともないわ」とミクは言った。「けど、シュウちゃんらしくていい」
「ばか」ぼくはもう一度言った。
「ばか」ミクが言い返してくる。
 ぼくはミクの額を指で突いた。
 ミクは一瞬微笑んでから、ふくれっ面をしてぼくの額を小突く。
 実は、ちょっと痛かった。
「ああ、ごめんなさい。そんなに強く叩いたつもりじゃなくって――」
 ミクは心底困ったような顔をした。その長い睫毛の奥、大きな黒曜石のような瞳が、しっとりと潤んでいる。とてもいじらしいのだけれど、
「ばかだなあ」覚えず、ぼくは吹き出してしまった。「大げさだよ」
「あら?」ミクは一瞬動きを止めた。「もう、いやね!」
 それからしばらく、ぼくたちはくすくすと笑いあった。
「時々こういうことがあるから、私、あなたのことが好き」
 ミクの頬は上気していた。間近にいる彼女は、ぼくのものだ。
「カレーが食べたいな」
「チョコレートかはちみつはあったかしら?」
「ぼくが買ってくるよ」
 外は、人の雑音で溢れている。
 ミクにとっては、とてもつらいことだ。


70 :No.17 オアシス (3/5) ◇QIrxf/4SJM:07/09/03 01:08:59 ID:LzGzdCYB
 
 ぼくにはさっぱりわからないけれど、この世は悪意で満ち溢れているらしい。
 雨の日にしか、ミクは出歩くことができなかった。豪雨であればあるほど望ましく、流した涙は雨垂れの中に消え、雑音は単調な雨音に掻き消される。
 雹でも降れば、新宿の雑踏にも踏み込めるかもしれない。
 ぼくは自転車を止めて、スーパーの自動ドアをくぐった。
 メモに目を通し、必要なものを買い物カゴのなかに詰めていく。
 ふと、足を止めた。
 目の前には山積みにされた林檎がある。ぼくはひとつを取り上げて、袖で拭いて齧り付く様子を想像した。
 もぎたての林檎は、さぞみずみずしいことだろう。中には蜜がたっぷりと詰まっていて、食べていくほど甘みを増していく。けれど、半分食べたところで、その食べかけのりんごをミクに渡す。共有する喜びを、ぼくは知っているのだ。
 我に返り、レジに並んだ。

 家に戻ると、エプロン姿のミクが出迎えてくれた。
「おかえりなさい。遅かったわね」とミクは言った。「想像ばっかりしてたらだめよ?」
「してないよ」
「お見通しよ」
 ぼくはちょっと笑って、買い物袋を手渡した。ルーは甘口だ。
「ありがとう。雨が降っていたら、私も行けたんだけど」
「構わないさ」
 ミクは申し訳なさそうな顔をしている。
 困った顔もすごく可愛らしいのだけれど、やっぱり笑っていてほしいと思う。小さな微笑も大きな笑顔も、どんな泣き顔よりもずっと素敵だ。
「何を聴いてたの?」
「シーズ・エレクトリックよ。ずっとループしてたの」
「刺激的な女の子になりたいんでしょ?」
 服の下を想像すれば、ミクは既に十分刺激的であるということがわかる。ちなみに、ぼくは彼女のヘソの斜め上にあるホクロが好き。
「もう、変なこと考えないでよ!」ミクは顔を真っ赤にして、ぼくに背を向けた。
 ぼくは頬を緩めたまま、寝室に入って部屋着に着替えた。使い古した黒いジャージだ。
 リビングでテレビをみていると、キッチンからまな板を叩く音が聞こえてくる。
 テレビを切って、その単調な音に耳を澄ませた。目を瞑っていると、バックビートでスネアドラムを打ち鳴らすミクの姿が浮かんできた。
 もちろん、ぼくはギターを掻き鳴らしながら、くだらない歌詞をマイクに向かって吐き出している。二人という最小単位のバンドは、ホワイト・ストライプスがそうだったように、きっと人の雑音なんて吹き飛ばしてしまうだろう。


