【 猫と方舟 】
◆D8MoDpzBRE




32 :No.8 猫と方舟 1/5 ◇D8MoDpzBRE:07/09/03 00:44:24 ID:LzGzdCYB
開けちゃいけない箱の中から、にゃあと元気な鳴き声が響いた。
 分かりきっていた結末を前に、私は一人頭を掻く。目の前いる箱の中身が、追い打ちをかけるようにもう一度
にゃあと鳴いた。
 玉手箱にしてもパンドラの箱なんかにしても、開けちゃいけないって分かっていつつも箱を開けてしまう人間の
好奇心みたいな、そういう部分を何やら大袈裟に語っているのだろうけれど、私が箱を開けてしまったのも言っ
てみればそういう好奇心からだった。
 いつも歩く河原沿いの道。河川敷を見下ろして、こんな晴れた夏の日には気持ちのいい風が吹く。私は今、高
校生活最後の夏休みを満喫している。
 そんなさわやかさの中、申し訳なさそうな素振りで、その段ボールは道端に佇んでいた。女の人が書いたっぽ
い「拾ってください」の文字を添えられて。
 九割方、中身は犬か猫であろうと思われたし、そう考えると、私がこの箱を開けたことが持つ意味は、この箱
の中身が犬であるのか猫であるのかを確かめただけってことになる。ある意味シュレディンガーの猫? 違うっ
ぽい。他に意味があるとしたら、箱の中の生き物により新鮮な酸素を供給したってことくらいか。
 どうせ飼えない。お母さんが首を縦に振ってくれない。どうせ飼えないくせにこの箱を開けてしまった私自身の
浅はかさが恨めしく、このまま知らないフリで素通りするか、何か餌になりそうなモノでも買ってくるか、その他色
々な選択肢の間で揺れた。
 にゃあ。
 この鳴き声はずるい。涙は女の武器なんて言うけれど、この子猫も立派に武装している。いずれは大物のゲ
リラだ。
 そうこうしている内に、待ち合わせの時間に遅れそうであることに気付いた。ってか思い出した。今日はタカシ
とデートをする約束だったのだ。
 こうしちゃいられない。さよなら猫クンお元気で、と心の中で別れの言葉をリフレインさせながら立ち上がり、
箱から視線を背けて歩き出した。後ろ髪を引かれる思いってのをリアルに実感する。そんなに善人って程のも
んでもない私に対して、これほど罪悪感みたいなモノを刺戟するのだから、やはりこの子猫は大したモノだと思
う。
 ――それにしても近頃の飼い主は……。
 私は心の中で、やり切れない罪悪感を、飼い主のモラルに対する攻撃に転嫁してみた。それにしても近頃の
飼い主は……なってない。以上。結局、子猫を手放した飼い主も子猫を見殺しにした自分も、同じ穴の何とや
らであるような気がした。自分の心を痛めつけるのはやめよう。
 ただ、彼(or彼女)の幸せを願って止まない。いい人に巡り会ってね。

33 :No.8 猫と方舟 2/5 ◇D8MoDpzBRE:07/09/03 00:45:03 ID:LzGzdCYB
「そりゃ仕方ないべ」
 実際に猫クンのことも知らないくせに、タカシの態度は素っ気ないモノだった。いや、実際に知らないからそ
んな態度がとれるのだろう。知らぬが仏か。私の知っている仏はそんなに冷血じゃない。
 喫茶店のテーブル越しに座るタカシと、何となく距離を感じる。肩に冷房の風が当たるのがすごく不快で、一
つ窓際に席を移動してみたら、タカシの席とは斜向かいになってしまった。なんだか他人みたいなポジションに
収まってしまい、ますます気まずい。
「タカシは冷たいよ。かわいそうだと思わないの?」
「じゃあ、飼えよ」
「飼えないから言ってるの」
「俺だって飼えねーよ」
 どうしてこういうときの男の人って、妙に冷めてて、最初から物事を投げ出したかのような言い方をするのだ
ろう。別に飼ってくれと思ってるんじゃない。ただ一言「かわいそうだね」くらい言えないモノだろうか。私が死ん
でもこの男は仕方ないで済ますのだろうか。いやいや、何を物騒なこと考えているんだ、私。だが、一度そうい
うことを考え出したらとことん突っ走るのが私の悪いクセだ。
「……死んじゃったら、どうするの?」
「だから仕方ないだろ、そんなこと言っても」
 うわー、引くわ。
 無論、分かっている。今の議題は猫の安否についてであり、いくら私が勝手に頭の中で己の生死について考
えていようとも、タカシの発言には猫の生死以外についての含意は全くない。論旨をすり違えるな。いや、もう、
馬鹿!
 涙の衝動の前には、冷静さとか全然歯が立たない。ボロボロと大粒の涙が、まぶたの防波堤を決壊させて
こぼれ落ちる。こうなると止めようがなくて困る。
 先ほどは子猫を見殺しにした側だったクセに、今はちゃっかり子猫と自分を同一視して、見捨てられ不安に
かき立てられたセンチメンタリズムにどっぷり浸かってしまった。悪いクセだなと思う。ホント、面倒くさい女でご
めんなさい。
「ごめん、ミナ。俺が悪かった。だから泣くなって」
 タカシが大あわてで、さっきとは掌を返したように私を擁護する側に廻ってくる。やっぱりタカシは根が優しい
のだ。それとも衆目を気にしての取り繕いか。違うよね。
 それにしても涙は女の武器だ。私の武装もなかなかのモノだっただろう。なんだかタカシには悪いなと思いつ

