【 ひさかたの 】
◆0YQuWhnkDM




83 :時間外No.03 ひさかたの 1/5 ◇0YQuWhnkDM:07/08/07 21:29:27 ID:ACeolRhf
 庭に桜など植えるものではない。遠くから見る限りには美しいものであろうが、花も葉も散り虫もつき、やれ
樋が詰まったの上から毛虫が落ちてきたのと次々と厄介なことばかりが起こる。枝も根も横にばかり伸びいつか
家も傾こうというものだ。
 そういう数多の問題があるにも関わらずつい人間が桜を切らずにおいてしまうのは、やはり花が咲くとその美
しさに次の年もそれを見たいと考えてしまうからなのか。だが、おかげで私の周りは取り散らかって仕方がない。
美しさとやらもわからぬ私は正直うんざりしているのだが、家人は頑として切ろうとはしない。
 そして今年もその季節がやってきた。もうすぐ満開になろうかという桜は日も置かずに散り始めることだろう。
ひっきりなしに降ってくる花弁といったら……まさに「しづこころなく」。少しは落ちついていられないものか。
今日などは花曇で、歌のようにはならないのだろうけれども。
 せんもないことを考えていると遠くで門扉がキイと鳴るのが聞こえる。どうやら潤が帰って来た。最近は帰り
が早いが、すぐに慌しくどこかへ出て行くという毎日が続いている。今日もそうだろう。そう思いつつ目を閉じ
た。だが、意外にも足音はこちらの方へと近付いて来ている。珍しいことだ。伸びをして身体を起こす。潤がこ
ちらに来る時は、私に用がある場合が殆どだからだ。
「ただいま。桜みてたの? 今年はまた綺麗に咲いたね」
 私が桜など見もしないことを知りながら潤が笑う。不意に風が吹いて髪を揺らす。その強さに負けて花弁も何
枚か枝に別れを告げ、頼りなく舞上がる。
 潤は、私の妹分のようなものだ。この家に来たのは私の方が遅かったが、そんなことはこの際関係ないだろう。
幼い頃より潤は私に大変懐いていて、朝な夕なと一緒に出かけたりしたものだ。彼女が成長するにつれてその回
数は減ったが、今でもたまに河原を歩いたりしている。今やすっかり大人の女性として立派に育った潤は国語の
教師をしており、そしてそれが私が先程呟いたような和歌をつい身につけてしまった原因だ。
 学生時代何かというと潤は私の所へやって来て、ある時期から頻繁に教科書を読み上げたり授業の真似事をし
ていた。本人の弁では教育実習にそなえての予行ということであったが。自分で書いたらしい段取りを眺めなが
らひとつひとつのことを確かめる様子を、心の中で応援しながら黙って見ていたものだ。
「ふふ、ついてるよ」
 考え事をしていると潤の手が伸びてきて優しく触れる。どこかへ飛んで行ったと思っていた花弁だったが、ひ
とつが私の頭に落ちつこうとしたらしい。離れて行く手を眺めると、指輪の光がちかりと目を射る。眩しくて目
を逸らすと笑う気配がした。頭に触れたことを嫌がったとでも、思っただろうか。
 光のイメージはいつも彼女と共にある。初めて出会った時もそうだった。寝ている私を彼女が上から覗き込ん
で起こし、見上げたその瞳と背負った空から射す明るさに光を知った。今も日がな寝ている私は、彼女が私を呼
び、顔をあげた時だけそれを意識する。光は目を刺す強い刺激であり、同時に私を包むやわらかいものであった。

