【 邪念を抱く 】
◆PNmjHl6IaQ




6 :No.03 邪念を抱く 1/4 ◇PNmjHl6IaQ:07/08/26 17:31:53 ID:FkikrFkY
 男は小さくため息を吐いた。
時計は午前八時丁度を指している。
通勤ラッシュのピークを過ぎた駅のホームはやけに静かで、放送の声さえ煩く感じた。
あと一、二分ほどで電車がやってくるだろう。
それに乗って目的の駅まで三十分、そこから三十五分発のバスに駆け込み、
最寄りのバス停まで十五分、更に会社まで全力で走っても九時に間に合うかどうか……。
面倒臭い、という表情で男は肩を落とす。
朝の二時頃までゲームをやり込んだ事が祟って、目覚めると既に七時半。
慌てて家を出てきたものの、寝起きな事もあって全くヤル気が出ない。
どうせなら仮病を使えばよかった、しかし今更家に戻るのもまた面倒臭い。
目の前を通り過ぎる女性をボンヤリと眺めながら、男はふと考えた。
――もしここで人身事故が起これば、遅刻の理由になるんじゃないだろうか。
――人はそれほど多くないし、こちらを見ている人もいない。
――電車が遠くに見えた頃に、俺はあの女性を線路へ突き落とし、柱の影に隠れる。
――頭を殴って気絶させれば声も出せないし逃げたりも出来ない。
――この女性、顔色が悪く猫背で、如何にも人生に疲れたような表情をしている。
――……自殺と思われても仕方ないだろう。
――そして俺は他の人達に紛れて偶然にも目撃してしまったように装い、ショックを受ける。
――警察が来る前に駅から離れれば、たとえバレてもすぐには特定されないだろう。
――電車も停まるし、これで会社を休む充分な理由に……。
『まもなく、二番線に電車が参ります。白線の内側で〜……』
おや、電車が来たようだ。
男は面倒臭そうにまたため息を吐いて、そのまま電車に乗り込んだ。

 時刻は午前九時十五分。
三十五分発のバスに乗り損ね、男は完璧に会社に遅刻した。
間違なく上司に怒鳴られる。
会社のエレベーターホールへ向かいながら、男は頭を抱えた。
ただでさえ出来の悪い自分を目の敵にしている嫌な上司だ、必ずただの説教では済まない。
ネチネチと過去の失敗を掘り返してきて、また大量の仕事を渡してくるに違いない。

7 :No.03 邪念を抱く 2/4 ◇PNmjHl6IaQ:07/08/26 17:32:10 ID:FkikrFkY
今日は間違なく深夜まで残業だ。
デスクに偉そうに座ってニタニタと笑う上司を想像しながら、男はふと考えた。
――もういっそ、この会社が火事になれば楽なのに。
――幸いこの会社の裏手は無人ビルで、その路地を人が通る事などまずない。
――あっても夜中に若者がたむろするだけだ。
――少量のオイルと火があれば、会社を炎で包むのなど簡単なことだ。
――裏手には会社で出たゴミが山程積まれている、そこにオイルをかけて火をつければいい。
――ボヤ騒ぎだけでは意味がない、四、五人は犠牲者が出た方が大事になって面白い。
――上司も逃げ遅れて大火傷でも負ってくれたら最高だ。
――見られさえしなければ、無人ビルの若者の仕業とされるだろう。
――会社は機能しなくなって、哀れな俺達社員には補償金が……。
『ピンポーン、一階です』
おや、エレベーターが着いたようだ。
男は慌ててそのエレベーターに駆け込んだ。

 今夜はもちろん残業尽くしだった。
男は夜の通りをフラフラしながら歩いている。
疲れきった今の男には、街の明かりさえ眩しすぎて眼が痛い。
時計を見れば既に午後十一時、……もうゲームの続きは出来そうにない。
これだけ働いてあそこまで薄給なのがいただけない。
おかげで毎月ギリギリの生活を余儀なくされている。
しかも今月は新作のゲームを三本も買ってしまって金が無い。
給料日まであと一週間だというのに、これでは家賃も払えず野たれ死んでしまう。
銀行のATMに入っていく老婆を見て、男はボンヤリ考えた。
――老人は結構お金を貯め込んでいるものだし、脅して貯金を奪い取ればいいんじゃないか。
――俺は帽子とサングラスとマスクで顔を隠し、足腰弱そうな老婆を狙う。
――ATMに誰もいない時を見計らって老婆の背後に近付き、顔に包丁を突き付ける。
――耳元で小さな声で指示すれば周囲には聞こえないし、声もバレない。
――ATMで貯金を全額下ろさせ、俺がそれをいただく。
――そのままだとすぐに助けを呼ばれたり叫ばれたりするから、軽く気絶させて物陰に隠す。

