【 木造二階建下宿の大古車 】
◆59gFFi0qMc




65 :時間外No.02 木造二階建下宿の大古車 1/18 ◇59gFFi0qMc:07/08/07 09:59:41 ID:ACeolRhf
 蒸し暑くても寒くても、月夜は好きだ。
 下宿の裏庭に実験農園を陣取る、農学部の岡本ちゃんなら昼間がいいと言うに決まって
いる。だが、俺は工学部機械工学科だ。そんなものは関係ない。
 運転席のドアを開けた。昼間の熱気が顎の下から顔にかけてゆっくりと撫であげる。そ
れが澄み切った満月へ向かって抜けたところで、俺はゆっくりと乗り込む。
 かすかにきしむドアを閉めた。車内に昼間の熱がまだ染み付いている。手動ハンドルを
回して窓を全開にした。
「今日も熱かったですね、杉田様」
 声の方向へ視線だけを向けた。
 ぼんやりと輝く、淡い青色の和服を纏った女性が助手席に座っている。月明かりに透け
るような青く肩まで伸びる髪に、八ミリのボルトをイヤリングにしてぶら下げる。
 あまりにも現実離れしている姿に俺はちょっと可笑しくなる。
 実際、彼女は現実の女性ではない。

「最近、走ってませんね」
 か細く穏やかな声で彼女――しろさんと呼んでいる――は言った。
「そうだな、もうちょっと時間くれよ。マフラーの交換と継ぎ板あててボディの溶接をす
るから」
 この車を再び走らせることは困難だ。しろさんもそれはわかっている筈。しかし俺には
その単語が切り出せない。しろさんもそういった類のことを口に出さない。
 スズキ・初代フロンテが生まれてからもう三十六年経つ。ここまで稼働可能だっただけ
でも奇跡に近い。車の補修用に欲しい部品はいっぱいある。でも、メーカーはおろ
か解体部品ネットワークを使っても殆ど出てこない。たまに絶販車専門業者が忘れたころ
に丸ごと一台、凄い値段で売りに出すくらいだ。
「お昼、エンジンをかけていただいたじゃないですか。その時、ちょっとエンジンのガス
ケットとピストンがおかしく感じたのですが」
 両手を太ももに挟み、申し訳なさそうに俯き加減の横顔を俺に見せる。
「ガスケットはともかく、ピストンもか」
 俺はため息をついた。頭に右手を乗せて俯く。その拍子に鈍い痛みが走った。右手をそ
っと頭から離して手の平をじっと見る。

66 :時間外No.02 木造二階建下宿の大古車 2/18 ◇59gFFi0qMc:07/08/07 10:00:13 ID:ACeolRhf
 包帯が巻かれた手。一昨日、研究室の隣にある工作室で怪我したのだ。
 ピストンはおろかピストンリングですら一年以上入手できていない。今のままではエン
ジンのオーバーホールは不可能だ。学校の工作機械を駆使すればいけるかもしれない。だ
が、車の修理個所、部品交換が必要なのはそこだけじゃない。他にもいっぱいあるのだ。
「杉田様」
 しろさんの声に俺は助手席へ顔を向ける。そこには俺を見つめる穏やかな表情のしろさ
んがいた。固く目を閉じ、俺は歯を食いしばった。
「すまん、最大限の努力はする」
 自分が情けなかった。
 朽ちるまで空き地へ放置しようとしていた親へ、俺は絶対に維持しつづけてやると宣言
してこの車を下宿へ持ち込んだ。大学一年の夏だ。それから間もなくしろさんの存在に気
づいた。全然怖くなかった。俺が好きな車の精霊なら悪いことはしないと信じていたから。
 実際、しろさんは何も悪いことなんてしなかった。
 だが、ろくに車を動かさないうちにあちこちが壊れ始め、今や壊れる頻度が修理のペー
スを上回っている。普通の車なら部品を取り寄せて一気に交換すればいいが、俺の車の場
合は使えそうな部品探しから始まる。純正部品は既に存在しない。修理に物凄い時間と金
が必要だ。
「気にしないで下さい」しろさんは再び前方を向き直した。「私は人に作られましたから、
壊れて廃棄になるのが運命です。無理をしないでください」