34 :No.8 猫と方舟 3/5 ◇D8MoDpzBRE:07/09/03 00:45:22 ID:LzGzdCYB
つも、この武器の有効性を再確認し、これからも私の涙腺は緩くなり続けるのだろうな、と思った。
「俺が責任を持って、知り合いに飼える人がいないか探してみるから」
 うんうん、と私がうなずく。タカシのこういう言葉が嬉しい。
「とりあえず、その猫の所に連れてってくれよ、な」
 タカシが、二人が注文した分の伝票を手に席を立ち上がった。私も目頭を左手の甲で押さえながらそれに
倣う。右手を「握ってよ」って感じで差し出したら、タカシの太い指が、むんずと私の掌を強く握ってくれた。
 引きずられるようにタカシの後を歩いた。二人ともバイトはしていたけれど、喫茶店代とかを出すのはいつも
タカシだ。男はこういう所で見栄を張りたいんだよ、って誰かが教えてくれたから、私は黙っていつもそれに従っ
ていた。
「おい、ミナ。グズグズはしてらんないぞ。夕立になりそうだ」

 バケツをひっくり返したようなって喩えがあるけれど、こんな馬鹿でかいバケツがあるものか。雨粒の一つ一
つがBB弾みたいな硬さを持っていて、ビチビチ私の肌を叩く。自然の猛威って奴だ。スゲー。
 そんな中、私はタカシを先導にしながら歩いた。服はもうびしょ濡れで、ブラやパンツまでがいやらしい水の
魔の手に浸蝕されていた。バッグがビニールっぽい材質で出来ていたのがせめてもの救いだ。
「で、次はどっちの道だ?」
「右」
 地理の勝手を知らないタクシー運転手を案内するような感じで、私はタカシに道を教えた。タカシの足取りに
は迷いがなく、安心する。左手に見える川の色は茶色く濁っていて、いかにも濁流って感じでゴウゴウと音を立
てながら渦巻いていた。
 猫クン、無事でいてくれ。
「……この辺」
 私が指をさした路肩の先は雨滴が乱反射してボウッと煙っていた。霧の織りなす幻。ってか、霧散。そこにあ
るべき段ボールは跡形もなく、風景はいつも通り、土手の上から見下ろす河川敷だ。すっごい雨だけど。
「何もないぞ?」
「どうしよう、流されちゃった」
「おい、川とどんだけ離れてると思ってるんだ。落ち着け」
「無理だよ、うわーん」
 タカシが舌打ちをして、ガードレールを越えて土手を下りながら、草むらなんかをかき分けて捜索を始めた。ぐ
しょぐしょな地面に足下を取られたって感じに、うわ、とか言ってバランスを崩しては何とか持ちこたえたりしてて、


