【 箱、ツノガエル、あるいは彼女の物語 】
◆2LnoVeLzqY




46 :No.11 箱、ツノガエル、あるいは彼女の物語 1/5 ◇2LnoVeLzqY:07/09/03 00:53:13 ID:LzGzdCYB
 数日ぶりに彼女に会いに行った。いつものように玄関にはカギがかかっていた。
 祖父から譲り受けたという洒落た一軒家に、彼女は一人暮らしなのだ。
 呼び鈴を押しても反応はなかった。これも、いつものことだ。
 植木鉢の下から合鍵を取り、そして家に入る。家の中はしんと静まっていた。
 僕は階段を上がり、彼女の部屋のある二階へと向かった。

       ◇◇◇

 数日ぶりに会った彼女は、小さくて透明な箱の中に入っていた。
「……『何があったんだろう』って顔してる」
 彼女が箱の中から言った。およそ三十センチ四方のその箱は、上下左右を透明な板で覆われていた。継ぎ目は見当たらない。
 その中には、小さな椅子と机とベッド。そして箱の奥の壁は、ほぼ一面が小さな本棚だった。
 椅子に座って本を読みながら、彼女は箱を覗き込む僕を見て微笑んでいる。
「『何があったんだろう』って顔してるな」
 彼女に続いて、ツノガエルが僕に言った。ツノガエルは彼女の飼っているペットだ。名前はつけていないらしい。
 彼女の部屋の古い机の上には、彼女の入った箱とツノガエルの入った水槽が、仲良く並んで置かれていた。
 南向きの窓からは青空が見える。見慣れた町並みが見える。鳥の声も聞こえる。
 それに、彼女の部屋の中だって変わっていない。壁一面の本棚とベッド、それと古ぼけた机。目の前に並んだ箱と水槽だけが、僕には異質なものとして映った。
「『何があったか?』ふむ」ツノガエルが僕を見ながら言った。こいつは昔から人の言葉を話せる。
 けれど、何故かは知らない。たぶん目の上に生えているツノに何か秘密があるのだろうと、僕は踏んでいる。
「この子が自分から箱の中に入った。それだけのことだ」
「あったことって、本当にそれだけ?」
 僕は驚いて、水槽の隣の、透明な箱の中にいる彼女に訊いた。
「それだけよ。他には……そうね」彼女は答えた。「今日という日が始まってから、時計の長針が十回、12を回ったわ」
 僕は、彼女の部屋にある大きな掛け時計を見た。確かに長針は十時を少し回ったところを示している。
 窓からは陽射しが差し込んできた。ツノガエルの湿った体は、それを受けてつやつやと光った。彼女は眩しそうに目を細めた。黒い髪がとても綺麗に輝く。
「いまいち納得できない」僕は言った。「どうして箱の中に入ることにしたんだい?」
 彼女は、読んでいた本を閉じて机の上に置いた。古ぼけた、大きな机の上に彼女の入った箱が載っていて、その箱の中には更に小さな机がある。何だか変な感じだ。
 彼女は改めて僕の方に向き直った。
「理由なんて、聞いても仕方ないと思うわ」