 月夜の空がぼんやりとした水色の空に姿を変えていく。
 運転席のしろさんは、その姿を霞ませていく。
「杉田さん、無理をせずに。人間として、もの作りの立場で私を扱ってください」
 今にも消えそうな声でしろさんはそう言い、小首を傾げて微笑んだ。だんだんと淡い夜
明けの光に薄れていき、やがて見えなくなった。
 いつもこんな感じだ。月夜にだけ姿をみせると大学一年の夏に約束してから。
 普通の人にしろさんの姿は見えない。しろさんが見せてくれないと俺にも見えない。
 運転席から降りた。両腕を一杯に伸ばして深呼吸をする。
 本日はこれで終わり。月夜は無限に続く、いくらでもしろさんへ会える。

67 :時間外No.02 木造二階建下宿の大古車 3/18 ◇59gFFi0qMc:07/08/07 10:00:29 ID:ACeolRhf
 早朝、この時間になると必ず会う奴がいる。 
 競泳パンツに真紅のアロハシャツ、麦藁帽で剪定バサミを握る男、それが大小二人で木
造二階建の玄関から出てきた。小さい方は農学部一年生の高橋だ。そしてもう一人へ向か
って俺は手を挙げた。
「岡本ちゃん」
 彼は最近トランクス一枚で敷地内をうろうろしていたのを大家さんに咎められた。それ
からまもなく”敷地内トランクス徘徊禁止令”を下宿中に発布され、岡本ちゃんは激怒し
た。そこで彼はトランクス徘徊愛好家を数名集め、競泳パンツ姿で闊歩するという報復行
為を実行中なのだ。
 報復の効果は確かにある。近所でも「あのお兄さん、大きいのは農園で育てるお野菜だ
けかと思ってた」と井戸端会議のネタにされている。間もなく大家さんからの再攻撃があ
るだろう。
 健闘を祈る、俺には到底理解できないが。
「杉田、その車ってスズキフロンテだよな?」
 岡本ちゃんはそう言って、顎を人差し指と親指でつまんだ。
「そうだけど。車は全然わかんないって言ってたのによく知ってるな?」
「車に限らず機械は苦手だけどコイツだけは知ってる。昔、地元で山林王と呼ばれている
知り合いのおっさんがいてな、コイツにステッカー貼りまくった奴をよく林道で走らせて
たんだ」
 そう言ってから両腕を組んで何か考え込む岡本ちゃん。俺が「今日のお勧め野菜は?」
と尋ねると、剪定バサミで裏庭の方向を指し示してきた。一緒に実験農園へ行こうという
ことらしい。
 三人が並んで裏庭へ向かう。その間、岡本ちゃんと高橋は夏のバイトをどうするかで言
い合っていた。岡本ちゃんがバイオハザードマークつき研究施設のバイトをごり押しして、
高橋は真剣な顔で拒否する。
 この二人は仲がいいのか悪いのかさっぱり分らない。農学部は上下関係が厳しいと学内
でも定評がある。よくいわれるのは、四年神様一年奴隷だ。それからすると、この二人は
比較的上下関係がゆるいような気もするし、ガム一個のお使いをやらされる高橋を見たこ
とがあるから厳しい気もする。本当のところはどうなのだろう。

68 :時間外No.02 木造二階建下宿の大古車 4/18 ◇59gFFi0qMc:07/08/07 10:00:44 ID:ACeolRhf
 裏庭へ出た。
 実験農園というだけあって伸びる野菜達に統一感はない。見たこともないような果物が
ぶらさがる木もあったり真っ赤な野菜らしきものが伸びていたりと、ちょっとした植物園
状態だ。
 少し離れたところでキウイのようなツルをいじり始めた高橋を確認し、岡本ちゃんの傍
へ寄って小さな声でささやく。
「植物を育てると愛着って湧くか?」
 多分、何かにすがりたかったのだと思う。変な格好をしているが俺とタメ年だ、同じ下
宿で古株でもある彼しかこんな事を聞ける奴なんていない。
 意外そうな顔を浮かべ、岡本ちゃんは俺の顔を見つめた。
「俺は、愛着を持たないようにしている」
 二百坪の実験農園を事実上岡本ちゃん一人で切り盛りしているのだ。近所へ野菜を配っ
たり、物々交換をする時は種代と肥料代しか貰っていないとも言っていた。そんなのって
機械的にできる作業でもないと思うのだが。
 目を細くしながら岡本ちゃんは口を開いた。
「俺ってあくまでも生産者じゃん、農家の息子だし。だから生産者は商品作物を売るのが
筋だけど、場合によっちゃあ捨てたり切り倒したりしなきゃならん訳よ。かわいそうだと
思って捨てずにいれば家を潰す場合だってある。捨てるときは捨てる、これを冷酷に実行
できなければ農家として次が無いからね」