35 :No.8 猫と方舟 4/5 ◇D8MoDpzBRE:07/09/03 00:46:04 ID:LzGzdCYB
申し訳なくなる。
 タカシが河川敷を、増水した川に向かって捜索の手を伸ばした。「危ない、止めなよ」と叫んだものの、あっさ
り夕立のビチビチ音にかき消され、そうしている間にもタカシはズンズン川辺に近づいていく。その光景が、昔
国語の教科書で見た『走れメロス』のワンシーン、親友を助けるためにメロスが増水した川に飛び込むってい
うあの場面と重なって、本当にタカシが川に飛び込んでしまうような馬鹿な錯覚を起こした。
「駄目だって!」
 思わず私もガードレールを乗り越えて土手に足を踏み出し、柔らかくなった泥にパンプスを取られ、うぎゃ、
と思わず飛び出した間抜けな叫び声と共に尻餅をついて、そのまま土手を転がり落ちた。
 タイミング的に、タカシの耳に届いた声は「うぎゃ」の部分だったと思う。それはどうでもいい。泥だらけの私を
見つけてもタカシが笑わなかったことがせめてもの救いだ。増水する川とは裏腹に、私のプライドも幸せの水
位もズンズン低くなっているような気がする。
「馬鹿、何してんだよ」
「だってだって」
 タカシがメロスっぽかっただなんて言えない。泥だらけになって起き上がるのも馬鹿らしく、ふて寝してるんだ
か死んでいるのかって勢いで横たわっている私を、タカシが抱き起こしてくれた。思わず首元に抱きついた。タ
カシの首筋が熱くなる。
 子猫は見つからない。そんで、私たちは豪雨の中で抱き合っている。すごく奇妙な成り行きだと思う。
 あの場所から段ボールごと消えていたと言うことは、子猫は人の手によって運び去られたと言うことだ。子猫
が単独で行動して川に流されたとか、雨で段ボールごと流されたとかはおよそ考えにくい。何故だか、タカシと
抱き合っている今の状況だと、逆に冷静になって物事を見られる。全てが収まるところに収まったかのような
感覚を覚えた。
「いつまでもこんな所にいると風邪引くから、行くぞ」
 うん、と頷いた。

 タカシは、私を家まで送り届けると、そそくさというか猛然とダッシュで帰って行った。上がってお茶でも飲んで
いきなよという私の提案など、端からガン無視だった。未だ上がったことのない我が家に、びしょ濡れのままお
邪魔するなど論外だったのだろう。引き留める猶予を与えないタカシの潔い思い遣りに、もどかしい感謝と水く
ささを覚えた。
 びしょ濡れのバッグ。ビニール製だから、中身は無事だった。ホッと安堵のため息を吐く。特に、携帯に死な
れた日には、ある意味私の人生も道連れになるから本当に困る。

36 :No.8 猫と方舟 5/5 ◇D8MoDpzBRE:07/09/03 00:46:21 ID:LzGzdCYB
あ、と思い当たってタカシの携帯にコールした。生きていればプルルと鳴るだろうし、死んでいれば電波は繋
がらない所にある、と来るだろう。緊張の一瞬を経て、あっさりと結末が後者であることを告げる音声案内が耳
元に流れた。ご愁傷様。
 まあ、タカシは男の子だから大丈夫だろうと、ホント訳の分からない理由で納得して、暖かいシャワーを浴び
ることにした。
 この暖かいシャワーは極楽浄土の何かだ。体の芯まで火照って、みなぎってくる。さっきまでのBB弾みたい
なシャワーとは大違いだ。
 子猫は、無事だったのだろうか。
 安穏と幸せを享受していた私の脳裏に、またもや子猫のことが浮かんだ。まだ大丈夫と決まったわけではあ
るまい。この社会の仕組みはよく知らないけれど、保健所の人とかに捕獲されたら処分されるんじゃなかったっ
け。
 考えても無駄なことだ。それが分かっていても、心にはさざ波が立つ。そのさざ波の上を、子猫を乗せた段ボ
ールの船がゆったりと流れていく。バケツを裏返したような雨が降り続いても、その船は水面の上を悠然と構
えて揺れている。まるでノアの方舟のようだ。
 現世に取り残された私たちは、天上から高笑いされているのか。少し違うと思う。子猫が流れ着いた世界は、
やっぱり私たちが住む世界と繋がっている。幾重にも折り重なって、全ての人生、猫生、犬生その他大勢が交
わる点があるような気がする。
 訳が分からず、シャワーを浴びつつ頭をブンブン振った。疲れて、少し脳がふやけてきたのだろう。視界がト
ロンとまどろみの色調を帯びる。
 もし私が捨てられていたら、タカシは私を拾ってくれるだろうか。今日、訊いてみたかった。きっとタカシは、私
に綺麗なお洋服を着せてくれるし、おいしい食事を用意してくれるはずだ。
 二人が住む家はちっぽけでもいい。
 猫を飼うかも知れないけれど、犬かも知れない。
 人生、箱を開けるまでは分からないはずだ。



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