【 ヘヴンリィ・フェブラリィ 】
◆QIrxf/4SJM




44 :No.13 ヘヴンリィ・フェブラリィ 1/4 ◇QIrxf/4SJM:07/08/26 23:22:29 ID:FkikrFkY
 水曜日の放課後、ぼくは図書室で本を読んでいた。
 友達は校庭でドッヂボールをして遊んでいるけれど、今日はやめておいた。というのも、図書委員会の当番の日だからだ。サボりはよくない。
 今読んでいるモンテクリスト伯は終盤にさしかかっているところだ。もし、ぼくがエドモン・ダンテスのような立場に置かれたなら、こんなふうに復讐の鬼になることができるだろうか?
 外からは、わいわいと楽しそうな声が聞こえてくる。ぼくだって、図書委員会をやらされていなけりゃ、今頃二人くらい外野送りにしているはずなんだ。
 しおりを挿して、本を閉じた。椅子に座ったまま伸びをする。次いで、大きなあくびが出た。
 がらがらと戸の開く音を聞いた。
 女の子がぼくの前を横切って行った。珍しいことに、お客さまらしい。
 ぼくはカウンターの引き出しの中から、日付のスタンプを取り出して準備した。
 女の子だから、青い鳥文庫かな? クレヨン王国なら、ぼくが貸してあげてもいいのだけれど。
 なんて想像をめぐらしていると、その女の子は走って目の前を横切り、図書室から出て行った。
 きっと忘れ物でも取りに来ていたのだろう。ぼくは二度頷いて、スタンプをしまった。
「そろそろ、帰っていいわよ」後ろから先生の声がした。

 金曜日の放課後、ぼくは再び図書室にやってきた。モンテクリスト伯を読み終えたからだ。
「おもしろかった?」と先生が言った。
「うん。でも、登場人物が多すぎて、わけわかんなくなりそうだったよ」
「そりゃあ、子供向けに強引に一冊にまとめたものですもの。大きくなったら、本物を読んでみるといいわ」
 モンテクリスト伯を先生に渡すと、ぼくは次に読む本を探すべく、本棚を見て回った。
 がらがらと音がして、図書室の戸が開く。ぼくは、取りかけていた本をしまって、戸を見た。
 水曜日のときと同じ女の子が、図書室の奥の方へと走って消えていった。
「なんだろう?」ぼくは首を傾げつつ、女の子の入っていった本棚に歩み寄った。床が濡れている。
 奥でごそごそと音がしていた。水の音も混じっている。
 ぼくは本棚を覗き込んだ。
「あっ!」ぼくは思わず声を上げてしまった。女の子が服を脱いで、上半身裸になっているところだったのだ。
 女の子が振り向いた。見覚えのある顔だ。
「ごめん」ぼくは慌てて後ろを向き、駆け出そうとする。顔が熱かった。
「待って!」女の子が言った。「おねがい、待って」
 ぼくは彼女の方に体を向けて俯いた。上目遣いで彼女の足元が見える。
「もういいから、顔を上げて?」
 ぼくは彼女を見た。体操服を着ていて、髪の毛はずぶ濡れだった。