71 :No.17 オアシス (4/5) ◇QIrxf/4SJM:07/09/03 01:09:22 ID:LzGzdCYB
 バンドには絆とかそういう意味もあるらしい。
「ねえ、運ぶの手伝ってよ」ミクの声がする。
 ぼくは立ち上がった。カレーのいい匂いがする。
「オレンジジュースでもいい?」
「私は水がいいけれど」
「うん」
 六千円のちゃぶ台の上に、カレー皿と飲み物が一杯ずつ並べられた。
「シンバルの音を鳴らすことが出来たら、外を出歩くことも出来るのに」
「ちょっと、雨の音に似ているよね」
「晴れの遊園地で、デートができるわ」
「晴れの日に出歩いてみたい?」
 ミクの願いのためなら、ぼくは何だってできる。
 ぼくの仕事は、ペンを動かせる場所ならどこだってできるものだし、少しだけなら貯金もある。
「小さかった頃のように、太陽の下で花を摘んでみたい。花のかんむりを作って、シュウちゃんに被せてあげたいわ」
 ぼくは黙って頷いた。
 ぼく以外の人間が、みんな死んでしまえばいい。そうすれば、ぼくたちは堂々と外を歩くことが出来る。
「もう、だめでしょう?」ミクはぼくの額を小突いた。「こうしているだけで、私は十分幸せだわ」
「でも、もっと幸せになる方法だって、きっとあるんじゃないかな」
「世界中の人が、幸せなことばかりを考えるようになれば、それはとっても幸せなことよ。私にとってもね」
 けれど、それはありえないことだ。
「そうすれば、新宿を歩くこともできる?」
「きっと大丈夫」
 カレーはとても甘くて美味しかった。舌鼓を打ちながら、スプーンを動かす。
「音楽をかける?」とぼくは言った。
「いいの。あなたの声がよく聞こえる」
「そっか」
 すっかり平らげてしまったぼくは、オレンジジュースを飲み干した。
「ごちそうさま」
「おそまつさまでした」


72 :No.17 オアシス (5/5) ◇QIrxf/4SJM:07/09/03 01:09:55 ID:LzGzdCYB
 
 食後の団欒は、いつものことだけれど、とてもゆったりとしている。
「恋人の小径を歩いて、輝く湖水で足を洗うの」
「とっても素敵だ」
 誇大妄想によって生まれた幽霊たちは、お化けの森に住んでいる。
「自分のつけたイメージに怯えるなんて、とても可愛らしいと思わない?」
 ぼくは頷いた。「一番好きなシーンかもしれないな」
「私にも、もっと想像力があったらよかったのに」
 それは、耳を塞ぐ代わりに、爆音で音楽を流すのと同じだ。
「耳を塞ぐ代わりに、静かなところへ行くっていう手もあるわ」
「なら、そうしよう」とぼくは言った。


 ぼくたちは、丘の上にちっぽけな家を建てた。壁は真っ白で、緑色の切妻屋根だ。
「グリン・ゲイブルスで、あなたは想像をめぐらすのね」
「ぼくの想像も、きみのものだよ」
「あなたの想像って、とても可愛らしいから好きよ」
「照れるなあ」
 丘の上には雑音一つ無い。家の近くに大きな木が一本あり、あたりには豊かな芝生が広がっている。町へと続く砂利道の途中には、大きな岩があった。
 眺めはとてもいい。
 もう、お金はあまり無いけれど、二人で暮らしていくには十分だ。静かで、邪魔するものは何も無い。
 足りないものは、想像することで補うことが出来る。ミクのキャミソールも、豪奢なガウンであると想像することができる。
「赤毛の女の子を引き取りましょうよ」
「作ればいいさ。夫婦なんだから」
「きっと黒髪よ?」
「想像すればいいんだ。そばかすもね」
「その手があったわね」ミクはくすくすと笑った。
 人の心を読んでしまう力も、愛に満ち溢れた箱の中では意味を成さない。



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