【 エーテルを見た夜 】
◆p/2XEgrmcs




58 :No.17 エーテルを見た夜 1/3 ◇p/2XEgrmcs:07/08/06 00:04:47 ID:91s/6Msn


 「Tシャツ一枚で寒くないのか? 風、強いだろ」
 「着替えるから、あっち向いてろ。見たら、金、払わないからな」
 高速道路を、水色のオープンカーが走っていく。規則的に並ぶオレンジ色の外灯が車体を舐める。
けたたましい走行音は、乗っている二人の耳にしか入らない。前後には車の影は無く、
会ったばかりの二人は、既に奇妙な連帯感を覚えている。孤独な時だということを、二人とも分かっていたからだ。
運転する男の革ジャンは風を弾き、助手席の少女が着ている、膝の上まである大きなTシャツは、
ばたばたと風に踊っている。男の髪はワックスでとげとげしく固まっていたが、少女の短い髪は盛んに乱れた。
 「姫、そんなにあられもない姿を知らない男に見せるなよ。いい恋が出来ないぜ」
 「前見て運転してろ」
 姫と呼ばれた少女は、助手席で気兼ね無く着替えを始めている。持っていたショルダーバッグから様々な衣類を
取り出しているが、その中に下着も含まれているのでは、男も諭したくなる。
 「文字通りTシャツ一枚っていうの、今まで見たこと無かったよ」
 「僥倖でしょうがよ、実物見られて」
 「そんな色気無い物言いで、パンツ穿きながら言われてもグッと来ないんだよなあ。君の歳も歳だし」
 「うるせえな! こんなガキでも抱きたがるヤツはいたんだよ、大勢」
 男の表情が強張る。少女は意にも介さず着替えを続けているが、彼の表情に気づくと居心地を悪そうにした。
 「……悪かった。娼館にいたのか」
 「通ってすぐ分かっただろ? あの辺りはそういう所なんだよ。やっと逃げ出せたんだ、やっと。
ずうっと先の街まで連れてってくれたら、報酬、弾むよお」
 ポロシャツとジーンズ姿になった少女は、陽気に、盗んだ金だけどさ、と付け足した。
 「追われたりしないか」
 「あいつら、あの町、出たこと無いんだ。田舎の小金持ちが、金、回し合ってるだけだよ、所詮。
アタシらを働かせてたのだって、昔、土地持ってたから権力があるだけの田吾作だしな。
東に逃げたら山の向こう、西に逃げたら川の向こうぐらいにしか、見当つけられないんだよ」
 「姫は、あの町から出たことがあるのか?」
 彼女は事も無げに、無いよ、と返した。彼女は同じ身の上である「田舎の小金持ち」を、「田吾作を」、
一つの気兼ねもせずに罵っていた。その語気には隠せないほどの喜びがあった。
 男は少し悲しくなった。

