【 鋼鉄の馬 】
◆rmqyubQICI




83 :No.12 鋼鉄の馬(1/5) ◇rmqyubQICI:07/09/03 17:30:15 ID:LuaYn9UE
 たとえばこの鉄の箱を無機質と呼ぶならば、それは見当違いだと言わざるをえない。前
世紀に生まれ戦車と名付けられたこれらの鉄塊は、かつて戦場を縦横に駆け回った騎馬た
ちの子であるのだから。
 現代ではどうか知らないが、少なくとも一昔前まで、戦争の勝敗は単に兵力の大小で決
まるものではなかった。かの名将ハンニバルが、少数の傭兵を駆使してローマの屈強な兵
士らを破ったように、あるいはユリウス=カエサルが三十万の敵に囲まれながらもたった
五万の兵力でそれを破ったように、戦場においては指揮官の戦術こそがものを言うのだ。
 戦車をただの無機質な鉄の箱などと思い込んでいる人は、恐らく鮮やかな戦術というも
のを知らないのだろう。優秀な指揮官の下において、軍隊というものはまるで一つの生物
のように動く。秀逸な戦術の下、一体の巨大な化け物となって敵軍を蹂躙するのだ。
 何万もの兵士が、指揮官の指示の下一糸乱れず動き、一つの巨大な有機体を完成させる。
なんと壮大な計略だろうか。かつてアレクサンドロスが語ったように、戦場とは激動であ
り、その激動こそが戦闘の本質なのだ。ならば、兵器たる戦車の本質もまた、激動である
に違いない。無機質な鉄の箱などいうのは、なんと謂れのない批判であることか。
 戦車とは、騎馬の末裔なのだ。騎士たちを乗せて戦場を駆ける鋼鉄の馬なのだ。第二次
世界大戦時、国家のために命をかけ戦った誇り高いドイツの騎士たちは、騎馬でなく戦車
に跨がっていたのだから。

 そういったことを、私はこれまで多くの人に語ってきた。しかし、まぁやる前からおお
よそ予想できてはいたのだが、納得してくれる人間はほとんどいなかった。
 まずもって、私を真面目に聞いてくれる人自体少ない。ごく少数、私の話を真面目に聞
いてくれる人間もいたにはいたのだが、そういった人々も納得はしてくれなかった。ここ
に訪れて私の説明を聞く人間のほとんどが、左寄りの自称平和主義者たちだったからだ。
 彼らは私の思う以上に頑迷だった。私にとって、そして多くのまともな思考回路をもっ
ている人間にとってもおそらく驚くべきことに、彼らはこの国の内にただ一つの兵器すら
存在してはならないと考えているのだ。

84 :No.12 鋼鉄の馬(2/5) ◇rmqyubQICI:07/09/03 17:30:53 ID:LuaYn9UE
 まったく、滑稽としか言いようがない。彼らは歴史に学ぶということを知らないのだろ
うか。高校生の世界史未履修問題が持ち上がったときに自分たちが何といっていたのかも、
きっと彼らは覚えていないに違いない。
 いまだかつて、武力の介在しない平和などというものがあっただろうか。有史以来、長
く続いた平和の時代といえば、紀元一世紀から二世紀を絶頂期として二百年も続いたパク
ス=ロマーナ、十三世紀、いわゆる『モンゴルの時代』に百年ほど続いたパクス=タタリカ、
いつのことを指しているのかいまいちわからないが、とにかく近代のパクス=ブリタニカ、
そして現代のパクス=アメリカーナの四つだろう。パクスとはラテン語で平和の意味だ。
 ローマの平和、タタール(モンゴル人)の平和、イギリスの平和、アメリカの平和とい
う名称から分かるように、どれもその時代で一番の軍事大国の名を冠している。ローマや
アメリカといえば戦争機械とすら呼ばれるほどに圧倒的な軍を成した国で――

「……はぁ」
 ここまで打ち終えて、キーボードを叩く指を止めた。背もたれに体重を預けて、盛大に
溜め息を吐く。自衛隊のこの部署に配属されてから、何千回目の溜め息になるだろうか。
「何の報告書だよ、これ……」
 まったく、これではただの日記だ。というかチラシの裏だ。こんなものを提出した日に
は、あの厳格な上司に仕事場から蹴り出されても仕方ない。
 いや、それとも少しは私の立場に同情してもくれるだろうか。始めから無理だと分かっ
ている仕事を、お前が適任だろうの一言で押し付けられたのだから。
 その仕事というのは、この報告書と題されたテキストを見れば予想がつくと思うが、こ
の施設の視察に訪れた人間に、軍備の概要やらその必要性などの諸々を説明することだ。
 聞くだけなら大した労苦でないように思われるだろうが、これがまたかなり辛い仕事な
のだ。いわゆるシシュポスの労働というやつだろう。冥府でシシュポスが岩を山の頂上へ
押し上げるように、私は必死で政府のお偉方に軍備の必要性を説くのだが、結果もまたそ
の岩が必ず転がり落ちるのと同じで、毎回先方が納得しないまま終わってしまう。

