【 消えゆく少女 】
◆p0g6M/mPCo




29 :No.09 消えゆく少女 1/4 ◇p0g6M/mPCo:07/08/26 21:43:24 ID:FkikrFkY
 生暖かい風が途切れに吹きすさぶ皐月の終わり。
 白髭の老人、源二は一本の大樹が根付く小さな丘を登っていた。
 しかし、動作が緩慢としていて頂上へとたどり着くのには時間が掛かった。無理もない。子供な
ら獣のように易々と登っていくこの小さな丘でも、老体にはひびくものだ。
 源二は一定の動作で竹杖を動かし、徐々に上り詰め、丘の頂へとたどり着いた。
 青々とした草や生い茂った大樹の葉が風に揺られ均一に靡く。同時に、源二は突如何かを察し
たかのように辺りを見回す。その樹の裏側、木陰の下で中年の男が一人寝そべっていた。
 源二は四五度瞳をぱちぱちさせ、男を凝視した。
「おお……菓子工場の中村さんじゃあないか」
 ――やはり気のせいか。
 ナカムラ、と呼ばれた男は半眼で眼前の老人を見据える。眠ってはいなかったようだ。
「うん? ゲンさんとここで鉢合わせとは、こりゃ珍しいですね」
「そんなに珍しくもないよ。ワシゃあ常に……と言っても、月に一度来るくらいだからな」
 ちょっとしたトレーニングだよ、と言うと源二は中村の隣に腰をかけた。
「ところで中村さん。あんたもよくここへ来るのかい?」
 中年の男は、その倦怠感をまとっていそうな身体を起こした。
「もしかして……仕事がうまくいってないのかい?」
「大丈夫です、おかげさまでうまくいってますよ。でもね……」
 中村は懐から煙草を取り出し、火を点けずに口に咥えた。
「でもね……うん、実は我が社で旗揚げ事業がありましてね。それで新工場の建築計画挙がった
んです。当初地元住民の皆さんは反対していたが、最終的には和解して建築作業は始まった」
「和解したのか? なら円満に解決したんじゃあないか」
「わが社の創業者がその町の出身者なんです。彼が港町で小さな工場を経営していた頃、金に眼
がくらまず、自分が開発した技術を惜しむことなく他工場の者に教えていたことで、一部の町人の
間ではめっぽう評判がよかったらしい。昔のことですがね。でもそれが功を成したのか、特に年配
の方々は彼と面識があったので、同胞の工場じゃあ仕方がない……ということになった」
 中村は話を続ける。彼が述べるに、いきさつはどうあれ何本の木々を伐ってゆくのは事実であり、
せめてこの森林で一番の大樹を工場の敷地内に設置し、それを戒めとしてほしいと住民は言う。
 それを条件として約束を交わしたのだ。

30 :No.09 消えゆく少女 2/4 ◇p0g6M/mPCo:07/08/26 21:43:51 ID:FkikrFkY
「我が社、そして僕自身も欲の為に自然を破壊したのは事実ですからね。自然という大それたこと
なんて、今まで深く考えていませんでしたから、この年になって多分はっきりと興味がわいてきた。
そして逡巡してここへたどり着いたんです」
 話を終えると、影を背負った男は口にした煙草にようやく火を点け、煙を深く吸い込んだ。
 煙草の先端から燻らしている煙が――何故か焼夷弾を思い出させる。
「戒め、ねぇ……ここにあるのもそうだが、こん位でっかい木ってのはワシよりお年が上だからね。
人々や自然を見守ってきたんだ。ワシも小僧っ子のときはこの木の周りでよく遊んだものだよ」
「あれ? ゲンさんここの出身者だったんですか? 十年前に越してきたとか言ってたから、
てっきりよそ者かと思ってましたが」
 源二は深呼吸をすると、どこか憂いを帯びた表情を受かべた。
「あァ。ワシにとっては嫌を通り越して忌まわしい所だった。言及することも己ではばかったわけだ」
 戦争ですか、と中村が訊く。この男は察しがいい。白髭の老人は無言のままうなずいた。
「中村さん、ちいっとばかし老いぼれの昔話に付き合ってくれんか?」
「ええ。ご拝聴させていただきます」
 そして老人は滔々と語り始めた。
「自分には昔、姉がおったんだ。戦時中の終戦間近ワシは九、十歳の洟垂れ坊主でな。近所の
悪ガキどもとやれヤンキー殺せライミー殺せなどと戦争ごっこを無邪気にやってたわけだ」
 姉――か。あの頃はまだ子供だったのに、今はもうしわくちゃのおじいちゃん。
 滝の瀑布のごとく――月日が流れるのは早いものだ。
「姉さんは十七くらいだったか。それが顔も行儀もワシとは似ても似つかなくて。きめ細やかな肌に
長々とした黒髪が、濡鴉のように綺麗でな。本当に血の繋がった姉なのかと一時期疑問に思って
いたほどに美人で、そして優しかった」
 そういえばやんちゃ坊主だった源二を叱ったこともあったか。 
「怒ったときは本当に怖かった。普段の優しいイメージとはかけ隔てていたせいなのかもしれない
が。で、ワシが駄菓子屋からカンパンを盗んだとき姉さんにバレてな。二三度おもいっきり頬を打た
れた後、一緒に駄菓子屋の親父へ謝りに行ったこともあったなぁ。毎回盗んでいたもんだから、
結局その分のお金は姉さんが払ってくれたが、そこで悪いことをしたと初めて気が付いたよ」
 戦時中の子供にとって、盗みの対象には食べ物が多かった。今の時代を考慮すれば致し方
ないことかもしれない。それでも正しいことと悪いことを――軍国主義がまかり通ったあの時代
だからこそ、源二には知ってもらいたかった。

