【 願い 】
◆PDta1gjmos




56 :No.16 願い 1/3 ◇PDta1gjmos:07/08/26 23:39:59 ID:FkikrFkY
 さっさと死ねばいいのに。
のろのろとした動きにいらいらする。夫の母親、つまり姑。それ以上でも以下でもない関係が、こんなにも
彼女を苦しめることになるとは思ってもいなかった。結婚を後悔するのは決まってこういう時だ。ため息を押し
隠して姑を支えると、力が強すぎると睨まれた。ああ、もう。
こんな予定ではなかった。しかしではどういう予定だったのかと言えば、それすらも思い出せないほどに
彼女は疲弊していた。
介護を必要とする姑に、家庭に無関心な夫。東京へと去った子供たちは盆にも帰らず、女は孤独に姑の
不平に耐える。
いずれは訪れるだろうとの予感はあったが、ここまで早いとは思わなかった。何が悪かった? 舅の死、
ボケ始めた姑、急な階段。きっとどれか一つの要素でも欠けていれば、彼女は平穏な日々を過ごせていた
に違いないのだ。まだまだ元気だろうと楽観視していたというのにちょっと階段から落ちただけでもうオシ
マイ。それだけのことで活発だった姑も優しかった夫も、全てを彼女に押し付けて変わってしまった。
「はい、お母さん」
 介護食をスプーンに乗せ、姑の口元へと運ぶ。美味しそうな香りに彼女の腹が空腹を訴えそうになるが、
腹筋で耐える。残る家事のことを考えると、食事の時間はまだ等分遠い。
 一口目を入れると、ぶへ、と姑が吹いた。布団や彼女の服にまで食べ物が飛ぶ。
「熱いじゃないの! 私は病人なんですからね、もっと気を使いなさい! 火傷したらどうするの?」
 ああ、もう、全く。
 右手が疼く。皺だらけの首は細く脆く、中年の女の手でも簡単に縊り殺せそうに思えた。カタカタと震える
スプーン。理性、理性、理性。三回唱えて衝動を抑える。もしも念で人が殺せるのなら姑は何十回も死ん
でいるに違いない。
 前はこんなんじゃなかった。ただ年老いて死ぬだけなど、何も後世に残せず消え果るなど我慢ならないと
言って、様々なことに精力的に取り組んでいた姑。それが今ではこのザマだ。足が動かなくなった、その
程度のことで最早何をする気も起きなくなったらしい。これまでの反動とでも言うかのように正反対に変貌した。

57 :No.16 願い 2/3 ◇PDta1gjmos:07/08/26 23:40:13 ID:FkikrFkY
「ごめんなさい、お母さん。冷ましてきますから待っていてください」
「早くしてよ。お腹すいたんだから」
 ――本当、さっさと死ねばいいのに。
 
「ねえ、もう限界よ。お願いどうにかして」
 夜遅くに帰宅した夫に懇願する。玄関で捕まえなければ風呂からベッドへのコースから外すことが出来なく
なるから、無理やり立ちふさがる。せめて食卓を囲めれば会話もあるだろうけれど、日付も変わる時刻に食事
をすることはできない。
 介護を手伝って欲しい。でなければ老人ホームに送り込ませて欲しい。姑の言動の数々を訴えて見せても、
しかし夫の表情は変わらない。
「俺は疲れてるんだ……。その話はまた今度でいいだろう?」
「今度っていつよ」
「日曜」
「前、折角の休みに深刻な話をするなって怒ったわ」
「…………」
「あなたの母親のことよ? どうでもいいの?」
「なるほど、お前の母親じゃないから、お前は面倒みたくないわけだ」
「そういう話じゃないでしょう!」
 感情的になりすぎて声が大きくなってしまった。慌てて口を押さえ背後を振り返る。大丈夫、起きだしてはこ
ない、きっと。
「施設に入れるのは外聞が悪い。俺は忙しい。……分かるな?」
 分かるわけがない。
 視線を外した隙に風呂へと直行してしまった夫の背中に、彼女は呟いた。分かるわけがない。理解は出来
ても、感情が許せない。
 冷たい空気に身を震わす彼女には、布団の中でくぐもった笑いを漏らす姑の声は届かなかった。
 
 
 結局夫との会話を交わすことは大して出来ず、彼女は疲労と苛立ちとを日々募らせていった。
 食事、洗濯、掃除、下の世話。どれをするにも文句がセット。死ね死ねと心中で念じるがその気配は全く訪
れない。

58 :No.16 願い 3/3 ◇PDta1gjmos:07/08/26 23:40:28 ID:FkikrFkY
「はい、お母さん」
 介護食をスプーンに乗せ、姑の口元へと運ぶ。
「冷たい。私の体を冷やすつもり?」
「ごめんなさい、今すぐ暖めなおしますから」
 耐えろ、耐えろ、耐えろ。三回唱える。
「本当に駄目な子。何度注意すればまともに出来るようになるの?」
 死ね、死ね、死ね。三回唱える。
「役立たず」
 ――殺してしまえ。 
 視界が真っ赤に染まった。
 

 ゴツンという嫌な音に我に返り、は、と目を見開くとベッドの下に静かに横たわる姑の姿があった。
 何が起こった?
 いつも喚きたてるその口が力なく半開きになっていて、気持ちが悪い。
 何をしてしまった?
 心臓をつかんで鼓動を抑える。カッとなって、思わず姑の首筋をつかみ、引き倒してしまった。
 呆然として自らの行動の結果を眺めていると、頭から赤い液体が流れ始めた。血。ベッドから落ちたのは
事故ということにして、このまま気づかなかった振りをすれば姑はこのまま死ぬのだろう。何度となく念じた
願いは、あっさりと自分の手で引き起こされてしまった。
 ああ、これで。これで、自由になれた?
 罪悪感よりも開放感に身を浸した彼女の耳朶を、突如弱々しい声が打った。
「これで、残せた……」
 何も後世に残せず消え果ることが我慢ならなかった姑は、深い傷を抉って安らかに息を引き取った。
 
 

<棺>



BACK−「はじまり」の始まり◆luN7z/2xAk  |  INDEXへ  |  NEXT−「疑問」◆k.D2pTMHV.