22 :No.06 大きな箱 1/5 ◇8wDKWlnnnI:07/09/02 16:52:50 ID:3JVKRJqO
――誰にでも大切なものをしまってておく箱ってあるよね。中身とか人それぞれだし、何を大切にしてるかはその人に
よると思うけど。
キミの箱の中には何が入ってる? 僕はナイフ――
ああ、クソ暑いよ。ホント忙しいし暑い。それにオーダーがまったく止まんないよねえー、どうすんだよコレ……。
…………うはは。
さて! えーと、手羽先と鶏からを揚場の油にぶちこんでから、キムチチャーハンの豚肉とキムチを出して、フライパン
を暖めてと……ヤバ、串盛り引っくり返さないと焦げる……ああ、やっちゃったよ……クソッ。
その日、僕はバイト先の居酒屋のキッチンの中で汗まみれになっていた。駅前に構えた大手チェーン店の週末金曜日は、
あまりに忙しすぎて軽く死ねる。
いくら夜中の十二時を過ぎたとはいえ、自然とどこからか人が集まってくるし、夜を過ぎると学生のバイトは帰るから、
働く人手が足りなくなる。ああ、忙しいなと。
しかしさ、店長が人を入れなすぎなんだよ。この厨房にチーフと僕の二人だけって! チーフなんて刺し身盛り作りな
がら、入ってきた注文のドリンクのカクテル作ったりして、この狭い調理場の中でグルングルン回っちゃってる。ああ、
人ってこんなにも早く動けるもんなんだな、びっくりだねまるで最先端マシーンだね。
まあ、とは言え外のホールも二人だけだし文句も言えないんだけどね。
ホールでは店長が広い店の中を素早く、でもお客様に不快感を与えないよう出来るだけスマートに動きまわる。ただ、
忙しすぎて早いステップを踊るバレリーナみたいになっている。
そう、そこはまさに戦場だった。飛び交う客の罵声や笑い声の弾幕、学生がイッキを叫び連呼しはじめると、一時間後
にトイレに一面のゲロ爆弾が落下、完全にグロッキーになる若い娘、それを狙い介抱する男達など、その阿鼻叫喚は……
はいはい、なんてなと。
「生一丁はいりましたー」
ホールから綺麗に響いた千恵さんの声に、僕の耳は一瞬ホントに動いてしまった。
千恵さんは僕より二つ年上で、僕がここに入る随分前からここにいたみたいだった。顔が美しいのはみれば分かる事だ
けど、なにより立ち振る舞いが優雅で美しかった。例えば仕事がどんなに忙しくても笑顔で優しく気遣いを忘れない。そ
れは相手がどんな酔っぱらいでも変わらなかった。
そう千恵さんは戦場に咲いた一輪の花なのだった、ああ僕なに考えてんだろ。
「おい長野ー、どしたーオマエ手止まってンぞ。暇なら洗い物が溜ってるからそっち頼むわ」
あ、はい。チーフに言われて現実に戻された僕は山の様な汚れた皿の溜ってる洗い場に向かった。
23 :No.06 大きな箱 2/5 ◇8wDKWlnnnI:07/09/02 16:53:22 ID:3JVKRJqO
深夜の三時を過ぎ、オーダーが大分減ってきたので、チーフがタイミングを見計らって休憩に出してくれた。やっと休
める、僕は店の端にある休憩室に向かう。
限界まで動きまわった体には、どこか痺れの様な物が纏わりついている。どこでもいいから早く座りたかった。
狭い休憩室に入ると千恵さんがいた。机にうつ伏せになってたみたいで、僕が入ると顔をあげた。
「あ、ナガっちお疲れー」
「……大丈夫ですか、千恵さん」
「うん、なんとか、そっちの方は大丈夫?」
全然大丈夫じゃなさそうなのに。すぐにとびっきりの笑顔で応えれる。周りに気を使えるのは千恵さんだからだろうな。
「いやー、僕はだめかもしんない。見てくださいよ、この汗」
「うわっ、すごいね」
汗を拭くために自分の荷物からタオルを出そうと思い、棚から大きな箱型のアタッシュケースを降ろした。
「お、なんだい、ナガっち。今日どっか行くの? お泊まり会とか?」
「ああ、これか、いや別になんでもな……千恵さん、お泊まり会って、小学生じゃないんだから」
「あはは、いやほらその、大人のお泊まり会とかなんとか。あはは」