85 :No.12 鋼鉄の馬(3/5) ◇rmqyubQICI:07/09/03 17:31:28 ID:LuaYn9UE
 私の努力が足りないわけでは、恐らくないと思うのだ。できるかぎり聞き手の興味をひ
くような話をしているつもりだし、原稿も毎回推敲している。仲間にも面白いと言っても
らえた。これ以上、どうすればいいというのだろうか。考えるほどに頭が痛くなってくる。
思考がまとまらない。
 そうだ、カフェインが切れてきたのか。コーヒーなしではやってられない。デスクの上
のカップを左手で取り、口元までもってゆく。目を閉じて、ゆっくりカップを傾けた。
 ――あぁ、空だ。
 畜生、糞っ。あらんかぎりの罵倒の言葉を頭に巡らせながら、空のカップを無感動に見
つめる。底の方にはうすく黒い液体が溜まっていて、内側の側面にもところどころコーヒー
の跡がついていた。
 色々なことが駆け巡ってぼんやりした頭に、ふと先日の上司との会話が思い浮かぶ。確
かその日も空のコーヒーカップはこんな風に汚れていて、私はそれを覗き込んでいた。こ
の仕事を割り振られてから、ひと月ほど経ったころのことだったろうか。

 その日、私は上司から不意に尋ねられた。
「仕事は順調かね?」
 滅多に話さない上司の問いに少し戸惑ったが、私は無難な答えを返そうと口を開いた。
「はい、実務の方はひとまず順調です。ただ、先月から始まった方は……」
「辛いかね?」
「はい、かなり」
 言い終えてから、自分のミスに気付いた。これでは職務に対して文句を言っているよう
なものだ。この上なく厳格な私の上司のこと、怒鳴られるかと思い、私は身を縮めた。
 しかし、意外なことに、彼は笑ったのだ。このとき私は初めて上司の笑顔を見た。微笑
みと呼ぶには、それはいささかシニカルに過ぎたが。
「だと思うよ。私も君と同じで、あの方々には散々苦労させられたものだ」
 そう聞いて、なんとなく意外に感じたのを覚えている。彼はさらに、こう付け足した。
「もっとも、今でも苦労させられていることには変わりないがね」

86 :No.12 鋼鉄の馬(4/5) ◇rmqyubQICI:07/09/03 17:32:01 ID:LuaYn9UE
 彼の言行にあてられて、私も皮肉で返す。
「あぁ、嫌なところだけ変わらないんですね」
「宗教だからな、そう簡単に変わらんよ」
「宗教、ですか?」
「あぁ、宗教だ。信者たちがカトリックなどよりもよっぽど敬虔でな、困ったものだ」
 彼は笑っていた。それは苦笑に違いないのだが、彼は妙に楽しそうだった。
「まったく、本当に困りますね。相手が宗教なら、論理は引っ込むしかない」
「あぁ、その通りだ。宗教相手に論理は通用しない。彼らの入っている狭っ苦しい枠をこ
じ開けて、どうにか論理に目を向けさせるためのクリスタル・キーは……」
 クリスタル・キー、真理への扉を開く水晶の鍵。これまた妙な喩えだと思ったが、やは
り上司には突っ込めない。十数秒ほどの沈黙の後、彼が再び口を開いた。
「まぁ、積み重ねることしかないだろうな。いいように言ってやれば、努力だ」
「……それしかないですか」
「まぁそう落ち込むな。ある意味、君の仕事はどんな任務よりも立派なものなんだ」
「どんな任務よりも?」
 私の問いに対してゆっくり頷いた彼の顔は、シニカルでなく、穏やかに微笑んでいたよ
うに思う。
「あぁ、そうだ。考えてもみろ、軍備保有の重要さを訴えるというのは、つまり国防の重
要性を訴えることだ。それはつまり、私たちの祖先の誇りを守ることにつながる。
 いや、それだけじゃない。この国に住む人間の戦争に対する評価がいい方に変われば、
古来から戦場で散った兵士たちの魂もその分浮かばれるというものだ。
 ローマを守るために一族のほとんどが玉砕したファビウス家。ギリシアのため、たった
三百の兵でペルシアの大軍に挑んだスパルタの兵士たち。そして何よりも、二次大戦の盟
邦ドイツの騎士たちの誇りが、君の働きによって守られる。
 国家を、そして国民を守って戦死した人々の誇りを、君が守るのだ。
 これ以上やりがいのある仕事はないと思うが、どうだね?」

87 :No.12 鋼鉄の馬(5/5) ◇rmqyubQICI:07/09/03 17:32:34 ID:LuaYn9UE
 この会話から、私は仕事のやり方を変えた。ただ論理的に説明するのではなく、情に訴
える方向でお偉方をやり込めることにしたのだ。報告書に成り損なった文書に書き並べた
ように、兵器に対する「無機質だ」という印象を取り払うことで。まぁ、いまだにほとん
ど成功を収めたことはないのだが。
 思えば、私は体よくこき使われているのかもしれない。しかし、上司のその言葉を聞い
た私の体は、どこからか湧いてくるやる気で満たされていた。
 今もそうだ。あの言葉を思い出しただけでいつの間にか頭の中のもやもやは晴れ、仕事
に対する気概が蘇ってきた。そう、文句を言っている場合ではないのだ。コーヒーくらい
また淹れればいい。兵士たちの誇りが、私の肩にかかっているのだ。
 国を守って死んでいった者の誇りを守るためならば、たとえ雑用に近い役割であろうと、
私は喜んで引き受けよう。今はまだ力及ばないが、いつかは必ず納得させてみせる。
 戦車が騎馬の末裔ならば、戦車乗りは現代の騎士なのだ。鋼鉄の馬に乗る騎士は、決し
て信義を裏切りはしない。






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