59 :No.17 エーテルを見た夜 2/3 ◇p/2XEgrmcs:07/08/06 00:05:01 ID:91s/6Msn
 ドライブインからは、揚げ物のにおいがした。少女は大量に食べ物と飲み物を買い込み、
後部座席にそれを広げた。男は買い物には付き合わず、車内から星を見ていた。
 「好きなもん、食べていいよ」
 少女は友達と話すような口調を使うようになった。男は笑顔だけ返し、エンジンをかけた。
車が走り出すと、少女は後ろを振り返った。彼女は遠ざかってゆくドライブインを見ていた。
体験の乏しい彼女の眼には、光の塊が小さくなっていくようにしか、その光景は映らない。
少女は初めて接した食べ物の陳列、効いていない冷房、保温されたフライドポテトの匂いを思い出し、
そこから離れていくことをゆっくりと自覚した。少女はこの時初めて、世界は自分の眼に映る大きさでないと知った。
 「姫は強いんだなあ」
 「……どういう意味だよ」
 少女は言葉を発した時、自分が涙を堪えていることに気づき、震えた声を恥ずかしがった。
その涙は逃亡の喜びからか、世界の大きさに打たれたためか、彼女には分からなかった。
 「隠してるだろ? 見せないようにしてるだろ、俺に。自分が見てきた、嫌なもの」
 男は、少女が醸すものに惹かれていた。Tシャツ一枚で夜道に飛び出してきた時から今まで。
 「弱みを見せないよな。気を遣わせまいとしてくれてるよな。強い証拠だ、かっこいいよ」
 そう言った後で、コーラを取ってくれ、と男は頼んだ。少女はコーラのビンを掴むと、男に突きつけた。
彼がビンを掴むと、すぐに正面を向いて膝を抱えた。顔を隠そうとしたのだ。
 少女は男のことを見られなかった。弱みを見せないと姿勢は、娼館で身につけた手管であり、
体に染みついたそれは、長いこと意識されることも無かった。彼女は、客でもない男にそれを感じさせた自分が、
何故だか許せなかった。それは恥じらいであり、自分の人生への憎しみだったが、まだ彼女にはそこまで理解出来なかった。
 男は少女の頭を撫でた。夏の夜の湿った風の中で、彼女の髪はしっとりと水気を逃がしていない。
 「……なんで、姫って呼ぶの?」
 「そりゃあ、きれいだからさ」
 少女は今まで何度もきれいだと言われた。体の至るところを指して、油っこい発音で、汚い下心でもって
褒められた。言葉の後に舌も指も這わない健やかな賛美は、少女にとってとても柔らかく暖かで、甘かった。
 少女は涙を隠し、顔を上げて聞いた。
 「ねえ、車ってさ、ライトがついてるって聞いてたんだけどさ。あれがそうなの?」
 彼女が指差したのは外灯だった。

60 :No.17 エーテルを見た夜 3/3 ◇p/2XEgrmcs:07/08/06 00:05:15 ID:91s/6Msn
 「違うよ、車体についてるんだ。ただ、この車は作ったヤツが――俺の友達なんだけど――、
イカレててな。三十分も点けてるとバッテリーがあがるぐらい高出力なんだよ。電気が空になるんだ」
 「じゃあさ、ちょっとだけ点けてよ。アタシ、このオレンジの列、飽きちゃった」
 男はダッシュボードからサングラスを取り出し、シガーライターの脇のスイッチに指をかけ、
少女には目をつぶっているように忠告した。
 少女が目を閉じた瞬間、男はスイッチを押した。車体の先端から凄まじい光が拡散した。
瞼の裏の暗闇が、一瞬で砕け、彼女は少しだけ怯えた。男は、ゆっくり目を開けろ、と言った。
 光に目を慣らすと、少女はあまりの光景に言葉を忘れた。
一直線に伸びる道路が、目に映る限り明るく照らされている。オレンジの外灯は存在感を全く失い、
道路の脇に広がる山の裾野にまで光は届き、木の葉が照らされ、闇から緑色が浮き上がっている。
光は闇を照らすだけのものだということ、それはとても美しいことだった。
 少女はシートの上に立ち、フロントガラスを掴み、光が向く方向に叫んだ。
涙が溢れたが、構わずに叫び続けた。男はちっとも迷惑な顔をせず、微笑みながらコーラを飲んだ。
涙を拭いながら、少女は束縛から逃れる自分を感じながら、自由というものの輪郭を少しも見出せないことにも気づいた。
だが、少しも不安ではなかった。気色悪く扇情する嫌らしい照明とは違う、ただ闇を照らす強い光を見て、
少女は、これからどうしたって生きていけると思った。何の根拠も無く、けれど希望を具えてそう思った。
 「アンタ、名前は?」
 少女は叫んで、そう訊ねた。走行音に負けない、大きな音量だった、
 「ラタ、っていうんだ」
 男――ラタも、叫んで答えた。
 「ラタ、アタシね、車の後ろについてる、赤い灯りが好きだった。部屋の窓からそれを見てると、
きれいに光が飛んでって、あれについていけば町を出られるのにって思った。でも、あんなの本物じゃないんだね。
 車のライトって、こんなに強いんだもん!」
 「そりゃあそうだよ、姫。テールランプは自分のためについてるんじゃない、後ろを走るヤツのためなんだ」
 ラタが車のスピードを上げると、姫は明るく笑った。
 「車は前に進むんだ。だから前しか照らさないのさ!」
 おかしいぐらいのスピードで、異常なまでの光を出して、水色の車は騒がしく走っていく。
その後に取り戻される静かな闇を、誰も見ていなかった。

おしまい



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