69 :時間外No.02 木造二階建下宿の大古車 5/18 ◇59gFFi0qMc:07/08/07 10:01:02 ID:ACeolRhf
 俺は、その言葉を唇だけ動かすようにして反芻する。
 ”捨てるときは捨てる”
 岡本ちゃんはトマトの畝の前へ立って黙々と収穫を始めた。
「水分飢餓で育てたから下手な果物より糖度あるぞ」
 その冷静な岡本ちゃんへ、もうひとつだけ聞いてみようと思った。
「なあ、植物に精霊が宿ったりすることってあるかな?」
「馬鹿かお前は」岡本ちゃん眉を潜めた。「ウチのじいさん連中は”人の思いが強ければ
精霊を呼ぶ”って言ってたけどな。たまにじいさんも”お光さま”って地元で呼んでいる
光の塊を見かけるらしくて、どうもそれが精霊なんだと。真昼間でも見えるらしい。でも、
そんなのに来られると迷惑だよ。収穫なんか怖くてできなくなっちまう」
 岡本ちゃんは口元だけで笑った。
 光の塊、か。
 月夜のしろさんは、全身が輝かせながらはっきりとした姿を見せる。それはしろさんが
俺に姿を見せようとしているからだ。もし能力があれば昼間でも岡本ちゃんの言う”光の
塊”が見えるのだろうが、昼間のしろさんを見えたことも感じたこともない。俺には元々
精霊を見る能力なんて無いのだろう。

 その日、研究室へ行くフリをして隣の工作室へ入った。無論、車の修理をするために部
品を加工するのだ。
 忌まわしきボール版で俺は鉄板の穴あけ加工を開始した。
 寝不足だったのだろう、回転止めと呼ばれる安全治具をセットし忘れていた。ドリルと
一緒に鉄板が回転し、包帯の上から右手を切られた。先週と同じ怪我を再び同じ手でやっ
てしまったのだ。
 医療室から研究室へ戻ってすぐ、教授から「当分の間、工作機器の使用を禁止する」と
言い渡された。
 研究室の帰り道で、電柱を目一杯の力で蹴り飛ばした。
「くそ!」
 足の親指が痛む。変な当たり方をしてしまったようだ。少し片足をひきずりながら下宿
への道をゆっくりと進む。
 最悪だ。これで当分の間、修理用の冶具や部品を作ることができなくなった。

70 :時間外No.02 木造二階建下宿の大古車 6/18 ◇59gFFi0qMc:07/08/07 10:01:18 ID:ACeolRhf
 雲ひとつない月夜。
 俺は、二階の自室で窓から空を見上げる。目に焼きつかんばかりの真っ白な月。しろさ
んが現れる時間だ。
 邪魔くさい包帯にもたつきながらジーンズを履き、ボーダーシャツを着てサンダルを両
足で引っ掛ける。他の連中に気づかれないよう、急いでそっと廊下を進む。砂混じりの埃
が踏みしめる度にジリっと鳴った。その度に歯軋りしながらそうっと足を運ぶようにする。
 階段を降り、玄関をそうっと抜けた。庭の景色が青黒く見える。周囲に伸びる木々の影
が青黒の物凄いコントラストで広がる。
 駐車場から青い光が漏れている。しろさんだ。
 俺はいつものように、運転席側のドアを開けた。
「お待たせ」
 小さな声で俺は言った。
 だが、しろさんはフロントガラスの向こうを見つめたまま、沈黙を保っている。
「どうした」
 俺はもう一度尋ねた。やっとしろさんは俺を振り返った。
「その手、どうしました」
 眉を潜め、厳しい口調でしろさんは俺へ言った。
「別に」
「もうやめてください」しろさんは俺から視線をそらせ、眉間に皺を寄せ、きつく目を閉
じた。「私を直すために努力されているのは感謝します。しかし、その結果貴方は際限な
く苦しんでいる。昨日も私は言いました、工業製品として私を扱って欲しいと」

