【 無縁仏 】
◆D8MoDpzBRE




105 :No.23 無縁仏 1/3 ◇D8MoDpzBRE:07/08/12 22:32:40 ID:JWAwekiB
 目の前に現れた女の姿を見て、高木義光は失望を隠せなかった。
「発見〜」
 疑いなくこの女が昨夜待ち合わせを約束した女その人であることを確定させる言葉が、かかるだらしのない
語尾と共に吐き出されたことで、高木を打擲した憤りがいよいよもって理不尽な暴力となり仰せた。
 思っていたよりも背の高い女であった。高木の背丈が百八十センチを越えていなければ、ヒールを履いたこ
の女との視線は逆転していたであろう。かかる背丈を以てなおヒールを履くことにこだわったこの女の浅はかさ
を、高木はその場でひとしきり憎んだ。
「行こうか」
 序盤にて早くも消え失せた戦意の欠片の一粒を辛うじて引き留め、辛うじて発することの出来たその一言を
以て高木は踵を返した。背後から迫る女の気配はもはや禍々しいものでしかなかったし、それから駆けだして
逃げることを許されれば即座にそうしたであろう。彼を縛り付けたのは、彼の側からこの女を誘ったというただ
一つの事実に対する拘りで、果たさねばならないと彼なりに考えた義理であった。
 渋谷の夜を埋め尽くした人いきれの中に、彼らの影もまた渾然と混ざり溶けた。向かう先の居酒屋は高木が
前もって予約していた。
 雑居ビルの地下へと続く階段を、高木は背中で女に対して降りるように促した。道中、高木は一度も女と顔を
合わせることがなかったし、顔を付き合わせることを恐れた。顔を見ることで音を立てて萎えていくだろう自身の
気持ちが、手に取るように分かったのである。
 だが、真向かいの席に座っては、いくら工夫を重ねてみたところでお互いの顔を包み隠すことはもはや不可
能となっていた。地下の居酒屋は薄暗く、女の顔をほの白く照らし出していた。能面のようだ、と高木は思った。
生え際が汚らしく黒くなった金髪が、出来損ないの獅子のお面をも思わせた。
「ビール二つ」
 女の希望も聞かず、通りがかった店員に高木が注文した。女は一瞬憮然とした表情を浮かべたかに見えた
が、最初の注文はビールでなければならないとする暗黙の文化があるのだろうという心得の元にであろうか、
すぐさま高木の無礼に対する追及をやめた。
 高木は一言も発さなかった。失望はいつしかやる方のない怒りに変化しており、相手にしてみれば謂われの
ない怒りであると高木に悟らせる程には残っていた理性が、何とか彼を寡黙に押しやるだけに留めていた。
 気まずい沈黙は、まず女の口を開かせた。
「今日は元気がない、のかな?」
「いや、別に……」
 高木はもはやほとんど人格が破綻したとしか思えない程にコミュニケーションが滞った。調子を合わせように

