【 白昼夢 】
◆twn/e0lews




82 :No.18 白昼夢 1/3 ◇twn/e0lews:07/08/12 19:43:24 ID:5kXIXUbr
 始まりと終わりが同じ迷路で迷うように、或いはドーナッツの上を歩くように――一緒に居たい――拒絶された――けれど一緒に――拒絶された――止められずに、続いた。
何分か、何時間か、果たして定かではないけれど、頭の中で続く事に疲れてしまって、手首を切った。
正確には、手首にある溝に切り込みを入れて、皮を剥いだ。
 現れた血を見て、習慣的に、洗面器に水を入れ傷口を浸す。
窓際に移り、ガラス越しの、少しだけ柔らかくなった陽を浴びて、傷口に意識を集中する。
白く、剥き出しになった肉を水が犯す。血液が流れ出るのと同じに、水は傷口を抉る様に侵入する。
背筋に小さな電流が流れる感覚と共に、唾液が、認識できる程に分泌される。
――気が付けば目論見通り、痺れるような痛みと流れ出る血液が逃げ道を作った。
 徐々に薄れていく左手の感覚の逆を行って、洗面器に張られた水は赤さを増していく。
全ての血液を搾り出してしまいたいとも思うけれど、量が多すぎたら、きっと、この独特な色は出来ない。
宝石の、サファイアだったか、それよりも薄く透明で、けれど芯を持った赤。
とても綺麗だから、彼女に、この色を見せてあげたい。血液だなんて事は知らせないで、この美しさだけを、ただ彼女に見せたい。
いや、もしかしたら、彼女はこの色を綺麗だと思わないかも知れないから、それならば、美しさに感動したこの気持ちだけを、幸福だけを、彼女の心に、そっと譲りたい。
 一本の太い線に収束した血液は模様を定める事無く水面を流れ、徐々に、赤を撒き散らすように存在を薄めていく。
赤く水面に示される流れは、昇っていく煙草の煙に似ている気がする。
煙草――思い出して咥えた。心地良い脱力感の中、浅く、そしてゆっくりになった呼吸で吸う。
意識の乖離は進行し、体の端から中心へ、四肢は浸蝕され、消えていく。
 首から下の感覚が完全に消えて、妙な事に、脳の活動を確かなものとして認識できる様になった時、ふと、眠くなった。
押し寄せてくる抗いようのない本能に身を委ね、目を閉じる。
目蓋の裏に見えたのは、絶え間なく、色と模様を変化させるアラベスク。
ぼんやり眺めていたら、唯一認識できていたはずの脳の活動すら忘れてしまって、水に溶けていく血液、映像に溶けていく意識、全てが混ざった。

83 :No.18 白昼夢 2/3 ◇twn/e0lews:07/08/12 19:43:40 ID:5kXIXUbr

 カーテンのように薄い膜が、白い波を映している。
散りばめられた様に存在を主張する小さな光の粒が、視界に飽きない程度の変化をもたらしている。
白痴のように眺めて、感動する事も無い。感覚が在るような、無いような、それすらも不確かだ。
光だけは、溢れていて、けれど何も無い、真白。そして、仄かに温かい。ほんの少し寒気を感じる体を温めるように、光は包み込んでくれる。
柔らかく、それは女性に似ていた。確かな質量ではない虚ろ気なそれは、触れているだけで落ち着く。
 ふと、光の中でも特別な、妙な温かさを背に感じて、それは彼女だ。
こんな風に、誰かに触られて、胸の奥まで溶かされるなんて、彼女以外に有り得ないから、彼女だ。
 彼女は、徐々に体の細部を伝え、肌の柔らかさも、手先の感触までも、はっきりと解る。
背中越しに、胸に手を回して抱きしめてくれる彼女の、乳房も、その奥の、心臓の鼓動にも似た、温かい何かも。
 彼女は何も言わずに包んでくれている。
肩に顎を乗せて、頬擦りする訳でもなく、ただそこに、熱を置いている。
振り返る事はせず、彼女の温もりを、柔らかさを、存在を、受け入れた。
 急激に胸が高鳴るのではなくて、波打っていた水面が鏡のように静まる幸福。
初めての経験だった。全ての思考や感覚から解放され、在るという無行為が幸福たる瞬間。移ろいがちな意識の全てを放り出して浸れる喜び。それを、彼女は与えてくれている。
光り輝く訳でなく、暗闇に染まる訳でなく、人は、感情の上下変動無くして、喜びを、幸福を、覚える事が出来るのだと知った。絶対の幸福論、愛という存在において。
情欲も、征服欲も、そこには有り得ない。在るのは愛という、どこまでも人肌な存在だけなのだ。
 悟った瞬間に、彼女が髪を撫でてくれた。
だから、彼女の頬を撫でた。吸い付くように柔らかく、そして温かい、どんな上物の絹でさえ及ばない程の肌。
愛という言葉を体現した、その存在。全てを、貴女に――。
 ゆっくり振り返って、彼女の顔を見た。光の中、確かな物は何も見えないけれど、そう、間違いなく彼女だ。
背に手を回して、抱きしめる。そうすると、徐々に彼女の質量は薄くなり、胸の中へ溶けていく。
彼女と、一つになる。全てを、ここで止めてしまえるのならばこれに勝る事は無い。
やがて、彼女は完全に胸へ溶け、真白な世界は唐突に消えた。


84 :No.18 白昼夢 3/3 ◇twn/e0lews:07/08/12 19:43:54 ID:5kXIXUbr
 ゴミと脱ぎ散らかした洋服が、やけに鮮明に、意識に入った。
洗面器を見ると、とろみを持った赤黒い物体が、金魚の糞の様に泳いでいる。血液が固まったらしい。
真っ赤に染まった水は、もう、透明感も何もない、ただの薄汚れた赤。
 太陽は雲に入ってしまったらしく、体が寒い。
溜息を吐く間もなく、脳の重さを自覚して神経は崩れていく。
呼吸は浅さも荒れ具合も酷く、心臓は力無く打っている。
食道から連なる肉のツタが一辺に口から出てきそうになって、けれど、嘔吐感はどうでも良かった。
 カミソリを求めて、洗面台へ這って進む。
今、どんな顔をしているのか、泣いているのかも知れないけれど、解らない。
鼻の下が濡れているから、きっと気色悪い顔だろう。
このままじゃ、また抜けられなくなってしまうから、洗面台へ。
 拒絶されてなお、愛おしい。
恥は意味を持たない程に、何より求めてしまう。
血液を流す事で彼女に会えるなら、こんなに安い対価は無い。
 嗚呼、愛し君よ、せめて白昼夢を。


                                    了



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