71 :時間外No.02 木造二階建下宿の大古車 7/18 ◇59gFFi0qMc:07/08/07 10:01:33 ID:ACeolRhf
「しかし」
「幸せになって欲しいのに、工業製品の私が貴方を苦しませている」
 一瞬、俺の心臓が強く鼓動する。彼女へ何も言い返せなかった。
「もう、勘弁していただけませんか」しろさんは助手席の背もたれに強く背筋を押し付け、
天井を仰ぐように顔を上げた。「限界なのです。私は三十五年の間、動きつづけれること
ができました。もう充分です、私は満足しています。杉田様はまだ許して頂けませんか?」
 震える声でしろさんは言った。
 今まで無事だったエンジン系統も駄目になりつつある。もし、エンジンをかけないよう
にして温存を図ったところで他の部位が壊れるだろう。俺にだって分かっている、絶望的
なイタチごっこを続けている現状を。
 だからといってしろさんを捨てろというのか?
「俺は、しろさんを工業製品とは思っていない。だから朽ち果てるまで修理維持する」
「それまで延々と、私に無様な姿を晒せと?」
 俺は目を大きく開いた。
 助手席のしろさんへ顔を向けると、彼女は唇に力を入れ、厳しい目つきで彼女は俺を見
ている。
 月の光が運転席と助手席に差し込む。しろさんの和服姿がなおのこと青白く見える。耳
元の八ミリボルトがかすかに光った。
 一体、しろさんの何がここまで死へと急がせているのか。俺には分からなかった。

72 :時間外No.02 木造二階建下宿の大古車 8/18 ◇59gFFi0qMc:07/08/07 10:01:49 ID:ACeolRhf
 夜明けを迎え、しろさんは姿を消した。
 例によって例のおっさんが玄関から出てきた。今日も二人組だ。玄関前のアプローチ部
分で二人は雑誌を開き、座り込んで指差したり言い合ったりしている。
 俺は運転席から降りた。近づいてその雑誌を見るとコンビニなんかで無料配布している
バイト雑誌だと分った。
 俺はつとめて笑顔を作り、口を開いた。
「高橋のバイト、まだ決まってないの?」
「こいつ、都内じゃ嫌なんだと。せっかく長期の休みがあるから遠くがいいらしい」
 岡本ちゃんは両手を左右へ伸ばして首をすくめた。
「日雇いならいくつか紹介しようか?」
「いや、もう目星はついてるからいい。それよりお前の車、やばいのか?」
 一瞬、何を言っているのかわからなかった。周囲には「ちょっと調子悪いから乗ってな
い」とは言っている。このままだと駄目になるとは言っていない。
「何がやばいって?」
「いや、何となく。もう駄目になりそうなのかなって」
「もし駄目になったら。岡本ちゃんだったら捨てるか? 車じゃなくてもいい、例えば花
とか」
「俺なら捨てる。というか肥料にするだろうけどな」岡本ちゃんは天気を語るように何気
ない口調で即答した。「車ならリサイクルの原料かな」
「愛着があってもか?」
「そりゃそうだろ。形がありゃあいいってもんじゃないし。匂いがして美しくて、やがて
枯れていくから価値がある。それが嫌なら百円ショップで造花でも買って来いってんだ。
そんなの馬鹿だと思うがね。俺なら枯れるまで飾ってやって、それから次の世代への礎に
する」
 車の場合、造花に相当する姿とはどういうものだろうか。多分、ボディとタイヤだけ残
せばそれなりに見えるだろう。
 エンジン音が唸ることもなく、潤滑油は一滴も流れない。
 それが車か? んなもの、車じゃない。
 二人へ背を向けて俺は顔をしかめた。両腕で拳を作り心の痛みに耐える。
 理屈ではそれに納得できると思う。だが、理屈でしか納得できない。

