【 「ねこ」 】
◆.Drhm7kUMA




41 :No.10 「ねこ」 1/5 ◇.Drhm7kUMA:07/08/12 00:48:41 ID:5kXIXUbr
 昔の事を思い出した。あれは何時の日の事だったろうか。
ああ、そうだ。自分がまだ高校生だった時の出来事だ。


 高校からの帰り道、田んぼと住宅に挟まれた細い路地を自転車でノンビリ走っていると、
目の端に何かが映った。自転車のスピードを落としてそちらに目をやると、
雑草が点々と生える空き地の隅に、白・黒・茶の混ざった毛並みを泥で汚した猫が静かに佇んでいる。
 私の住んでいる地域は町の中心地から外れた住宅街だからか、
幹線道路から外れた安全な場所に野良猫が群れを作って生活をしていたりする。
だから、帰宅時に猫と遭遇するなんて事は日常茶飯事なわけで、
普段なら、猫かあと思う程度でそのまま走り去っていたのだと思う。
 でも、その日は違った。というより、その猫は違ったと言うべきなんだろう。

 私は空き地を通り過ぎてからブレーキをかけ、自転車を押して空き地まで引き返した。
自転車を道の脇に停め、警戒されない程度に近づいてじっとその猫を観察してみる。
すると、その顔に違和感の答えがあった。
 猫は左耳を失っていた。左耳があったであろう部分は血の赤で染まり、痛々しかった。
 野犬にでも襲われたのか、それとも同じ野良猫と争いでもしたのだろうか。可哀そうに、痛かったろうな。
そのようなことを考えながら猫を見つめていると、猫は私の視線に気づき、空き地の奥の方へ走り去ってしまった。
「あの子はこの空き地に住んでるのかな」
 そんなことを呟きながら、私は帰途についた。

42 :No.10 「ねこ」 2/5 ◇.Drhm7kUMA:07/08/12 00:48:56 ID:5kXIXUbr
 翌日、あの子は今日も居るかなぁと期待しながら空き地の前を通りかかったが、
期待に反しあの子は居なかった。そりゃあ猫なんだから、餌を探しに出かけることもあるだろう。
というよりそもそも、この空き地が猫の棲み処だと決まったわけじゃない。考えてみれば当たり前のことだ。
 色々と考えながら自転車をこいでいると、少し寂しくなってきた。
またあの子に会えるかな、耳の傷は今も痛むんだろうか、お腹空かしてないかな。
何かあの子にしてあげられる事は無いだろうか……そうだ、ミルクぐらいならご馳走してあげられる!
 野良猫に餌付けをするのは本来なら避けるべき行為なのかもしれないが、
当時の私は猫を助けてあげたいという気持ちでいっぱいで、地域の環境にまで考えがまわらなかった。
急いで家に帰って、ミルクを持ってきてあげよう。
「よぉし、待ってろよー、にゃもー」
 『にゃも』というのは、私が猫につけた名前だ。自転車をこいでいると不意に頭に浮かんだ。
おそらく、当時よく読んでいた漫画から猫っぽい言葉を選び出しただけなのだと思うが、
何だか響きがピッタリで可愛いと感じたので、特に不満は無い。いや、むしろ大満足だ。

 自宅に着くと私はカバンを部屋に投げ捨て、台所へ向かい冷蔵庫からミルクのパックを取り出した。
持ち運びしやすいようにキャップ付きのガラス瓶へミルクを移し、小皿も一緒に持ち、再び外へ飛び出す。
 自転車をこいで空き地を目指す間、私の心臓はトクトク高鳴っていた。
他人からすれば、ただ猫にミルクをあげるだけの事、何を緊張しているのかと思われるだろう。
確かに大した事じゃないと自分でも思う。
でも、そのとき感じたドキドキと暖かい気持ちは、とても心地良いものだった。今でもそう思う。