47 :No.11 箱、ツノガエル、あるいは彼女の物語 2/5 ◇2LnoVeLzqY:07/09/03 00:53:32 ID:LzGzdCYB
「どうして?」僕がそう訊くと、彼女は少し悲しそうに答えた。
「……きっと理解できないもの。現にあなたは、理解していない。必要な分の説明は終わっているのに理解できないのは、あなたの常識が現実に対応していないせいね」
「わからないな。僕は、常識があると自分では思っていたけど」
「確かにあなたは常識ある人だけれど、それとこれとは別」
 彼女は膝に手を置いて、まっすぐ僕を見上げていた。
「別って、つまり?」
 僕がそう言うと、彼女は脚を組んだ。これは彼女が少し気合を入れて話すときの癖だ。箱の中に入っても、彼女は彼女だった。
「そうね……いわば常識って、箱みたいなもの。たとえばひとつ、未知の物事があるとしましょう。人はそれに初めて出会ったとき、まずそれを、自分の常識の箱に入れてみる。すっぽり収まれば、その人はそれを理解できるわ。
 けれど入りきらないものは、理解できない。今のあなたにとって、この状況がそう。私はあなたの箱の外にいるの。それだけだわ」
 箱の中にいる彼女はそう言った。水槽の中のツノガエルは彼女の方を向き、黙ってそれを聞いていた。
 ところどころで大きな口をかぱりと開いたけれど、たぶん相槌のつもりなのだろう。相槌を打つにも彼の首は太すぎて、縦に動きそうにない。
「……それはつまり、理解できない僕が悪いってこと?」
 僕のその言葉には、ツノガエルが答えた。
「極論を言えばな。もっとも、無理に理解しようとする必要はない。何でもかんでも常識の箱の中に突っ込もうとするのは、人間の悪い癖だ。理解できないものは、理解できないままでも何ら差し支えはない」
 今度は、彼女がゆっくりと頷いていた。その様子をツノガエルは羨ましそうに眺めていた。少なくとも僕にはそう思えた。やっぱりツノガエルも、太い首を縦に振って相槌を打ってみたいらしい。
 ふと思ったけれど、彼女とツノガエルの間には妙な連帯感がある。
 僕は何だか仲間外れのような気がしてきて、あまり深く考えないようにした。ツノガエルの言うとおり、理解できないものは無理に理解しない、だ。
「それにしても」
 僕は彼女の部屋のベッドに腰掛けた。ふわりとやわらかい。ほのかに彼女の匂いがした。
「いろいろと不便じゃないかな? 箱の中にいたら」
 彼女も僕の真似をして、箱の中のベッドに腰掛けた。たぶんあのベッドも、ほのかに彼女の匂いがするんだろう。
「ちっとも不便じゃないわ」彼女は答える。「本があれば私は満足。それに、ここには紙とペンもある。隣には彼ももいる」
 ツノガエルが口をかぱりと開けた。
「でもやっぱり」僕は反論した。
「外の世界の方がいいよ。紙だってペンだっていろんな種類のものがあるし……何より、こんな箱の中よりずっと広いし」
「それは」ツノガエルが答えた。「相対的な問題に過ぎない」
「相対的?」
 ツノガエルは大きな目玉を舌でべろりと舐めた。これが、話すときの彼の癖らしかった。
「そう、相対的だ。例えば君が自宅のあるマンションに帰って、その中の自室に入ったとしよう。そのとき君は、まずマンションに入り自宅に入り、そして部屋に入った。それは確かに事実かもしれない。
 だが模式化して考えれば、それは大きな箱から、その中にある小さな箱へと入っていったに過ぎないのだ」