73 :時間外No.02 木造二階建下宿の大古車 9/18 ◇59gFFi0qMc:07/08/07 10:02:06 ID:ACeolRhf
 少し前から排気管に穴が空いている。エンジンをかけるのにも気をつかっていたのだが、
最近になって格安中古バイクのマフラーとサイレンサーを見つけてきたので、なんとか取
り付けようと早速車体下へ潜る準備を始めた。車とバイクとではそのまま装着できる筈も
ないので、どのくらい合わないのかを確認するためだ。
 車体下でもっとも強度のある個所、ジャッキポイントへ油圧ジャッキを当てる。そして
レバーを手こぎボートのように何度も上下させて少しずつ持ち上げていく。段々と車体が
持ち上がり、そろそろいいかなと思ったその時。
 物凄い金属音が俺の耳を直撃した。
 まるで無音の世界へ飛び込んだかのようだ。下宿の窓が数箇所開き、何人かがこっちを
見下ろし、口をパクパク開くのが見えた。
 轟音による鼓膜の麻痺は数分続いた。
 段々と周囲の音が聞こえ始めたところで車体へ視線を向けた。ジャッキで持ち上げたは
ずの車体が幾分低くなっている。
 おかしい。
 普通の車ならジャッキが壊れたと推測する。が、これは三十五年前の車だ。
 最悪の想定で頭の中が一杯になり、頬が冷たくなるのを感じた。その想定が杞憂である
ことを願いながら、地面へ耳をつけるようにして車体の下を覗き込む。
 ジャッキをあてがったところが陥没し、そこを始点に真っ直ぐ二本のヒビが走っている。
陰になっているのでどこまで続いているのかは分らないが、相当な長さで続いている。
 「車体が割れちまった」
 全身から力が抜けた。
 地面へケツをつけて座り込む。体育座りの姿勢で膝と膝の間へ顔を埋めた。歯を食いし
ばり、湧き上がる感情に必死で耐える。
「くそ、もうジャッキアップに耐えられないのか」
 下手をすると、四本のタイヤでも車体を支えられなくなっている可能性もある。ジャッ
キアップしなければ整備や修理ができないものもある。それができないということはしろ
さんを二度と走らせられないことを意味する。
「ここまでか」
 木造二階建下宿は今、セミの鳴き声に覆われている。
 そこへ、僕の嗚咽を紛れさせた。

74 :時間外No.02 木造二階建下宿の大古車 10/18 ◇59gFFi0qMc:07/08/07 10:02:26 ID:ACeolRhf
「杉本、頑張ってるな」
 岡本ちゃんの声だ。とっさに声の方へ顔を向けた。玄関前で午後の作業準備をしている
ようだ。よかった、高橋はいない。
 少しためらったが、思い切って口を開いた。
「俺、この車を捨てる。修理不能にしちまった」
 そう言ってから無理に笑い顔をつくり、岡本ちゃんをじっと見つめた。
 岡本ちゃんは少し眉を吊り上げて驚いたようだったが、やがて穏やかな表情へと代わっ
ていった。
「でも、かなりいじってたんだろ? その車」
「もう俺の力では二度と公道を走らせられない」
 吐き捨てるように俺は言った。
「そうか」岡本ちゃんは顔を伏せ、再び顔を起こしてから口を開いた。「それじゃあひと
つ俺の頼みを聞いてくれないか? 俺の知り合いにフロンテ好きな人がいるんだ。ほら、
レースやってたって人。杉本がいじりまくってる車のことを言ったら、”もし手放すこと
があれば売って欲しいと伝えてくれ”って頼まれたんだ。もっとも無理にとは言わない。
お前が嫌ならいいし、お前の言い値で買わせることも可能だ」
 恐らく部品取り用に使うのだろう。原型をとどめないほどバラバラにされる。白い歯を
見せて笑う岡本ちゃんに憎しみを感じた。
 だが、しろさんの言葉と岡本ちゃん自身が言っていた言葉を思い出した。
 ”次の世代への礎にする”
 別の車が生き延びるための礎なのだ。溶かされるよりは幾分いい礎のような気がする。
これはこれで岡本ちゃんの思想としては正しい。彼なりに気を使っているのかもしれない。
感情的には決して許せるものではないが。
「諸経費を丸々そっちで持ってくれれば、他は何もいらない」
 そこまで言うのが精一杯だった。
「OK。それじゃあ知り合いに連絡する」
 岡本ちゃんは二階建下宿の奥へと姿を消していった。
 その日の夜、しろさんは助手席に姿をあらわさなかった。
 だが、これでいい、と思った。
 多分、出て来てもしろさんを苦しめる自分にのたうちまわるだけだったろう。

75 :時間外No.02 木造二階建下宿の大古車 11/18 ◇59gFFi0qMc:07/08/07 10:02:43 ID:ACeolRhf
 引き取りの日が来た。
 夜明けからずっと僕はスズキ・フロンテの前で待っていた。
 大きなトラックがやって来て男が運転席から降り、そこへ玄関から岡本ちゃんが駆け寄
っていった。しばらく話し合ってから岡本ちゃんは俺のところへ来た。
「今から運び出すそうだ。キーをくれとさ」
「でも、車体が割れてるんだぞ。乱暴にやると」
「それも言ってある。そしたら”かなりいじってる車だったら、そんなのはどうでもいい”
とさ」
 やはり部品取りにするつもりか。俺は再び憎しみのような感情が湧きあがってくるのを
感じた。
 積み込むまでの準備には時間をかけていた。が、積み込み自体はほんの数分で済んだ。
青いシートを素早く車へ被せ、再び岡本ちゃんと二言三言交わしてからトラックは走り去
っていった。
「終わったな」
 俺と一緒にトラックを見送る岡本ちゃんが言った。
「ああ」
 俺はポケットから煙草を取り出した。普段は吸わない。酒も飲めない体質だから、これ
より他に憂さの晴らしようがないだけだ。
「珍しいな。じゃあ俺にも一本くれ」
「お前、煙草なんて吸ったっけ」
「線香の代わりだ」
 その言葉に煙草を握る俺の手が止まった。
 一本つまもうと岡本ちゃんが手を伸ばした瞬間、渾身の力で俺は煙草を握りつぶした。