45 :No.13 ヘヴンリィ・フェブラリィ 2/4 ◇QIrxf/4SJM:07/08/26 23:22:45 ID:FkikrFkY
「その、ごめんね」とても申し訳ない気持ちになっていた。
 彼女は、俯いて言った。「お願いだから、秘密にしてて」
「どうしたの?」
「なんでもないの。だけど、誰にも言わないで欲しい――」
 女の子の着替えを覗いたなんて、言えるもんか。
「言わないよ。でも、その頭は」
「なんでもないの!」そう彼女は言うと、ずぶ濡れの服を抱えて走り去っていった。
 図書室の隅っこ、ぼくの残された本棚の裏には、小さな水溜りがひとつと、体操袋がひとつ置き去りにされていた。
 ぼくは体操袋を拾った。五の三、河瀬朋子と書かれたゼッケンが張ってある。なるほど、同級生なのだから、見覚えのある顔のはずだ。
 ぼくは彼女と同じクラスになったことはない。廊下で時々すれ違ったりはしたのだろう。
 ぼくは先生に雑巾を借りて、濡れてしまった図書室を拭いて回った。ついでに本も借りた。
「掃除までしてくれるなんて」先生は五枚目のぼくの図書カードにスタンプを押した。「河瀬さん、どうしたのかしら?」
「この前も見たんだけど、どうしたのかは教えてくれなかったよ」
 先生は河瀬さんの図書カードを眺めていた。「本はあまり読まない子みたいね」
「ぼく、河瀬さんに体操袋届けてくるよ」
「家知ってるの?」
「職員室で聞いてみる」
 ぼくは職員室で住所を聞くと、一旦家に帰って母親に地図を書いてもらった。
 鞄の中には、河瀬さんの体操袋と、宝物であるカセットのウォークマンを入れた。
「気をつけて行ってらっしゃい」
「うん」ぼくは軽く頷いて、イヤホンを耳に据えた。大好きなアビィ・ロードだ。
 自転車の籠に鞄を置いて、地図を片手に道を進んだ。
 ぼくは自転車暴走族の団員だったから、この辺りは縄張りとして知り尽くしている。ゆえに、母親に場所の説明を受けたとき、大体の位置は把握できていた。
 ドブに猫の死体が浮いていた。つっついてみたいと思ったけれど、誘惑を振り切ってペダルを踏む。
 目的地には、十分ほどでたどり着くことができた。カセットを止めて、イヤホンを鞄にしまう。
 自転車は河瀬家の横に止めさせてもらって、ぼくはチャイムを鳴らした。
「はい?」チャイムから女の人の声がした。
「ぼく、尾久田って言います。河瀬さんの忘れ物を持ってきました」
「まあ、ちょっと待っていてくださいね」とても澄んだキレイな声だ。
 しばらくすると、河瀬さんのお母さんが現れたので、体操袋を差し出した。

46 :No.13 ヘヴンリィ・フェブラリィ 3/4 ◇QIrxf/4SJM:07/08/26 23:23:00 ID:FkikrFkY
「わざわざありがとう。ぜひ、あがっていってね」
 ぼくは居間に案内されて、ちゃぶ台の前に座った。
「今、朋子を呼んでくるから待っていてね」と言って、小母さんは一杯のお茶と、和菓子を出してくれた。
 河瀬朋子はぼくの正面に座った。彼女はきゅっと唇を固く結んで、和菓子を食べるぼくのことを見ている。
 睨まれているような気がして、帰りたくなった。ぼくが腰を上げようとすると、
「尾久田くんでしょ」と河瀬さんは言った。「知ってるわ。みんなが知ってる」
「ぼくって有名人?」ぼくは座りなおしてにやりとした。
「ジャンボすべり台を自転車で駆け下りて先生に捕まったりしたんでしょ?」と彼女は言った。「ローラーすべり台を自転車で上ろうとして、大ケガをしたって話も聞いたわ」
「大した怪我じゃないよ。ちょっとすりむいただけさ」さすがに失敗談ばかり言われると、ちょっとばつが悪い。「ブランコから自転車に最初に飛び乗ったのは、何を隠そう、このぼくだよ」
「失敗して砂場に頭から突っ込んだのよね」
「あれは練習だったんだ」ぼくはすかさず反論した。
 河瀬さんは一瞬ぼくのことを見つめて、ぷっと吹き出した。
「ああ、おかしい」くすくすと笑いながら続ける。「尾久田くんみたいな人が、図書委員だったなんて」
「そんなこといわれたってね」とぼくは言った。「きみだって、図書室で着替えるなんて、馬鹿じゃないの?」
 河瀬さんの笑いが止まった。
「絶対に誰にも言わないで」彼女の表情はとても真剣だ。
「どうして?」
 ぼくが言うと、彼女はじっとぼくのことを見つめた。
 十数秒の沈黙はひどく気まずかった。
「来て」河瀬さんはぼくの横に来て、手を引っ張った。
「お母さん、私、尾久田くんにお礼がしたいから部屋に案内するね」
 ぼくは彼女に手を引かれ、階段を駆け上がった。
 河瀬さんの部屋はとても女の子らしいものだった。姉の部屋とは正反対だ。
 ぼくたちは彼女のベッドに腰掛けた。
「お願いを聞いてもらっていい?」と彼女は言った。「かわりに、私もあなたの言うことを何でも聞くから」
「いいよ」ぼくは即答した。自転車暴走族の団員を増やすいいチャンスだからだ。
「私、本当はこんなことを言うのはイヤなんだけれど」河瀬さんは手を強く握り締めた。「いじめられてるの」
「うん」ぼくは相槌を打った。「それで?」
「復讐をしたいの。あいつらを、酷い目に遭わせてやりたい」彼女はぼくの目を見た。「だから、手伝って欲しいの。私がやられたことをそっくりそのまま返してやりたい」
 ぼくはにやりとした。モンテクリスト伯を思い出す。「どうせなら、倍返しにしよう」