84 :時間外No.03 ひさかたの 2/5 ◇0YQuWhnkDM:07/08/07 21:29:43 ID:ACeolRhf
 だが、今目に入った指輪の光は彼女を構成するものとも自然のものとも違った。訣別の光だ。
 潤は、嫁に行く。
 ただその姿を見つめていると、今度は指輪をしていない方の手で触れられた。わかっているのだろうか、私が
それに触れたくないと思っていることを。
 めでたいことだ、祝っていないというわけではない。失敗すればいいなどともとてもではないが思っていない。
潤はきっと幸せになる、わかっている。そしてそれを私は望んでいるのだから。どうしても……どうしても寂し
いと思う心をどうにも出来ないだけだ。
「……もう、準備することがなくなっちゃって」
 縁側に潤が座ってぽんぽんと隣を軽く叩く。近くに来て欲しい時、いつもそうする仕草だ。私がそっと傍に腰
を降ろすのもいつものこと。
「マリッジブルーって本当にあるんだね。……あの人が嫌になったとか、そういうことじゃなくて」
 目を伏せた潤は左手の指輪を触っている。その瞳よりも、今は強い光だ。彼女を押し上げる、支える、私に
は与えられない光。
「今のこの環境と別れなきゃいけないことが怖い……急激に変わらなければいけないことが。何だか女って損な
気がするなぁ」
 ひとつ大きく息を吐くと、口を尖らせてみせる。おどけた顔をしているが、彼女が不安なことは容易に透けて
見える。何せ長い付き合いだ。そっと距離を詰めてみると、どこか張り詰めた顔が緩んで、歪む。
「わかってるのかなあ、私がこんなに変わること怖がる理由……?」
 問い掛けているのではない、独り言のような呟き。少し、奮えていた。――わかっている。
 潤はこの家と、家族と……私と離れたくないのだと。こと、血でも書類でも繋がっていない私とは今生の別れ
とでもいうような思いがされるのだろう。実際そうなってもおかしくはないと私は思っているが。潤は甘ったれ
で私にべったりだった。散歩に出れば私の後をちょこまかと付いて来て、自分から違う道を行きたいと言い出す
ことはほとんどなかった。逆に潤の喜びそうなコースを選んで歩いてやろうと私が気を遣うほどにだ。だが、そ
のままで居られるわけもあるまい。
 そっとその傍を離れて桜を見上げる。暮れ始める日の強さでも目を焼くには十分で、物の輪郭がぼやけていく。
「……甘えるなってこと、なのかな」
 鼻を鳴らす音が聞こえてくる。振り向いてはいけない。潤は泣いているだろう。それを見たら傍へ寄らずには
居られない。それほどに私も心が強くあるわけではないのだ。
「離れたくないよ……」
 少しの間を置いて零された小さな言葉は、はっきりと湿っていた。私は色のない桜を、ただじっと見ていた。

85 :時間外No.03 ひさかたの 3/5 ◇0YQuWhnkDM:07/08/07 21:29:59 ID:ACeolRhf
 それから数日、私に光がもたらされることはなかった。桜は満開を過ぎ、散り始めようとしている。見上げる
と眩しいのでやはりいつものように寝そべり、目を瞑った。時間がどれほど過ぎたか、足音に意識が目覚める。
一瞬潤かと思ったが、違う。珍しい人物のようだ。
「ほら、めしだぞ。置いとくからな」
 いつもは忙しそうにしていて深夜まで帰宅しない潤の父だ。いつもは母親が運んでくれる食事を、どういう風
の吹きまわしか持ってきてくれたらしい。しかし、その声にはおかしいほど覇気がない。
「おとうさん三十年勤続して始めてズル休みしたよ」
 彼は私の前でも自分を「おとうさん」と呼ぶ。事実上私を養ってくれたのは彼とその妻であり、父と言ってい
い存在ではあるが、死んだ両親の記憶がそれを認めない。だが、彼自身のことは敬愛していた。少し情けない部
分はあるがいつも家族のことを愛し、守り、毎日身を粉にして働いて。これほどに沈んだ表情など見たことがな
い。心配になって近づくと、顔をくしゃりと歪めて笑顔を作った。無理矢理、という感は否めなかったが。
「情けないな。母さんにあっさり仮病だって見破られたよ……でも、生まれたのが娘だった時にこうなることは
わかってたなんて言われた。母は強し、だよなぁ」
 やはり、潤がこの家を出て行くことが寂しいのか。自分の思いが父親のそれと重なっていたことがおかしく思
われて、私は笑いたくなった。
「ひかりのどけきはるのひに……か」
 よりによって桜を見て思い出す歌まで同じだ。まあ、無理もない。これは潤が一番好きな歌だった。この桜が
散る頃になると毎年のように根元に佇んで呟いていた。嬉しそうに、寂しそうに。私には桜に情緒を見出すこと
など出来ないが、光と共に散りゆく花弁に包まれる潤は、こうして自分の中に光を蓄えているのだろうかとあろ
うはずもないことを考えたりしたものだ。
「お前には、本当に潤によくしてもらったね」
 桜を見上げたまま「おとうさん」が呟く。表情はわからないが、声はとても穏やかだ。
「潤が嫁いでいってもちゃんと大切にするからな、元気でいてくれな」
 その言葉に心から感謝をする。彼もまた私と同じく、大きな穴が心にぽっかりとあいたように思っているのだ
ろう。その寂しさを人に棘として向けず、優しさとして昇華させることに私は強さを見るのだ。そっと身を起こ
すと、隣に並んだ。同じように桜を見上げることは出来ず、俯いてしまったが。
「ちゃんと食べるんだよ、最近食が細いって母さんが心配してたからな。……おとうさんと一緒に散歩してみる
か? 昔、潤としてたみたいに。おとうさん腹も出てきたしな。のんびり歩くのに付き合ってくれ」
 私は答えることが出来ず、ますます俯いた。今は、毎日外へ出掛けて行くだけの体力もないだろう。その様子
を察してか、潤のものよりずっと大きくて厚い手が私の頭を撫でる。泣けるものならば、泣きたかった。彼らは