43 :No.10 「ねこ」 3/5 ◇.Drhm7kUMA:07/08/12 00:49:11 ID:5kXIXUbr
 空き地に到着し自転車を停めたとき、単純だけど重大な事実に気がついた。
ミルクを持ってきたは良いが、にゃもは空き地に戻ってきているのか。そもそも空き地はにゃもの棲み処なのか。
つい十五分ほど前に考えたことなのに、にゃもがおいしそうにミルクを飲んでいる風景の想像が
その考えを私の脳内から吹き飛ばしていた。
もうすぐ成人という年齢にまで育つ過程で自分の馬鹿さに気づいてはいたが、
改めて自分のストレートなボケっぷりを呪った。
 とはいえ、にゃもが空き地に戻ってきている可能性もある。改めて期待しながら空き地へ踏み込んだが、
またまた期待に反しにゃもは居なかった。空き地全体を見渡してみたが、生き物らしき影は見当たらない。
「んー、今日は来ないのかなぁ」
 肩を落としつつ空き地を出て自転車に近づいたそのとき、背後から草の動くかすかな音が聞こえた。
大いに期待しつつもゆっくりと後ろを振り返ると、そこにはいぶかしげにこちらを見るにゃもの姿があった。
 心の中で大きくガッツポーズをしながらも、私は勤めて冷静に自転車のかごへ目をやり、
ミルクの入ったガラス瓶と小皿を手にした。ゆっくりと空き地のほうへ足を伸ばすが、
にゃもは視線を私に固定したままじっと動かない。私はにゃもから一メートルほど離れた地面に小皿を置き、
あふれるギリギリまでミルクを注いだ。たっぷりお飲み、にゃも。
 しかし、にゃもは私に視線を合わしたまま頑として動かない。やはり、得体の知れない人間が
食物らしきものを持ってきたからといって、そうやすやすと近づく気にはなれないのだろう。
私はひとまず空き地から離れ、にゃもを見守ることにした。
 私が自転車のそばまで戻ると、にゃもは私に向けていた視線を初めて小皿に移し、
じっと食い入るように見つめた。ひとしきり小皿を見つめると、そろりそろりとごわついた足を小皿に伸ばす。
再び小皿を見つめていたにゃもだが、ゆっくりと顔をミルクに近づけ、泥の乗った鼻をヒクつかせて
ミルクの香りをかぎ始めた。目を細めて鼻をクンクンする表情が微笑ましくて可愛い。
香りをかぎ終わり、その白い液体が食物であると判断したのだろうか。にゃもはミルクを一舐めし、
味を確認したうえで勢い良くミルクを飲み始めた。
 小皿に入ったミルクをすべて飲み終わると、にゃもは満足そうに空き地の奥へ帰っていった。
その後姿を惚ける様に見つめた私は、小さな充実感を心に宿して家へと向かった。
小皿は空き地の端のほうに、そのまま置いておくことにした。

44 :No.10 「ねこ」 4/5 ◇.Drhm7kUMA:07/08/12 00:49:28 ID:5kXIXUbr
 それから時折、私はにゃもにミルクをご馳走するため空き地へ通った。
何度顔を合わせてもにゃもが私を睨み付ける事に変わりは無かったが、
にゃもがミルクを飲み始めるまでに私が離れなければならない距離は、少しずつ短くなっていたような気がする。
あくまでそんな気がするだけなのかもしれないが、もしそうなら嬉しいので、そう思うことにする。
にゃもは毎度、ミルクを飲み終わると颯爽と尻尾を翻しどこかへ去っていく。その後姿を見れるだけで満足だ。
 にゃもが姿を現さなかった日でも、ミルクを小皿に入れて置いておくと、翌日の朝には綺麗さっぱり無くなっている。
きっとにゃもがおいしそうに飲み乾したのだろう。

 にゃもを自分の家で保護できないだろうか、と考えたこともある。ミルクを届けているうちに、
情が深くなってしまったのだろう。にゃもの事を母さんに相談し、家で保護できないかと話してみることにした。
「片耳を失くして、辛そうな猫がいるんだ。何とか助けてあげたいと思ってるんだけど」
「わかってるとは思うけど、動物を飼うってのは大変なことなんだよ。死んでしまったときは辛いしね。
 それに、あんたは喘息持ちなんだから、動物を買うのは体にも良くないよ」
 そう、私は喘息を含め、酷いアレルギー体質なのだった。アレルギーを引き起こすアレルゲンとしては
埃などによるハウスダストが挙げられるが、抜け落ちた動物の毛もアレルゲンになる。
 以前、猫を六匹ほど飼っている友人の家に対策をしないまま遊びに行ったことがある。
その時は三十分も経たぬ間に呼吸が苦しくなり始め、一時間が経つ頃には鼻水が止まらなくなり、
二時間ほど経って帰ろうかという頃には目まで充血してくる始末だった。
たとえ一匹でも家で猫を飼おうものなら、年中マスクにサングラスをつけたまま寝起きしなければならないだろう。
不可能な話だった。

 ミルクを届ける以外のコミュニケーションが取れないまま、日々は過ぎていった。
最初は空き地の前を通るたびににゃもの姿を探していたが、探すのを忘れてそのまま帰ってしまう日が徐々に増え、
ミルクを届ける機会も無くなっていった。空き地に置いた小皿は、誰かが片付けたのか、いつの間にか無くなっていた。

45 :No.10 「ねこ」 5/5 ◇.Drhm7kUMA:07/08/12 00:49:41 ID:5kXIXUbr
 そしてある日、最近にゃもをまったく見かけていないという事にふと気がついた。

 気がついてから、学校からの帰り道ににゃもの姿を探すようになった。
空き地以外の場所でも、猫を見かけたときはその左耳を観察する癖がついた。
でも、にゃもは居なかった。左耳の欠けた猫は、どこにも居なかった。


 こんなことがあってから数年、私はそこそこ元気に暮らしている。にゃもは元気に日々を過ごしているだろうか。
……うん、にゃもの事だ。きっと元気に暮らしている。
あの鋭い眼光を振りまき、今日もどこかの街を闊歩しているのだろう。私も元気に頑張ろう。そう思った。



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