76 :時間外No.02 木造二階建下宿の大古車 12/18 ◇59gFFi0qMc:07/08/07 10:03:00 ID:ACeolRhf
 それからも夜明け前後には起きる習慣だけは体から抜けず、相変わらず俺は岡本ちゃん
の早い朝をぼうっと眺める日々が続いていた。
 全て終わったことくらいは認識している。右手の包帯ももう外れた。俺だって、伊達に
二十二年生きている訳ではない。苦い思い出が風化することくらいは経験している。俺が
抱いている大きな思い出もいつか風化するだろう。それまでは仕方が無い。
 そんなある日。
 早朝からディーゼルエンジンの音が聞こえてきた。
 このあたりは住宅街で、幹線道路の抜け道でもないから大型車両は滅多に通らない。
 まさかな。
 俺は、首を左右に振った。
 そのディーゼルエンジンの音はますます大きくなり、やがて安っぽいブザーの音が間欠
的に響きはじめた。どうやらバックしようとしているようだ。
 俺は木造二階建下宿の玄関から飛び出した。なぜそうしたのかは分らない。
 トラックのケツが門前からこっちへ入ろうとしている。
 荷台へ視線を向けた。ブルーの幌に包まれている大きな塊がふたつ、小さな塊がいくつ
か乗っている。
「ふたつ?」
 無駄な期待とは、しろさんが俺のところへ戻ってくることだ。だが、俺の車なら塊はひ
とつだけのはずだ。こんなに大所帯の荷物ではない。
 誰か引越してくるのか? 恐らくその可能性が一番大きい。
 競泳パンツの男が二人、トラックへ駆け寄るのが見えた。岡本ちゃんと高橋だ。
「杉田! ちょっと来い!」
 俺の方を振り返って手招きをする岡本ちゃん。
 まさかな。
 俺は無駄な期待を胸に秘め、もうひとつの心でそれを押しとどめながら足を進めた。
 岡本ちゃんに指示されるまま、トラックの荷台へよじ登った。そして言われるまま幌を
めくった。

77 :時間外No.02 木造二階建下宿の大古車 13/18 ◇59gFFi0qMc:07/08/07 10:03:18 ID:ACeolRhf
 そこにあるものは、俺が期待していたものではなかった。大人の腕ほどの太さをもつ銀
色のパイプ。それを曲げたり溶接したりで格子状に組まれた構造物であった。だが、その
構造材が何を意味するのか俺には分かる。気が付くと、両手が作る握りこぶしが真っ白に
なっている。奥歯を噛み締める力も目一杯だ。
「杉田、俺には分らんがこれで直せそうか?」
「まさか岡本ちゃん」
 嘘だろ。まさかこんな物が。
 岡本ちゃんはもうひとつの大きな幌をめくった。
 俺の車、スズキ・フロンテがそこに鎮座している。
「一旦Y県にある知り合いの解体屋まで持って帰ったんだ。だけどな、俺が”かなりいじ
ってる”というのを”かなり改造してある”と勘違いしていたらしくて。改造部品を期待
してたら限りなく純正部品でフルノーマルだったから、逆に勿体無くて手をつけられない
ってさ。それで、同じ車マニアへ応援の気持ちを込めて少しプレゼントつけて返すって」
 岡本ちゃんは口の端をゆがめて笑った。
「少しって」
 そんなレベルのプレゼントじゃないだろ、これは。そこにあるパイプは市販車を大改造
してレース車両へ変身させるためによく使う、パイプフレームと呼ばれる骨組みだ。普通
の車は薄い鋼板で包むように車体を作っているが、パイプフレームにすると強度と軽量化
の両方で向上が見込まれる。
「エンジンはキモの部分だけ部品交換しといたって言ってた。後は部品やるから自分でや
れってさ」
 嘘だろ。
 それは口で言うほど簡単なものじゃないし、お金もかかる。精度の必要な部品が多いの
だ。おまけに純正部品が入手できなくなって二十年経つ今では交換できる部品なんて殆ど
存在しない。他の車から部品の移植ができないものだってあるのだ。
「この書類を渡してくれってさ」
 スーパーのビニール袋に詰まった紙の束を岡本ちゃんが無造作に突き出す。
 俺はそれをおそるおそる受け取り、そのうちのひとつをつまんで引っ張りだした。スー
パーのチラシ裏面にボールペンで色々と細かくかかれている。車のどこを何と交換したか
を書いてある、交換部品一覧表だ。