31 :No.09 消えゆく少女 3/4 ◇p0g6M/mPCo:07/08/26 21:44:07 ID:FkikrFkY
 姉さんの本心は何を思っていたのかな、と源二はあご髭を撫でながら言った。
「今頃の時期だな。終戦間近だった当時、独逸が負けて米軍の空襲が日本に集中し始めたんだ。
この街は軍需産業が盛んでね、よく狙われていたものだ」
 老体の頬が少し痙攣している――ように見えた。
「そして……あの日の夜。これは一生忘れられんし、今でも鮮明に覚えている。突如B-29が群鳥
のように沢山飛んできて、沢山の焼夷弾を落としてきた。防空壕に移動しようと家に出た時だった
よ。突如爆撃でどこからか飛んできた鋭利な材木が、姉さんの首筋に突き刺さったんだ。
母さんが急いで止血しようとしたが、血はどくどくと垂れ続けて、虚ろな眼差しをワシと母さんに
向けたまま……彼女は無言で逝っちまったよ」
 あの時まともに喋ることが出来なかった。家族が目の前にいながら何も言い残すことが出来ず、
それが唯一の心残りであったのかもしれない。 
「その後黒い塊みたいなのが駅前に重なっててね。市民の焼死体だったんだな。近くで見ると
実際は赤黒くて、異臭を放ってた。その骸を見て何故か姉の死に様が脳裏に浮かんだんだよ」
 源二は軽くうなだれ、ひっそりと呟いた。
 ――どうしてこの人達と違って姉はあんな死に方をしたんだ、と。
「ワシは純粋に米軍を憎んだね。姉さんはよく『人を憎まず罪を憎め』と常々口走っていたが、その
言葉は頭の弱い悪童には理解できんかった。人が人を殺せば……加害者を憎むのは当然だ。
そんな鬼畜どもをいつか必ず殺す、と心に誓っていた」
 確かにそれは無理からぬことである。しかし、源二にも分かっていたはずだ。
 名も知らぬどこの誰かを標的とする満ちた邪念は常に漠然としており、己の周りをただ漂泊して
いるだけ。結果何も出来ずに、いつか心は辟易として――そして憎しみは消えてゆく。
「だけど終戦になり長い年月が経つとどうでもよくなったな。人間の心理ってのは面白いものだよ。
それとも、ワシがおかしいだけなのかなぁ」
 そこで深いため息をはき、横目で隣人のあごの辺りを見た。今まで清聴していた中村は虚空
を見つめており、煙草の灰殻は全部落ちてしまっている。
「ゲンさんは……どうしてここに戻ってきたんですか?」
「うーん。それは今のあんたと同じ、何となくかな。老後の人生、色々逡巡した結果だ。でもワシが
ここにとどまる理由ってのはあるんだ。とは言っても、ここからはジジイの戯言だと思ってもいい」
 思いませんよ、と中村は首を左右に廻しながら言った。

32 :No.09 消えゆく少女 4/4 ◇p0g6M/mPCo:07/08/26 21:44:22 ID:FkikrFkY
「実はな、七年位前この丘で姉の幽霊と出逢ったことがあるんだ。いや、出逢っただけではなく
直接話しもした。やはりその姿は少女のままだったよ」
 この男は一体何を言ってるのだろうか――と思われる内容だったが中村は真面目聴いていた。
「本当に突然だったよ。半ば夢見心地の気分で談話したなぁ」
 隣人はただ「そうですか」と呟いた。
「それが気が付いたら目覚めの後でね。以来一度もあっちゃいない。多分これは本当に夢か、
ボケていたんだな……夢にしては明確すぎていたが」
「夢とはそんなものですよ。肌をつねっても痛いと感じるし、覚めるまで夢とは気が付かない。
現実との境い目が曖昧になるものです」
 ならば、ここで佇んでいるのも夢だとでもいうのか。
 春には桜花。夏には蝉時雨。秋には十六夜月。冬には深雪――幾千もの美しき情景を見続け
ようども、それはただ刻々と時が過ぎるだけであり、自身は何も変わっていない。
 しかし今現在の状況さながら、自らの意思を持って己は存在している。それだけは確実だ。
 決して夢なんかじゃ――ない。
「さて、そろそろ帰るかな。中村さんは?」
「僕も帰ります。せっかくですから今夜は一緒に、軽く飲みにでも行きませんか?」
「おう、それはいいな。だがすぐに帰るぞ。酒というのはな、少しだけ飲むから美味いんだ」 
 二人は草むらから立ち上がると、とぼとぼと丘陵を下りて行った。
 少し下って、老人が背後を振り向き呟いた。
「姉さんは……もう仏様のところから帰って来ないのかなぁ。姉さん、あんたもし浄土から見ていた
らよ……せめてワシが地獄へ逝かないように祈っといてくれや」
 そう言うと、影法師を背負った老人は視界から消えてゆく。
 源二。残念だけど――浄土や地獄なんてものはないわ。私がこの丘に居ることを、彼は今回も
気が付かなかった。でもあの時貴方が話したのは、決して夢なんかじゃない。
 また逢える日が来るのかもしれない。それは源二が死んだ後、もしかしたら貴方だけ私も見た
ことがない、あの世に逝ってしまうかもしれない。私はいつまでこの世に留まればいいのだろう。
 もしかしたら、未だ現世に未練があるから成仏出来ないのかな――。
 刹那、夕風が髪を撫でた。風は――私の存在を認めてくれる。
 いつか神様も認めてくれるのだろうか? 答えは分かるはずもなかった。
 しかしその時まで私は、長い年月をかけて育んだこの大樹のように――ここへ佇むとしよう。



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