少しあせった。ケースの事を突っ込まれそうになったが、あまり気にされなくて良かった。そのまま流した方がいい。
いつもの調子でふざけて返す。
「……えー、いやだなガッカリだなー。なんか千恵さん、オッサンくさいよ。店長並のオッサンみたいだ」
「はいはい、どうせオッサンだよ、他の若い子達にくらべりゃね」
千恵さんはそう言って笑うと、手元の化粧箱を取り出した。
その千恵さんの化粧箱はずいぶん前から使っているためか、かなりくたびれている。普通なら新品のに買い換えても
いい頃だ。化粧箱ならそんなに高くないだろうし。でもとても大事そうにとっていて、いつも手元に持っていた。
「千恵さん、その化粧箱いつも持ってるよね」
「え? ああ、そんなにいつもかな? まあそうかも」
「うん。それ結構古いよね、そろそろ買い換えたいとか思わないの?」
「うーんー、いや別に。これでいいんだ。……ほらお金とかないしさ」
こんな風に僕はいつもある程度、距離を置かれてしまう。なんでだろう。まあいいや、それでも。
「あのね千恵さん……」「あ! 休憩時間おわりだ。ナガっちはまだだよね。んじゃあ行ってくる。さあ今日もあとちょっとだ!」
うん頑張ってね、笑顔で出ていった千恵さんを見送りながら部屋に残ると自分の考えに耽った。
長かった大学生活も終わりが近づいている。就職先も決まり、今は忙しくないけどあと三ヶ月先には此処を辞めてしま
う。その前になんとか千恵さんに……。
24 :No.06 大きな箱 3/5 ◇8wDKWlnnnI:07/09/02 16:54:04 ID:3JVKRJqO
アタッシュケースを見つめてボーッとしていると、店長が休憩に入ってきたので、少し先の事なんかを話してまた仕事
に戻った。
朝の六時頃、ようやくキッチンの全ての片付けが終わり帰りの準備をした。ホールはすでに片付けられ椅子がテーブルの上に乗っている。
店長とチーフは本社から呼び出されて先に帰ってしまっていた。今までにも何回かあった事なので今回も特にあわてな
かった。そんな時は僕が早めに店に来て開けてから、店長に鍵を返した。僕もこれでも一応信頼されているみたいなんだ。
休憩室で手早く着替えを済まし、出口に向けてホールを通り抜けようした時、千恵さんの姿を見つけた。
まさか千恵さんが店に残っているとは思っていなかった。いつもなら、いつの間にか帰ってしまって誘うタイミングが
中々なかったのに! いいぞ、ちょうど邪魔な店長やチーフもいない。
よし! ここだ、チャンスは今しかないぞ、そう思った僕はアタッシュケースを静かに開けた。大事に中身を取り出す
と手に持ち千恵さんに近付いた。
「千恵さん、めずらしいねこんなに遅くまで」
「ああ、大事な物をなくしちゃったの、中々見付からなくて。ホントどこ行ったんだろう」
よほど大事な物なのかな、千恵さんは必死で探してる。僕はタイミングを計りかねた。
「ふー、駄目だ見つかんないや。でも今日中になんとかしないと大変な事に……うん? どうしたのナガっち」
千恵さんが急に顔を上げたので、僕は慌てて背後に隠した。びっくりして背すじにいやな感触が走っていった。
ダメか? いやこのチャンスを逃したらこの先三ヶ月間はずっとないだろう。
「……あのね、千恵さん。実は千恵さんに見せたい物があるんだ。これなんだけどさ」
なんとか勇気を振り絞り、背後から出して千恵さんに見せようとした時、千恵さんが急に身構えると真横に横っ飛びした。
「ナガっち、動かないで!」
「へ!?」
千恵さんが素早く自分のカバンから化粧箱を取り出すと、手慣れた動作で中の物をこちらに投げつけた。
ヒュッという音とともに僕の頭の上を通りすぎる。そのまま後ろの壁に突き刺さった音が聞こえてきた。
「な、なんだよコレ……訳が分からない……。あああれ、ナナ、ナイフか? え? は? なんで?」
後ろの漆塗りの壁に深く刺さった大きなアーミーナイフには、まだ少し動いているサソリが貫かれていた。
サソリだと? おいおいここは砂漠かよ? いや、確か東京のどこにでもある普通の居酒屋のはずだ。居酒屋にサソリ?