8 :No.03 邪念を抱く 3/4 ◇PNmjHl6IaQ:07/08/26 17:32:26 ID:FkikrFkY
――そして俺は変装を外して平然と帰路につけばいい。
――所詮は年寄りだし、俺と特定できるような証言は出来ないだろう。
――これで俺は一週間暮らせる金を手に入れて……。
『ガタンッ』
……あ、バスが。
あと少しでバス停、というところでバスのドアが閉まってしまった。
走り去るバスの轟音を聞きながら、男は怠そうにベンチに腰を下ろした。
次のバスまで、あと二十分もある。

 もう日付は変わってしまったようで、街灯さえ消えそうな暗い細道を男はトボトボと歩いていた。
この道は元々人気がない……が、真夜中だとやけに寂しさが増す気がする。
幽霊などというものは信じていないが、どうもさっきから後ろが気になって仕方がない。
早く帰ろう、男は心なしか早足で暗い夜道を進んでいった。
すると、道の遠くに人影が見えた、……幽霊じゃない、生きている人だ。
独りじゃない、男は安心してその人影に近付いていった。
どうやら人影は女性らしく、長い髪を夜風になびかせ、スタスタと歩いている。
後ろ姿しか分からないが、スタイルもいいし、相当の美人に思えた。
こんな美人な女性が真夜中に暗い夜道を独りで……、もちろん男は考えた。
――夜道を独りで歩く女性、これはなんとも無防備すぎる。
――強姦してくれ、と言わんばかりのシチュエーションだ、これではヤられても仕方ないのでは?
――俺は闇に紛れて女に近付き、まずは隣の茂みに思いっきり押し倒す。
――抵抗されるだろうがそこは力ずくで黙らせればいい。
――まず、嫌がる女を押さえ付けながら馬乗りになり、服の上から……。
「キャアァっ!!」
突然の悲鳴に我に返ると、目の前の女性がいない。
……しかも傍の茂みからはゴソゴソと音が。
まさか、もしかしなくともこれは……。
男は肩をワナワナと震わせた。
表情はみるみるうちに険しくなり、鼻息も荒くなっている。
そう、男はひどく怒っていた。

9 :No.03 邪念を抱く 4/4 ◇PNmjHl6IaQ:07/08/26 17:32:41 ID:FkikrFkY
――よくも人の想像を邪魔して……、俺の唯一のストレス発散法だというのに。
――今すごくいい所だったんだ、服を脱がすところが重要なんだ。
――大体強姦っていうのは人気の無い所でヤるもんだろう。
――俺がいるのにヤるとは、俺はそんなに存在感が無いというのか。
――……それ以前に、強姦は犯罪だろう!!
いつの間にか、男は茂みに飛び込んでいた。
見つけたのは女性に馬乗りになっている中年男、その手は既に女性のブラウスにかかっている。
男は無我夢中に中年男を突き飛ばした。
唖然とする女性を飛び越えて再び中年男に詰め寄る。
中年男は情けない声で叫んだが、男は容赦せず、思い切り顔面を殴り付けた。
手を上げて降伏をしめす中年男だったが、残念ながら今の男はそんなこと気にしない。
横っ腹を蹴られ、道路に飛び出して転がり回る。
男は更に追い討ちをかけようとしたが、中年男は意外と早く立ち上がってその場から走り去ってしまった。
その後ろ姿を睨み付けながら、男は舌打ちする。
しかし、怒りは既に落ち着いてきたので追いかける事はせず、諦めてそのまま帰路につこうとした。
「あ、あの……」
すると、さっきの女性が声をかけてきた。
……想像していたより美人ではない。
「ありがとうございました。何か、何かお礼させてください、あの……」
「いや、いいです」
男はキッパリと断る。
「もうお世話になりましたから」
しかしこんな顔と知ってしまっては、もう想像は出来ないな。
ポカンとした女性を残して、男はまた早足で家を目指した。
寝坊するし遅刻するし上司に怒られるし、おまけに妄想は台無しになって拳も痛い。
今日はなんとも最悪な日だった。
星の無い夜空を見上げながら、男はふと考えた。
――待てよ、さっきの女は恩人である俺の事を信頼して、安心しているに違いない。
――その油断を利用して、あの女の鞄をひったくって金を……。
この男の「抱くだけの邪念」は、尽きる事がないようだ。 終



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