48 :No.11 箱、ツノガエル、あるいは彼女の物語 3/5 ◇2LnoVeLzqY:07/09/03 00:53:54 ID:LzGzdCYB
 僕は自分が家に帰る様子をイメージしてみた。マンションのエントランスホールを抜けると、確かに僕は大きな箱に入ったことになる。自宅に入れば一段階小さな箱に、自室に入ればさらに一段階小さな箱に、だ。
「要するに、どこで区切るかの問題なのよ」
 ツノガエルの言葉を引き継ぐように、箱の中から彼女が答えた。
「逆に考えれば、箱の外へ出ればそこは一回り大きな箱の中だけど……どんどん大きな箱へ大きな箱へと移動していっても、必ずどこかで限界が来るわ。これ以上は外へは出れないような、一番大きな箱がある。
 その一番外側の箱は人によって違うけれど……私の場合はそれが、この透明な箱だというだけなの」
「でもさ、僕の方が、ずっと広い場所を行き来できる」
 僕はまた反論した。今や意地になっていた。けれど理由は自分でもわからない。
 もしも彼女の隣にいるのがツノガエルではなくて、たとえばドーベルマンなら、僕はこんなに意地にはならなかっただろう。もっともドーベルマンだと、この水槽には入らないけれど。
「広さやスペースなんて関係ないわ」彼女が答えた。「短編小説よりも長編小説の方が優れているなんて事実はないもの。芥川やサリンジャーと、トルストイやプルーストを同列で比べることなんてできないわ」
 僕はどうにも、彼女とツノガエルにやりこめられていた。だって二対一なのだ。彼女と僕の頭が同じくらいの良さならば、ツノガエルの脳みそ五グラムぶんくらい、彼女が有利だ。
「よくわからないけど」僕は言った。「つまり僕が長編小説なら、きみは短編小説ってこと?」
「それ、すごく面白い考えね」
 僕の問いに彼女はくすりと笑った。笑いは、余裕のある人間の行動だ。箱の外側にいるはずの僕よりも、箱の内側にいる彼女の方が余裕がある。僕は少し悔しい感じがした。
 ところが、そう考えた途端ツノガエルが言った。
「君は今、自分が箱の外側にいるとでも思ったのかね」
 僕は驚いてツノガエルを見た。心が見透かされているような気がしたのだ。
 ツノガエルは大きな目玉を長い舌でべろりと舐めていた。目の上にある小さなツノはぴんと立っていた。あのツノは、やはりただのツノではない。
「それも相対的な問題だ」
 ツノガエルが言った。また相対的ときたもんだ。
 どうやらツノガエルは相対的という言葉が好きらしい。これが全てのツノガエルに当てはまるのか、はたまた彼だけの傾向なのか、僕は全ツノガエルを対象にアンケートを実施したくなった。
「“檻の中の動物を観察しているつもりでいたら、逆に人間の方が観察されていた”というありがちな掌編のオチがあるだろう? このオチの面白さは別としても……私が言いたいのはまさにその状況なのだ。
 つまり、私を覆うこの水槽の壁は、同時に世界を覆う壁でもある。この子を覆う透明な箱は、同時に世界を包む箱でもある。外側や内側を決めることなどできない」
「どちらが本当の観察者か。まるで安部公房ね」
 彼女は楽しそうに付け加えた。それから自分の座っていた椅子を持ち上げて、とことこと箱の中を歩いた。彼女の着ている白いワンピースが、歩くたびにふわふわと揺れる。
 ツノガエルの水槽に一番近い場所につくと、彼女はそこに椅子を置いて座り、透明な箱の壁に手を当てた。
「安部公房は読んだけど、ちっとも理解できなかったよ」
 僕は彼女に訊いたつもりだった。けれど、ツノガエルが代わりに答えた。
「理解できないものを無理に理解する必要はない」
 そう言うとツノガエルはゆっくりと水槽の中を歩き始めた。
 その先には水槽のガラスの壁があって、その向こうには彼女のいる透明な箱がある。その中には透明な壁に手を当てている彼女がいる。


49 :No.11 箱、ツノガエル、あるいは彼女の物語 4/5 ◇2LnoVeLzqY:07/09/03 00:54:12 ID:LzGzdCYB
 ……僕はいてもたってもいられなくなった。ベッドから立ち上がると、僕は彼女のいる箱に近づいて大きな声で言った。
「ねぇ、どこかさ、どこでもいいから公園に行こうよ。僕が連れていくよ」
 ツノガエルは立ち止まってこっちを向いた。彼女も、壁から手を離して僕を見上げていた。
「……公園?」
「そう、公園さ。きっと気持ちいいよ」
 けれど、彼女は悲しげに首を振った。ツノガエルはその様子を、やっぱり羨ましそうに眺めていた。思ったとおり彼の首は動かないらしかった。
「行く意味なんてないわ。そもそも私はこの箱に入る前から、公園になんてほとんど行ったことがないもの。それどころか家から出たことすらないわ。それに、こんな箱を持って外に出たら目立ちすぎる」
「じゃ、じゃあさ」僕は必死に頭を捻った。ともかく彼女をこの部屋から出したいのだ。
「そうだ、裏庭に行こうよ。さっき見たけど薔薇がすごく綺麗に咲いてたよ」
 彼女はこの家に一人で住んでいたけど、何故か裏庭だけはいつも綺麗なのだ。
「遠慮するわ」
 そう言って彼女はまた首を振った。そして、ツノガエルが再び歩き出す。仕方ない、と僕は思った。こうなれば強硬手段しかないのだ。
 僕は彼女のいる透明な箱を持ち上げた。できるだけそっとだ。ツノガエルが水槽から恨めしそうに僕を見上げていた。何だ、上は向けるんじゃないか。
 初め彼女はびっくりした顔をしたけれど、そのあとはずっと、状況を楽しんでいるように見えた。彼女の入った透明な箱は、驚くほど軽かった。
「私もつれていってくれないか!」
 僕が箱を抱えたまま部屋から出るとき、ツノガエルが僕に言った。
「やだね!」
 僕はツノガエルに向かって、余裕たっぷりに叫んだ。