86 :時間外No.03 ひさかたの 4/5 ◇0YQuWhnkDM:07/08/07 21:30:15 ID:ACeolRhf
潤が居なくなることで私が気力を失わないように、新たな光を与えてくれようとしているのだ。己の寂しさを紛
らわせたいせいもあるのだろうが、あまりに優しい心遣いだった。
「お父さん?どうしたの、珍しい」
 私としたことが、潤が近づいて来た事に気がつかなかった。はっとして振り返ると、無理矢理笑顔を作った潤
と目が合った。ああ、こういう顔をすると父親に良く似ている。
「男同士話すのもたまにはいいだろう?」
 そう笑った父親の言葉に、潤の笑顔はますます困り顔に近づいていった。

 次の日、家の空気が普段と違うことに私は気付いていた。どこかぴりぴりとした空気を纏い、その時を待って
いる。そうか、今日、潤が家を出て行くのだな。
 チャイムが鳴るのが聞こえた。私は、目を閉じた。

 眠ることも出来ず小一時間たった頃、知っている誰のものでもない足音が聞こえてきた。なんとなくそれが誰
であるかは想像がついたが、目を閉じたままに相手の動向を待つことにした。足音はごく近くまで来て止まった
が、特に声がかけられる様子はない。仕方なくちらりと片目を開くと、思ったよりも近くにこちらを見下ろす男
の姿があった。その後ろから、光が強く射している。
「こんにちは」
 どうやら私が眠っていると思い、起きるのを待っていたらしい。人が近づくことに私がそうそう気付かないわ
けがなかろうと少し意地悪な気分になる。男は、目の高さを私に合わせようとするようにしゃがみこんでいた。……潤と同じように。
「あなたが、しろさんだね。潤から色々話を聞いてます」
 薄く笑んで話す声は、「おとうさん」のものより少し高かった。
「ごめんなさい、俺は潤を貰っていきます。ずっと潤はあなたのことを気にしていたけど……俺が転勤すること
になったから……離れることに耐えられないから、お願いして付いて来て貰うことになった。教師も、辞めても
らうことになってしまった」
 ここに現れた家族以外の人間がしてきたようには、彼は軽々しく私に触れようとしない。真面目に語りかけて
くるところといい、馬鹿のつくような誠実な男なのだろうと思った。
「……必ず、幸せにします。だから、許してほしい」
 きっと、潤はそこに惹かれたのだろう。今、男の背後へゆっくりと歩み寄って目を擦る彼女の真っ赤になった
瞳はただただ優しい。
「親子水入らずでなんて言うからどこ行ったのかと思った」

87 :時間外No.03 ひさかたの 5/5 ◇0YQuWhnkDM:07/08/07 21:30:31 ID:ACeolRhf
「あ、聞いてた……?」
 男は、聞こえてきた声に慌てて照れ臭そうに振り向く。顔が赤い。
「途中からね。……どうして、しろさんに敬語なの?」
「だって、犬は俺たちよりずっと早く歳をとるから……年上じゃない」
「……じゃあ、しろさんは、私の……にい、さ、だからっ……ちゃんと、挨拶してよねっ……」
 まるでその涙を吹き飛ばすように風が強く吹く。盛りを過ぎた花弁が一斉に舞い始めた。
「触って、いいかな」
 男はそっと私の顔の両脇に手を添えると、頭全体を撫でていく。目を細めると、そこには光だけが見えた。
「俺がこの立派な家に負けないくらいの庭付き一戸建てを建てられるようになったら、迎えに来るから。だから、
それまで元気でいて下さいね。俺、あなたにも潤を育ててくれた恩返しをしたいから」
 潤がそれを聞いて何か言っているが、すっかり泣き声に混じってしまって何を言っているかわからない。昔か
ら、泣き出すとなかなか止まらないのだ。幼い頃は泣き止むまで私がついていたが、成長するにつれてそれもな
くなった。潤は私の後ろから前に出て、自ら道を選んでゆくようになった。今は、先に進んでやる者より、隣を
同じ速度で歩んでゆける者が潤には必要なのだ。
「それじゃ、また、また……」
 結局言葉らしい言葉を発せないまま、潤は出て行った。遠くから聞こえる車の音が遠ざかるのを聞きながら私
が顔を伏せようとした時、風がまた強く吹く。まるで潤との別れを惜しむようだと見上げると、桜の花弁は勢い
良く空を舞っていた。紅色のない視界には、光の奔流に見える。眩しくて目を細めた。
 人というのは欲の多いものだ。私のこのいつしか老いた身体にはその時間を待つなどということは到底出来そ
うにはない。もう、十分な程に与えて貰った。
 ああ、だが、しかし。今になって望んでしまいそうだ、身に余るものを。
 今なら、桜が急ぎ散ることを惜しむ心が、そしてそれに焦がれもする思いがわかるのかもしれないと、そう思
っている。舞い散る桜を、空を見上げて。

 しづこころなく、はなの。



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