78 :時間外No.02 木造二階建下宿の大古車 14/18 ◇59gFFi0qMc:07/08/07 10:03:34 ID:ACeolRhf
 読み進めていき、メーカー名のところまで来ると紙をつまむ指先に力が入った。
「ロッキード、ソレックス、ウェーバー……これ、レース用部品の……」
「純正部品は手に入らないから、大昔に買っておいたレース用部品で交換したってさ。元
々レースをやってた親父だから、逆にその手の部品は置く場所が無くて困ってるって」
 他の紙もつまみ出した。それら部品の図面だ。今度壊したらこの図面で部品を発注しろ
ということか。
 顔をあげて岡本ちゃんを見つめる。
「本当にいいのか?」
 ひとつひとつの部品が二桁万円の代物だ。勿論完全修理には部品を特注するしかないと
薄々は思っていた。だが、こんなレース用部品メーカーへ特注するなんて俺は想像だにし
ていなかった。
「それよりも、これだけの部品を使って修理するにゃあ一年はかかるって知り合いが言っ
てたが、それだけの覚悟ができるか? 無いなら返してくるぞ」
 覚悟というのは、俺が四年だから卒業までに時間が無いことを指しているのだろう。
 やり残したことがあるからと岡本ちゃんは大学院へ進学した。そのチャンスを得るため
の院試はとうの昔に終わってる。今からだとこの下宿で修理を続ける方法なんてひとつし
か残っていない。
 簡単だ。
「岡本ちゃん、俺、留年するわ。今日からは研究室へ行かない」
 軽い調子で俺は言った。
 間違った判断かもしれない。でも、まだ人生は長い。一年くらいの回り道がどうしたと
いうのだ。
 心が軽くなるのを感じた。今、俺は最高に楽しい。

79 :時間外No.02 木造二階建下宿の大古車 15/18 ◇59gFFi0qMc:07/08/07 10:03:49 ID:ACeolRhf
 トラックが早々と引き上げ、俺と岡本ちゃんは車の前で立っていた。
「最初はな、俺も部品取りの道しかないかなと思ってY県の知り合いに引き取ってもらっ
たんだけど、現物をチェックした知り合いはパイプフレームでボディ復活とか、車を知ら
ない俺にもはっきりと分かる、景気のいいことを言うわけよ」
 競泳パンツの裾を引っ張り挙げながら岡本ちゃんは口の端で笑った。
「それで?」
「交換すべき部品を全部タダでくれ、くれないとカラスを大繁殖させるぞって脅かした。
そいつ、果樹園も持ってるしな。だけどそれにも動じなかったんで、今度は山林の維持に
困ってるだろうと思って、高橋をバイトで派遣するって切り出したんだ」
「あれ? そういえば高橋は」
 ここ数日、姿を見かけない気がする。
「知り合いの山林で下草刈りをやってる。採算取れるレベルでのバイト代じゃあ誰も下草
刈りってやってくれないんだよ。凄まじくキツいから。本当困ってたから高橋を生贄に差
し出したらえらく喜んでくれて。それがあの部品テンコ盛りの理由」
 手の平を額に当てて俺は首を二、三度振った。