「本当ね。薔薇がすごく綺麗」
 彼女は決して手入れしないのに、裏庭はとても整然としていた。僕はそこにある、たぶん百年ぐらい前に作られただろう木のベンチに腰掛けて、隣に彼女のいる箱を置いた。
 彼女は箱の中の椅子に座って、ゆっくり裏庭を見渡していた。
「そういえばさ」僕は彼女に尋ねた。「さっきはどうして、公園に行く意味が無いなんて言ったの?」
「だって」彼女は答えた。「実際に無いもの」
 そう言うと、彼女は立ち上がって、箱の壁ひとつを占める本棚へと近づいた。そこに並ぶ本の背表紙を撫でながら、彼女は言う。
「公園も、それに薔薇も、ぜんぶ本の中にあるわ。もしも無いなら……自分で書けばいい。作ればいい。小説って、そういうものよ。
 世界中からいろんなものを切り取って、あるいは自分で作って、箱の中に上手に入れるの。それが小説よ。だから箱の中でなら……何だってできる」
「ということは」僕は返す。「きみは短編小説だって例えは、あながち間違ってなかったんだ」
「そうよ」彼女はくすりと笑った。「だから面白い考えって言ったの。もっとも、あなたは長編小説なんかじゃないけれどね」
 それは知っている。僕は箱の中には入ってないからだ。ツノガエルは相対的と言ったけれど、それは違う。そして彼女は自分から箱に入った。だから彼女は、彼女の箱の主人公だ。

50 :No.11 箱、ツノガエル、あるいは彼女の物語 5/5 ◇2LnoVeLzqY:07/09/03 00:54:33 ID:LzGzdCYB
「じゃあやっぱり」僕は彼女と話すのが楽しくなってきた。「この箱の中じゃ、シャワーを浴びる必要もないし食事を摂る必要もないの?」
「もちろんよ」彼女は微笑みながら言う。「だってここは箱の中だもの」
 それもそうだ。僕はあながち箱の中に入るのも悪くないような気がしてきた。なるほど、理解するというのはこういうことを言うのだろう。
 そのとき、僕の心を見透かしたように彼女が笑って言った。
「箱の中に、入りたくなってきた?」
 僕は包み隠さず、正直に言う。
「きみと一緒の箱の中なら」
「いいわよ。どうやら、あなたも理解できたみたいだし」彼女は嬉しそうに言った。
「それじゃあ今から、入り方を教えるわね」

       ◇◇◇

 僕が部屋に入ると、彼女はお気に入りのベッドの上で、白いワンピースを着てすやすやと眠っていた。古ぼけた机の上には、ペットのツノガエルの入った水槽が載っている。
 僕がベッドの端に腰掛けると、ふわりと彼女の匂いがした。
 けれど、その拍子に彼女は起きてしまったらしい。目をこすりながら僕の姿を認めると、髪を手櫛でとかしながら「おはよう。久しぶりね。何日ぶりかしら」と言った。
「おはよう。起こしちゃった?」
「ううん、いいの……それより、新しい小説を書いたんだけど、見てくれない?」
 そう言うと、彼女はベッドから起き上がって机へ近づいた。
「もちろん」僕も彼女について立ち上がる。
 南向きの窓からは、ちょうど陽射しが差し込んできた。壁一面を覆う本棚を、斜めに陽射しが照らす。僕を見上げるツノガエルの皮膚が、つやつやと光っている。
 窓からは見慣れた町並みが見える。鳥の声も聞こえる。この部屋は、数日前とやっぱり何も変わっていなかった。
「それで、見てほしい小説ってどれ?」
「これなの」
 彼女は机の上から数枚の原稿用紙を手に取り、僕に渡した。
 僕はそれを、彼女の匂いのする、ふかふかのベッドの上で読んだ。
 それは言葉を話すツノガエルと、箱に入った女の子の話だった。



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