47 :No.13 ヘヴンリィ・フェブラリィ 4/4 ◇QIrxf/4SJM:07/08/26 23:23:17 ID:FkikrFkY

 翌、翌々日を使って、ぼくたちは作戦を立てた。もちろん、中心となるのは河瀬の方だ。あくまでもぼくはお手伝いをしたり、偽りの目撃情報を流したりするだけだ。
 河瀬朋子は復讐に燃えていた。水を被せられて図書室で着替えさせられたり、靴を隠されたり、髪の毛を切られるといった経験は、彼女をそこまで奮い立たせるものだったのだろうか?
 ぼくは、どちらかといえばいじめる側の人間だろう。悪いことをしているときが一番楽しい。そのつぎに音楽があって読書がある。
 モンテクリスト伯は、本当は復讐を楽しんでいたのではないだろうか? そうならば、ラストに納得ができなくなるけれど。
 現に、ぼくは楽しんでいた。大掛かりな悪戯だし、復讐というものに興味があった。

 その週、ぼくたちは毎日、朝一番に学校へ行った。
 主犯格の女子はスルーして、他のいじめていた連中の上履きを隠し、机に落書きをする。ぼくはドロドロになった猫の死体をドブから引き上げて五つに分断し、いじめた女の子の机の中に毎日一つずつ入れていったりもした。
 丁度置き勉をしていたので、ぼくは芸術的でひどく気味の悪い絵をノートやら教科書の表紙に書きなぐった。他にも、目を引き千切ったヌイグルミを机の上に置いたり、顔に画鋲を刺した集合写真を廊下に貼ったりした。
 心の中は、とても黒いもので満たされていたと思う。けれど、それは不快なものではなくて、心地よいものだった。
 躊躇することなく、小さな脳ミソで周到に計画したことや、その場で思いついたことを実行に移すことが出来たのは、この黒いもののおかげだろう。
 そういえば、アンパンマンの頭に詰まっているものも黒い。だから彼は強いのだろうか?

 水曜日の放課後、図書委員の仕事を終えたぼくは、朋子と一緒に下校していた。 
 結果から言えば、ぼくたちの企みは大成功に終わった。いじめはなくなった上、ぼくの偽りの目撃証言により、主犯格の女子に罪をなすりつけることにも成功したのだ。
 冤罪でみっちりと絞られる様子は、河瀬の復讐に餓えた心を満たすには十分だったらしい。
「ねえ、駿朔?」朋子はぼくの手を握った。「私、なんか、とてもすっきりしたわ」
「ぼくもすごく楽しかった」
「私、約束どおりにあなたの言うことを何でも聞くよ」
「じゃあさ、自転車暴走族に入ってよ。今度、ウンテイの上を自転車で走ろうと思ってるんだ」
 ぼくが言った途端に、朋子は渋い顔をした。「それはちょっと――」
 朋子はぼくから手を離して走り出した。
 予想だにしなかった反応に、ぼくは出遅れてしまった。「あ、ちょっと!」
 走りながら、朋子はぼくを見た。
「べーっだ!」彼女はとても楽しそうな顔をして、ぺろりと舌を出した。
「ちょっと、待ってよ!」


 約十年後、ぼくは彼女に結婚してもらった。自転車暴走族の勧誘は頑なに拒否したくせに!



BACK−『淀み』◆8wDKWlnnnI  |  INDEXへ  |  NEXT−その魔法は◆2LnoVeLzqY