80 :時間外No.02 木造二階建下宿の大古車 16/18 ◇59gFFi0qMc:07/08/07 10:04:05 ID:ACeolRhf
 こいつと高橋の関係ってやっぱり主人と奴隷だ。一歩間違えたら人身売買レベルじゃな
いか。すまん、高橋。お前はつるむ先輩を間違えたんだ。あきらめてくれ。
 突然岡本ちゃんは立ち上がり、実験農園の方へ姿を消していった。
 どうしたんだろ、と思っていると岡本ちゃんは手に白バラを握って戻ってきた。
「おい、こいつを持って記念写真を一枚撮ろう。花束にしてやりたかったけど、先日大量
に切っちまったからな。一本しか残ってなかった」
 照れくさそうに岡本ちゃんは言った。
 邪魔くさいな、と思ったが、最終的には岡本ちゃんのお陰で車を再び走らせる目処が立
ったのだ。冷酷な一面も見せてはいたが、あれはあれで彼の思想なのだろう。
 早速、撮影会へと突入した。
 運転席だと逆光になるから助手席へ座れと指示してから、岡本は車の周りをぐるぐると
回り始めた。
「バラを……そうそう、もう少し腕を伸ばせよ」
 使い捨てカメラで、やたらと細かい注文をつけるカメラマンだ。
 表情をぎこちなく微笑ませ俺は、なんとか岡本の言う通りに従った。
「はいチーズ」
 安っぽいプラスチックの音がかすかに聞こえた。

81 :時間外No.02 木造二階建下宿の大古車 17/18 ◇59gFFi0qMc:07/08/07 10:04:21 ID:ACeolRhf
 その日の夜。
 助手席が光っている。
 俺は早速運転席へ乗り込んだ。
「お帰り、しろさん」
 自分でも笑顔になっているのが分かる。
 しろさんは俺へ顔を向けた。
「杉本様、戻ってきてしまいました」
 幾分紅潮させた笑顔で目を潤ませながら言った。
 彼女の態度には色々と疑問をもっていた。でも、この表情を見た瞬間、そんなことはど
うでもいい、もうこの瞬間で充分だと思った。
「……あれ、その格好」
 俺はしろさんの大きな変化に気づいた。
 確か青っぽい着物を着ていたはずだ。それが今は青っぽい薄手のキャミにジーンズ。足
元はサンダルっぽいけど、ミュールか? おまけに髪型も肩で切り揃えていたはずが、シ
ョートボブに変身している。着物の時は気にならなかったが、しろさんがいかに真っ直ぐ
なボディラインなのかがよく分かる。
「変……ですか?」
 頬をほんのりと桃色に染めてしろさんが困った顔を見せる。
「いやいやいや、着物もいいけどキャミ最高」
 俺は親指を突き出した。
 理由はすぐに思いついた。部品が相当入れ替わっているのだ。今時のレース用部品へ。
だからしろさんも今時の姿へ変わったのだろう。
「Y県の工房で修理されている間、少しずつ服とか髪型が変わっていったんです」
 耳もとの髪をかき上げながら、困ったようにしろさんは言った。
 そりゃそうだよな。しかし、これからパイプフレームへ大改造とかいろいろと控えてい
る。いきなり鼻ピーなんてことになったらかなり嫌すぎる。少しずつ様子を見ながら修理
を進めた方がいいな。
「ところで、岡本さんって素敵な方ですね」
 しろさんは助手席で笑いながら言った。

82 :時間外No.02 木造二階建下宿の大古車 18/18 ◇59gFFi0qMc:07/08/07 10:04:38 ID:ACeolRhf
 何だと? 俺には納得がいかない。多分にジェラシーもあるのだろうが、あいつに素敵
という単語がくっつくことに納得がいかない。キモいとかウザいとかなら分かる。
「ぜひ教えてくれ。どこに素敵と呼ばれる要素があるのか」
 後輩の高橋を売り飛ばした男にそのようなものがあるのかどうか、本当に知りたい。
「本当に杉田様、知らないんですね」しろさんは右手で口元を押さえ、小さく声を出して笑っ
た。「夕方ごろ岡本さんから記念写真をもらいましたよね?」
 物凄く楽しそうでいたずらっぽい笑顔を俺へ近づけた。
「ああ、確か」
 ジーンズのケツ側ポケットに入れていた。少し腰を浮かせて封筒をつまみ出した。
 茶色い封筒の中に固い紙の感触がある。こいつだろう。
 封筒の中へ指先を突っ込み、中のものをつまみ出した。運転席と助手席の間くらいにそ
れを差し出して俺としろさんとが顔を寄せ合って写真を見る。
「ね、岡本さんって素敵でしょ?」しろさんはおなかを両手で押さえて笑い出した。

 狭い助手席で、俺と肩をくっつけるように青白く光るしろさん。白バラがちょうどしろ
さんの目の前に位置し、頬を染めながら嬉しそうに見つめる姿。
 それがとても可愛く写っていた。

                    缶



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