【 きせき 】
◆QIrxf/4SJM




53 :No.15 きせき 1/3 ◇QIrxf/4SJM:07/08/05 23:37:18 ID:RE6et5yE
 午前中の太陽はとても優しい。窓から差す日差しで、布団の中はぽかぽかと暖かかった。
 小鳥のさえずりに耳をすませば、それが小さな動物たちとのおしゃべりであることに気付く。
「ねえ、窓を、開けて」
 ベッドの横の椅子に腰掛けて、本を読んでいる貴方に言った。
 貴方はにこりと微笑んで、静かに窓を開けてくれた。
 小鳥のさえずりが大きくなり、風の音が聞こえる。カーテンが揺れた。
 私はゆっくりと体を起こし、外を見た。体はまだ動く。
 窓からは、風がたくさん入ってくるけれど、この部屋から出て行くものは何もない。私の髪の毛は、ふわふわと揺れていた。
 大きな雲の周りに小さな雲が群がっている。太陽を避けながら、ゆっくりと流れていた。
 深呼吸をする。大いなる息吹を感じ、生気に満ちていくのがわかる。心の中は、青空と同じように透き通っている。
 小鳥のハミングを聞きながら、蝶の羽ばたきを見つめた。白い花から黄色い花へ、飛び移っては蜜を楽しんでいた。
 貴方の育てた花々は、小さな虫たちの憩いの場になっているのだ。それを見ているのは私。
 時間は、大切な一瞬の連続だ。とても滑らかにつながっている。そのことに気付いた私は、貴方に向かって微笑むことができるようになった。
 全てを見て、全てを記憶して、大事に心の引き出しの中にしまっておきたい。写真のように鮮明でなくてもかまわない。ぼんやりとで十分だ。
 私は唄を歌った。風の伴奏と、小鳥のコーラスに乗せて、誰でも知っている童謡を口ずさむ。
 貴方は本に目を落としたまま、指先で静かに拍を取っていた。
 唄の大切さは、何物にも代えられないものだ。悲しいときに歌えば、悲しみは半減するだろうし、楽しいときに歌えば、楽しさ倍増する。
 小さな動物たちですら唄の力を知っているのだから、人間さまが知らないわけがない。
 貴方は素敵なチェロを弾いて、私に聞かせてくれたものだった。
 唄を口ずさんでいると、ひどく喉が渇いてきた。
「水が、欲しいわ」
 貴方は、小さなクマの描かれた可愛らしいマグカップに水を注いで、ストローを私の口元に運んでくれた。
 ゆっくりと一口飲む。
 貴方は私の背中を支えて、覗き込んでくる。
「おいしい」

54 :No.15 きせき 2/3 ◇QIrxf/4SJM:07/08/05 23:37:34 ID:RE6et5yE
 自然と頬が緩んだ。 今になってようやく、水の味を知ることができた。十数年間よりも濃密な数ヶ月を私は過ごしているのだ。
 時間をかけて水を飲んでいるうちに、小鳥たちは飛び去り、虫たちもどこかへ行ってしまった。静かになった庭先には、風に揺られている草花があるだけだ。
 じっと外を見ていた。数枚の連続写真を繰り返し見ているようだ。とても短い永遠に似ていて、私の生をより確かなものにしている。そばには、貴方がいるのだ。
 上半身を起こしているのは、少しばかり骨が折れる。庭先をずっと見ていたいのだけれど、休息が必要だった。
「なんだか、疲れて、きちゃったわ」
 ふと貴方は席を外した。
 一人になった私は、再び枕に頭を乗せる。
 楽になるようにと貴方が買ってきてくれた枕は、私の首元までやさしく包んでいてくれる。とても、贅沢なものだ。
 天井には、雨漏りの後が
 水に一つ足りないものがあるとすれば、それは甘さだった。おいしいと感じるのは、貴方に注いで貰ったからなのかもしれないけれど、甘いとは思わなかった。
 疲れると甘いものが欲しくなる。ケーキを食べることも、すももをまるかじりすることも、もはやできないけれど、目を閉じれば思い出せる。
 枕の中に貴方の腕を感じながら、私は目を閉じた。そして、ゆっくりと開く。
 すると、すぐ上に貴方の顔があって、少し驚いた。
 貴方はおわんを掲げて微笑んだ。きっと、りんごをすりおろしてきてくれたのだ。
「寝転んだ、ままでも、いい?」
 起き上がるには、甘さが足りなかった。貴方が起こしてくれてもいいのだけれど。
 貴方は頷いて、スプーンで口に運んでくれた。
 徐ら口を開けて、スプーンを受け入れる。歯に当たって音がした。
 舌の上にあるりんごはとても甘かった。
 口の中でゆっくりと動かして、こくんと飲み込む。喉元を下る時も、林檎の甘酸っぱい香りを感じた。
 私は目で微笑んで、もう一口催促する。
 貴方は黙ってスプーンを動かして、食べさせてくれた。

55 :No.15 きせき 3/3 ◇QIrxf/4SJM:07/08/05 23:37:49 ID:RE6et5yE
「見た目は、大根おろし、なのに、ね?」
 貴方はくすくすと笑って、一口だけすりおろしたりんごを食べた。
 私がおわんの中のりんごをすべて食べ終えると、貴方は頭を撫でてくれた。黒目がちな貴方はとても童顔で、見ているだけで優しい気持ちになる。柔らかくて、暖かい手の感触が気持ちよかった。
 貴方の手の大きなペンだこに噛み付いてやりたいけれど、大人しくしていることにする。
 その手はそのまま頬を撫でて、私たちは接吻をした。貴方の唇が、私の唇をついばんだのだ。
「少し、眠るわ」
 貴方は私の手を握った。
 全てを許し、全てを受け入れることが、今の私にはできるような気がする。
 貴方と出会い、私たちはきらきらとした眼差しを向け合った。
 時に求め、時に突き放す。
 きっと、私たちのつくった轍は、何か大いなるものに導かれてできたものだろう。
 私たちの過ごした瞬間の連なりが、たとえ今の私にとっての結果だとしても、何一つ言うべきことはない。
 私はゆっくりと目を閉じる。
 まぶたの裏は、決して闇ばかりではない。秘密の描かれた小さな地図を広げているのだ。宝物はところどころに隠してある。
 ひとつの小さな灯りを心の中にともす。
 プラチナの輝きで浮き上がってくる思い出は、どれほどの金銀よりも価値がある。
 頬が緩む。貴方に触れた手の力も抜けていく。
 涙は流さない。満たされているのだから。
 セピアに色あせた数々の思い出が、流れては消えていく。
 私の名を呼ぶ貴方の声が、だんだんと小さくなっていく。
 全ての昨日という日々に感謝した。
 そして、今、私は飛び立つのだ。
 ふたつの、小さな翼で。
 とても眩しい。



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