「ふーっ、危なかったー。ギリギリセーフ! いやーナガっち、もうちょっとで刺されるとこだったよキミ」
「あ、ありがとうございます」
とにかく千恵さんが助けてくれたみたいだ。
千恵さんは壁に刺さったナイフを掴み、簡単そうに引っこ抜いた。するとサソリがそのまま下にポトリと落ちた。
「ああ、サリーちゃん……ゴメンね……。んー―、ヤバイな、店長になんて言おう……」
25 :No.06 大きな箱 4/5 ◇8wDKWlnnnI:07/09/02 16:54:45 ID:3JVKRJqO
「もしかしてそのサソリ、店長の? え、でもサソリなんかどっから出てきたの!?」
「店長が休憩室の箱の中で飼ってたんだよ。さっき逃げた逃げたって大騒ぎしてたんだ」
……なんだって。僕はあの休憩室で寝泊まりした事を思いだし、身震いした。なんなんだよあの人。
「昔、砂漠にいた頃に飼ってたサソリが産んだ子供だからさ、すごく大事にしてたの。
あ、そうだナガっち店長に謝る時は一緒に来てね。たぶんカンカンに怒るだろうし」
千恵さんはそう言いながら、スカートの裾でアーミーナイフの汚れを丹念に拭き取っている。……手慣れている。
「千恵さん、教えてください。そのナイフはなんなんですか。それに砂漠? なんだか店長にも関係ありそうだし……」
千恵さんはナイフを見つめるとにっこり笑い、頷いた。
「ナガっちにならいいよ、わかった教える」
そう言うと千恵さんはゆっくり話だした。
――このナイフは私のお父さんの大切な形見。そして砂漠で一緒に傭兵をしていた仲間がここの店長。私のお父さんの
親友で、私にとってはもう一人のお父さんって言ってもいいかもしれない。私は父と一緒に戦場にいたの。私が物心つく
頃にはもうお母さんはいなかった。あの化粧箱は見たことのないお母さんの形見。そして二人の傭兵の父の元、私は軍人
として育った。それから数年後、とある戦場でお父さんが還らぬ人となり、店長はすぐに私を連れて日本に帰国した。私
のお父さんとの約束を果たすために。『娘に普通の幸せを』――
「だからもうすでに普通じゃないんだけど、って言っても、店長は聴く耳もたないし私に普通の生活をしろっていうの」
僕は言葉を失った。あの異様な身のこなし、俊敏で的確な動き。戦場をくらべるまでもなく今ここは平穏な日々だろう。
「いやー、やっぱ引くよねーそりゃそうだ。ナガっち、私の事怖くなった? もしかして近づくなとか? だよねー」
千恵さんの声が少し震えていた。横を向いて顔を隠している。別に怖くなんかない、でも……
「なんでそのこと黙ってたの」
「だって言いにくいし、信じてもらえないだろうし」
ああ、そうか。もしかしたら千恵さんの方が怖かったのかもしれない。それならもっと近づけるかもしれない。
「あー、スッキリした。結構辛かったよ。でも全部言っちゃった。……ゴメンね『ガッカリだー』だよね」
僕はさっきから出そうとして持ったままのプレゼントを千恵さんに渡した。
「……千恵さんこれ、新しい化粧箱買ってきた。その化粧箱が大事なのは知ってたけど、まさかお母さんの形見とは思わ
なかったんだ。こっちのはそんなに高い物じゃないんだけど、よかったら使って」
千恵さんはびっくりしていた。ああ、なんでこんなタイミングでプレゼントなんかしてんだろ僕は。まじで最悪だ。
「それからね、千恵さん……」
僕はそのまま告白をした。
26 :No.06 大きな箱 5/5 ◇8wDKWlnnnI:07/09/02 16:56:22 ID:3JVKRJqO
それから千恵さんは、僕がプレゼントした新しい化粧箱の中に、あの化粧箱を入れて出歩くようになった。それじゃあ
化粧箱の意味が無いような気もしたけど、千恵さんにとってそれでよければまったくかまわかった。
僕と一緒に出歩く時には僕の大きなアタッシュケースの中に入れている。これじゃあまるで箱のマトリョーシカみたい
だ、僕がそう言うと千恵さんが笑って続けた。
「あのさ、『大きなお父さん亀の背中に中くらいのお母さん亀、その上に可愛いい小亀』って歌があるでしょう」
「うん……なんか内容が微妙に違くないか?」
「まあ細かい事は気にしないの! でね、その親子亀は上に乗るたびに高くなっていくでしょ。
けどね、箱はどんどん包んでいくの」
たぶん、最後のナイフを大事に守るために。
「次はもっと大きな箱がいいな」
最終的に僕は全てを大きく包むために、家なんかをプレゼントする事になるのかもしれない。そんな事をぼんやり考え
ながら一緒に歩いていった。
――キミの箱の中身はなに? 僕はナイフ――