【 街 】
◆rmqyubQICI




43 :No.12 街 1/4 ◇rmqyubQICI:07/08/19 23:14:28 ID:i5b6WJgm
 街は人の脳構造を映すといわれるが、さて、それはどうだろう。
 つい最近、私の家のとなりにあった花屋がつぶれた。店主はここ
数年ほど厄介な病に臥せっているそうで、ここで暮らすようになっ
てまだ二年と経たない私はその姿を見かけたことすらない。
 代わりに、高校生くらいの女の子が花の世話をしにきていた。店
がつぶれるまでは毎日のように見かけたもので、振り返ってみれば
本当に花が好きだったのだなぁと改めて思う。やや茶色がかった長
髪がよく似合っている子で、仕事帰りに店の前を通りかかると決ま
って笑顔で会釈してくれた。
 木々の緑すら滅多に見られない、慣れ親しんだ田舎から遠く離れ
たこの土地で、綺麗な花々と彼女の笑顔が私をどれほど癒してくれ
たことか。
 もっとも、今思えば後者はよくできた営業スマイルだったのかも
しれない。ほぼ隔週で花を買ってゆく私は、間違いなくあの店の常
連として顔を覚えられていたはずだ。
 数週間前までその店があった場所は、今では大型店舗の駐車場の
一部になっている。花屋だけでなく、私が越してきた頃に何度かお
世話になった店もいくつかつぶされたのだそうだ。よくある話とは
いえ、どうにもやるせない。
 久々に会った親友がまったく別人になっていたときの、あの寂し
さに似ている。人も街も同じ時を過ごす隣人のようなものなのに、
街は名前だけそのままで姿をころころと変えてしまうから。
 めまぐるしく移り変わる中身。それらと擦れてからからと乾いた
音を立てる器。後ろ向きに過ぎるが、私のイメージする街とはそん
なものだ。過去なんて振り返りもせず、大事な記憶にしがみつく人
間を置き去りにして、遥か未来へと駆け去ってゆく。
 なんて冷たい構造の中で、私は生きているのだろう。

44 :No.12 街 2/4 ◇rmqyubQICI:07/08/19 23:14:44 ID:i5b6WJgm
 午前九時過ぎ。電車を降りる私の顔は、仕事帰りのそれにもまし
て疲れ切っているように見えたことだろう。
 仕事が、会社の創立記念日だかなんだかで休みだったからだ。こ
ういう不意に訪れた休みというのは普通喜ばしいものなのだろうが、
私はどうも普通ではないらしい。貴重な夜更かしと朝寝の機会を無
駄にしてしまったかと思うと――、あぁ、鬱だ。
 そういえば昨晩、というか今日の明け方、酔いに酔った同僚から
電話がかかってきたな。そのときは迷惑にしか思わなかったが、な
るほど、今日が休みだからか。くそ、そこで気付いていればまだ救
いもあったのに。
 不毛な考えを巡らせながら、ふと右手の方を見てみる。すると昨
日までは見当たらなかったものが目に入った。派手な赤薔薇じみた
色の垂れ幕が下がっていて、そこに白い『新装開店』の文字がでか
でかと書き込まれている。
 スーパーなどの開店アピールにしてはえらく控えめだと思ったが、
なるほど、少し歩いて奥の方を覗いてみると、やや大きめのコンビ
ニ程度の店があった。
 少し視線を上げると、店の名前らしきものが流麗な筆記体でつづ
られている。これは何と読むのだろうか。フィレンツェ? フロレ
ンティア? それともフローレンスか?
 いや、まぁどこの国のつづりかなんてどうでもいい。どれも結局
イタリアのフィレンツェ市を指しているわけで、新築の店につける
名前として悪いものではないだろう。花の都の名を冠するからには、
やはり花屋の類いだろうか。
 とりあえず入ってみようと思い店の方へと歩み出す。しかし、不
意に頭をよぎったものが私の歩みを止めた。
 せっかくの休日だというのに、こんなところで油を売っていてい
いのか。私には帰って不貞寝するという急務があるではないか。あぁ
しかし、やはりこの店はどうも気になる。
 私はどうすればいいのだろう。

45 :No.12 街 3/4 ◇rmqyubQICI:07/08/19 23:14:59 ID:i5b6WJgm
「あのー……?」
 不意に声をかけられ、はっとして我に返る。すぐに顔を上げて声
の主を確認したい衝動に駆られたが、私はそれをどうにか堪えた。
くだらないことを考え込んで、どんな間抜けた面を晒していたのだ
ろうかと思うと――。まったく、何という不覚。
 正直、このまま大声で謝罪の言葉をまくしたてて逃げ出したい。
しかしそんな真似をすれば私は完全な不審者だ。ただでさえこの人
物が、私をどれほど訝っているか知れないというのに。
 こうなればもう強行突破しかない。よし、一か八か。
「あ、はは、どうもすみませんね。僕、新装開店の店を見るとつい
つい考え事をしてしまう癖がありまして」
「えーと……あの、それで?」
 駄目だった。あぁ、駄目だったさ。きっとそんな癖の奴いるはず
ないとでも思っているのだろう。そうだろうな、発言した本人だっ
てそう思ってるのだから。
「いや、だから、そのー……。ごめんなさい、本っ当に反省してま
す」
「はい? えーと、よく分からないけど……、うちの店にはもう来
ていただけないんですか?」
 つまり話は店の中で聞こう、ということか。どうしようか。いや、
どうにもならないか。しかし、私はそこまで不審に――
 ――『もう』来ていただけないんですか、だって?
「あぁ……。そうですよね、お店に入らないとね」
 まったく、私の思考というやつはどこまで愚鈍なのか。どうりで
会話が噛み合わないはずだ。よく見知った人物を、まったくの他人
だと思って会話していたのだから。
「えー……、じゃ、久々に見させてもらおうかな」
「はい。ゆっくり見ていってください。自慢の花たちですから」
 うすく茶色がかった長い髪が、朝の穏やかな日の中で踊るように
ゆれた。

46 :No.12 街 4/4 ◇rmqyubQICI:07/08/19 23:15:12 ID:i5b6WJgm
 いつもより花束二つ分重い荷物を抱えているというのに、帰宅す
る私の足取りは軽かった。それはもう羽のように、まるで天へと昇
るゴム風船のように。
 しかし、久々によい休日を過ごすことができたと思う。気分がい
つになく明るいせいだろうか。今朝とは人生観すら変わってしまっ
たようだ。
 人間が自分の大事な記憶を探り当てるように、街もまた、大事な
記憶を揺り起こすことがあるらしい。少なくとも私の大切な記憶は、
この街でまた、見つけることができた。
 いらなくなった記録の山からか、それとも堆積した過去の深い地
層からか、街はその記憶を掘り当てたのだ。街も、私と同じで恋し
かったのだろうか。そう思うと街というのはまるで一つの大きな生
き物のようで、妙な感動と親近感を覚える。
 私たちを包んでぐるぐると回り続ける、巨大な有機体。中身と器
が擦れて、からからと小気味よい音を立てる。
 あぁ、なんて居心地のいい場所なのだろう。
 まぁとりあえず、今は調子に乗って買ってしまったこの花束をど
うすべきか考えなければ。


   了



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