106 :No.23 無縁仏 2/3 ◇D8MoDpzBRE:07/08/12 22:32:55 ID:JWAwekiB
もテンションが一向に上がらないのは病的なほどであり、少なくとも酒の助けを借りずにこの危機的状況から
脱するすべはないように思われた。むしろ穏当に、この会が自然消滅することすら望んでいた。
 ビールが来て、二人は言葉少なに乾杯を交わした。高木は、中ジョッキに注がれたビールを一気に飲み下し
た。爽快な喉越しとはほど遠い苦味だけが、高木の味覚に対して鈍い不快感の刺激をもたらした。
 改めて、こんな女に声をかけてしまったことを後悔した。この女の何を知っているわけでもない。何の素性を
も知り得ぬ女に声をかける行為のことをナンパと言い、彼が行ったのは正に正規なる手段に則られたナンパ
に相違なかった。
 誤算は、昨晩の高木を酩酊させていた飲酒である。酔いつぶれたときの高木の悪い癖の一つが、どんな女
でもよく見えてしまうと言う素面に戻ったときの彼にとって許し難い犯罪的性質を持った悪癖である。随分と敷
居の低くなった彼の相貌鑑定を、この女は辛うじて通り抜けてきたのだろう。
 しかしながら、この女に何の落ち度もないことは高木も承知していた。だから、一応は飲食くらいは共にしな
ければなるまい。かかる義務感から女と会食にしているに過ぎないという、やはり女の側からすれば無礼極ま
りない論理の元、高木はこの席に着いているのだった。
「私の彼、三ヶ月前に事故で死んだの」
 どうでもいい話が始まった、と高木は心の中で舌打ちをした。通りかかった店員に追加でビールを注文すると
共に、ここに来て初めて女にメニューを勧めた。
「バイクと自動車の事故だった。私、その日はずっとバイトしてたから彼の最期には間に合わなかったんだけれ
ど、彼の御両親のお話とか聞いて、行かなくて良かったんだよって諭された。でも逆に、未だに彼が死んでい
ると言うことに実感が持てないし、携帯から着信があるような気がするんだよね。彼の携帯は彼の携帯でまだ
契約は解除せずに、彼の実家に置いてある。
 もう三ヶ月経って、そろそろ私も変わらなきゃとか思うんだけれど、一向にそんな気分がしないの。どうすれば
いい、って答えがあるものでもないと思うし、結局は私の気持ち一つなんだろうけれど、誘って貰ったのは一つ
きっかけになるのかな」
 女の言葉の全てが終わる前に、既に高木は戦慄を覚えていた。いよいよ面倒なことになった、と。アルコール
に思考を任せてしまったとき、高木の判断力が異常なまでに狂うことは疑念の余地がなかったが、万が一にも
引き当てないだろうと言うような貧乏くじに手を出してしまったという彼自身の運の悪さ、そしてそれらが重なった
偶然そのものを、高木自身呪わずにはおれなかった。
「ふうん、何となく分かるよ、いや、分からないかも」
 そうやって言葉を濁すのが精一杯であった。努めて不誠実に振る舞わなければ、身に降りかかる火の粉を払
うことが出来ないように思えた。

107 :No.23 無縁仏 3/3 ◇D8MoDpzBRE:07/08/12 22:33:14 ID:JWAwekiB
 出逢ってはならなかったのだ。高木はそう思った。
 女の話は、高校時代の思い出話へと飛躍した。バイク友達がどうのとか、高卒後の就職がどうのとか、大学
生活を満喫していた比較的優等生の高木にはどちらかというと無縁の話であり、そっち方面の人たちの間でし
か共有し合えないであろう価値観の押しつけを無意識の内にされているような女の話しぶりもあって、高木に
とってこの時間は耐え難い拷問の様相を呈していた。
 ひとしきり話し終えた後、長い沈黙をはさんで女が一言付け加えた。
「重い話で、ごめんね」
 結局、この話でその日の会食は散会となったのである。
 高木は、不毛にエネルギーを費やしたこの時間を、不思議と後悔しなかった。女の身を襲った不幸な出来事
も、つい先刻まで高木を苛んでいた気まずい雰囲気も、今となっては対岸の火事であった。
 だが、足取りは重かった。
 女の話は、高木に何の感慨をももたらさなかったばかりか、何ら教訓にもなり得なかった。ただ、後味が悪い
ばかりである。
 女を渋谷駅に送った。話を聞いて貰えただけで、果たして満足しただろうか。高木には分からなかったし、そ
んなどうでもいいことに今更思いを巡らせるだけ時間の損であるとも感じた。もう十分に、費やさなくても良かっ
た時間を費やした。
 何でもない出来事の向こう側に、どうでもいい人間の背後に、人の生き死にが見え隠れしていることの不気
味さを思った。相手の女からしたら高木も、どうでもいい人間の一人に過ぎず、そんな人間に己の不幸を洗い
ざらい吐露したところで彼女の人生がどう変わるわけでもない。相変わらず彼女の周りを、死んだ恋人の霊が
否応が無しに巡るのだろう。ひょっとしたらその霊の一部が自分の身に憑依したのではないかと考え、高木は
軽く身震いするような寒気を覚えた。
 人混みの中から見上げた頭上に、満月が光り輝いていた。真円は不吉の前兆か。そんなことばかりが頭を
巡り、やはりあんな女を誘ったのは失敗だったのだと高木はうな垂れるばかりであった。
 そう言えば、女の名前を訊いていなかった。どうせ、すぐ忘れるのだろう。名前を付けてしまえばあまねく物に
魂が宿ってしまうのではないかと言う根拠のない危惧が高木の脳裏をかすめ、ならばこの女は無名のまま忘
却の引き出しに閉じこめてしまうのがよい、と高木は思った。
 もう出逢うこともないのだから。

[fin]



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